いつか―― 元気になったら着ようと夢見ていた。 お気に入りの真っ白なワンピース。 御そろいの生地の白い大きなリボンのカチューシャをつけて。ふんわりとしたパニエでスカートを膨らませて、ドロワーズをはく。 レースの付いた靴下、かかとの無い不思議なデザインの木の厚底のバレリーナシューズ。 (見て! こんなに可愛い!) 部屋を出る前、こっそり鏡の前で全身を映してくるりと回ってみる。 スカートがふわりと風をはらみ、ゆっくりとまたとじる。 ああ、夢にまで見た今の自分! 健康な身体! レースのたくさん付いた、可愛い服! 幸せに笑う、キラキラとした日々! やっと、やっと自分は手に入れたのだ! (もう絶対手放さないんだから!) 幸せに。やっと自分も幸せになるんだから! エミーリアは満足そうににっこりと笑うと、愛おしそうに目を細めて手の中の小さなプレゼントを見た。 (まだ恋人同士じゃないから、指輪はあげられないけど……) 一緒の時間を生きて欲しい。 そう願いを込めて、高価な御そろいの時計を買い求めた。 自分の手のひらにもすっぽりと包み込むことができる、小さな懐中時計。 繊細な彫刻の施された蓋を開くと、中は金の細い針が文字盤を飾り、中央にあいた丸い穴からゼンマイがせわしなく動いているのが見える。 クラシカルな書体の文字盤、華美でありながら上品さを失わない美しいデザイン。 エミーリアはポケットに入れた自分の時計を思い出して、うっとりと笑みを浮かべた。 貴族しか持つことを許されない、高価な懐中時計。 上半分は美しくデザインされた文字盤が飾り、下は竪琴のシルエットに切り抜かれた穴からオルゴールの鍵盤が覗いている。 一目見て恋に落ちたデザインだった。 (一目ぼれなんて、先生への想いと一緒!) きっときっと気に入ってくれるはず! エミーリアはうん、と頷くと、いそいそとフリードリヒの元に向かった。 精一杯のおめかしをした、一番可愛い自分を見て欲しい。 そうして――少しでも自分に意識を向けて欲しい。 そう願いながら。
空も飛べるはず
「先生、起きてる?」 エミーリアが部屋に入ったとき、フリードリヒは窓際のソファーにぼんやりと座って外を向いていた。 起きているのか眠っているのか。後ろを向いているためわからない。 ただ、ほっそりとした肩は一層やつれ、彼が小さく頼りなく見えた。 エミーリアは、返事を返してくれないフリードリヒに少し悲しく思いながら、それでも健気に明るい声をかけると彼に近づいた。 彼女の足音は、毛並みの深い絨毯に吸収され聞こえない。 エミーリアはプレゼントを後ろ手に隠しながら、そろりそろりとフリードリヒに近づいた。 「……何を見ているの?」 寝ていることも考えて、小声でそっと囁きかける。 フリードリヒの豊かな髪から覗く耳が、ぴくりと動いた。 (起きてるんだ) そのことに勇気付けられ、やや大きな声で更に話しかける。 「何か面白いものでも見つけた?」 フリードリヒの細い肩にそっと手をかけると、彼は僅かに振り返ってそっと彼女の手を反らした。 払いのけられこそしなかったが、そのことに小さなショックを受けかけた時、 「――外を」 フリードリヒはかすれた吐息のような声で、確かにそう言った。 「え?」 まさか答えが返ってくるとは思わなかったから。 咄嗟に返事ができず聞き返してしまう。 しかしフリードリヒは気を害したそぶりも見せず、更に穏やかな調子で口を開いた。 「外を見ていたんだ」 外に何があるのか、などどうでもよかった。 ただ、彼が答えてくれた! そのことに歓喜して、その喜びのまま彼の座るソファーに抱きつくようにして、フリードリヒの首にしがみつく。 今度は避けられなかった。 フリードリヒは、自分の患者だった少女が愛らしく甘えてくる様に小さく笑うと、首に回された彼女の手を大切な物でも扱うように包み込んだ。 (どうしたんだろう!? 今日の先生!) まるで昔に戻ったみたいに、優しくて――ううん、昔じゃ考えられなかったくらいに甘くって…… 心の中で大きな花火が打ちあがったみたいに、想いがドカンと膨れ上がる。 (大好き! 大好き!) 好きという気持ちが体中からあふれ出してきて、ぎゅっとどんなに力を込めて彼を抱きしめても足りなくなる。 ああ、幸せすぎて涙さえ浮かびそうな―― エミーリアは幸福の渦に身を任せ、フリードリヒの陽光のような金の髪に顔を埋めた。 そうしてやっと――彼の見ていたものにぼんやりとした目を向ける。 (今日はとてもいい天気なのに……) 外を歩いている人は誰もいない。 黒い二頭引きの馬車も走っていない。 (……どうして?) いつもはキラキラと輝いて見える石造りの街も、灰色に沈黙し窓は硬く閉ざされている。 (変だわ……) 何かあったのだろうか? 気が付いてみれば、鳥のさえずりさえも聞こえない。 エミーリアはやっと違和感を感じ、すと顔を上げた。 フリードリヒは、何を見てあんなに上機嫌にしていたんだろう? 彼の興味を引くものなど、そこには何も見つからなかった。 否。
ちりん
どこからとも無く―― かすかに、鈴の音が聞こえてくる。 エミーリアはビクリと肩を震わせて、鈴の音の出所を探した。
ちりん
見たくもないのに――目が、無意識に音の出所を探してさまよう。
怖い。
何が?
