※ 流血、自傷注意

 

フリードリヒは日に日にやつれていった。

すでに肉体の死んでいる彼が、それ以上やせることは無かったが。

それでも。

日を追うごとに、知的だった目からは生気が失われ、急速に年老いたように見えた。

この頃になると、フリードリヒは陽の光を厭うようになり、日中といえどベッドから出ることは無くなった。

何かに怯えるように頭まで毛布を被って隠れる彼に、

(仕方ないなぁ!)

エミーリアは苦笑すると、腰に手を当てて彼の名を呼んだ。

 

父母は訝しがっている。(そんなことは知っている)

使用人たちは、エミーリアにまで気味が悪そうな視線を向けるようになった。(だから何だって言うの!?)

 

フリードリヒはただの医者だった。

娘が世話になっているからといえ、自分たちとは身分が違う。

そんな彼が、厚顔無恥にも娘の部屋に長々と居座っている。

初めは怪我をしているから、と大目に見ていた両親も、一月が経ち二月が経つ頃苛立ちもあらわに、娘の一挙一動に目を光らせるようになった。

健康になった娘。

その娘に何か問題が起こらないようにと。

かろうじてフリードリヒがまだ屋敷にとどまることができたのは、彼が目に見えて病人そのものだったからである。

 

「フリッツ先生!」

エミーリアは勤めて明るい華やいだ声を出すと、毛布から覗く金の髪をそっと撫でた。

柔らかな癖毛が、指が離れるのを惜しむように絡まるのが愛おしい。

(ねぇ先生。大丈夫よ。なにも心配は要らないわ。何があっても、私が守ってあげるんだから!)

声に出さず、祈るように大切に心の中で呼びかける。

何度かそうやって撫でていると、観念したようにゆっくりとフリードリヒが毛布から顔を覗かせた。

「おはよう。先生。もう二時を過ぎたよ」

分厚いカーテンの向こうからは、鳥のさえずりが聞こえる。

フリードリヒは手負いの獣のように警戒した様子で、緑の目を光らせ様子を伺っている。

まるで

(弱虫なゴールデンレトリバーみたい!)

その仕草に母性本能をくすぐられ、エミーリアはクスクスと笑うと、そっと毛布をフリードリヒの肩まで下げた。

「おはよう。先生」

返事を返す代わりにまつげを伏せるフリードリヒの冷たい頬をするりと撫で、青白い血管の浮かぶそこにキスを落とす。

彼が叱られるのを待つ子供のように小さくなっているのは――

エミーリアは愛しいものを見る目でため息を付くと、布団の中に隠れるフリードリヒの手を探り出した。

手が触れた瞬間、ビクリと身体を震わせフリードリヒがエミーリアを見上げる。

怯えの混じるそれに、エミーリアは慈愛に満ちた笑みを浮かべると、彼の腕を導くようにそっと毛布の外に出した。

エミーリアが着せた、人形のようなシャツ。

等身大のアンティークドールのような彼。

エミーリアはフリードリヒを満足そうに見ると、ぽってりとした唇に人差し指を当て首をかしげた。

(かわいそうな先生! こぉんなにやつれちゃって!)

フリードリヒは虚ろな瞳を悲しみに曇らせ、されるがままになっている。

手首を包み込む華奢なレースは血に茶色く汚れ、彼がまた自らの手首を傷つけたことを教えている。

「こんなこと、しなくてもいいのに」

エミーリアは慣れた手つきでサイドテーブルの引き出しから包帯を取り出すと、ベッドに腰を下ろし手当てを始めながら言った。

「血が欲しければ――」

「違う!」

血。

その単語が出た瞬間、激昂するように叫んだフリードリヒに、エミーリアが静かな微笑を向ける。

その、何もかもわかっているんだといわんばかりの母のような笑みに、フリードリヒはたまらないと言うようにくしゃりと顔を歪めた。

「……違うんだ……」

違う。

自分は――なんか、欲しくない!

「違う」

「……別に悪いことじゃないわ」

何度も「違う」とうわごとのように繰り返すフリードリヒの手を、きゅっと握り緊める。

「ねぇ。血が欲しいのは仕方の無いことよ」

 

だって先生は吸血鬼なんだもの。

 

「……ッ!」

当たり前のように無邪気に言うエミーリアの一言に、これ以上ないほどうちのめされ、フリードリヒはギリと奥歯をかみ締めた。

「血が欲しければ、私の血を吸えばいいのよ」

(そうすればずっと先生と一緒にいられる。これからも……ずっと、一緒に……)

夢見るようにエミーリアは言ったが、否定し続けていた事実を突きつけられ、フリードリヒは絶望した。

自分は――

ああ、自分は……

混乱した