何が怖いのだろう?
この音を聞いてもフリードリヒは何も感じていないのだろうか? 変わらず静かな無表情で外を見つめている。 (あ……) いや、その目の中に今までになかった生気を見つけて、エミーリアは愕然と目を見開いた。 (先生がさっきから見ていたのは、これ……?) この鈴の音の正体、だろうか? エミーリアの顔から表情が消えた。 「……あれは何?」 声さえも固く、フリードリヒを問い詰める。 「ペスト医だ」 しかしフリードリヒはそれに気づかないのか、あるいは彼女に注意を払うことさえも止めたのか。 抑揚の無い淡々とした声で返すと、エミーリアはギリと唇を巻き込むように吸って歯を立てた。 ペスト医。 読んで字のごとく、人々からは死の使いと忌み嫌われている、黒い医者だ。 それを見るのは初めてだったが。これがそうなのか。 人の一人もいない広い大通りを、不気味に鈴を鳴らしながらペスト医達はゆらゆらとした足取りで小さく呪文を唱えながら歩いている。 5人の男 ( 恐らくは、背格好から男だろうと思われた ) は、皆一様に真っ白な仮面を被り、すっぽりと真っ黒のマントのようなぞろり長い衣装を着ている。 口が鳥のくちばしの様にせりだした形の仮面は、目の部分がうつろに丸く穴がうがたれ、大きな鳥の頭蓋骨のようにも見えた。 まるで、悪夢が形になって目の前を行進しているようだ。 (……どうしてこんなものを先生は眺めているの?) 嫌らしい死を模した、異形の化け物! 彼らは医者であるはずなのに、自分の目にはそう映る。 不機嫌そうに、親の敵を見るようにペスト医を睨みつけるエミーリアに、フリードリヒはくすくすと小さく笑った。 「ごらん」 「……」 「彼らが死を警告しているよ」 自分の住んでいるこの辺りも、もはや安全ではないのだろう。 死者は……何人でたのだろう? 恋に浮かれていたエミーリアは知らなかった。 ペスト医の一人は大きな声で何事かを呼ばわりながら、しきりと鈴を鳴らしている。 うっそりとした陰気な声は、聞くだけでも気が滅入り不安を植えつけていく。 その後ろに続く男は、グレープフルーツほどの大きさの銀色のボールを鎖でつるしたようなものをしきりと上下に揺らして歩いている。 エミーリアは形のよい眉をしかめた。 「……何をしているの?」 「街を浄化しているんだろう」 言われてよく見れば、ボールからは白い煙が立ち上っている。 「あれは香だよ」 「……ふぅん」 エミーリアは気の無い返事を返して、ムッと唇を尖らせた。 (馬鹿みたい!) 折角自分が持っている服の中で一番可愛いのを着たのに。 フリードリヒは死の使者に釘付けになっていて、自分を見てはくれない。 (せっかく先生にプレゼントを持ってきたのに) なんだかあげたい気持ちが急にしぼんで、美しくラッピングされた包装もくすんで見えた。 フリードリヒは、一体何を思ってこんなにも熱心に彼らを見つめるのだろう? ちらりと思ったが、それ以上に不快感が大きく、エミーリアは子供のように頬を膨らませると、プレゼントを持ったまま、足音荒く部屋を出て行った。
エミーリアが出て行った後、フリードリヒは僅かな動作で扉を振り返ると、彼女がいないのを確認して、何かを考え込むように静かに瞼を下ろした。
ペスト医達がゆっくりとした足取りで大通りを歩いていく。
ちりん ちりん
涼やかな鈴の音は、いつまでもいつまでも耳に残って消えることは無かった。
2009.9.22 2010.3.28
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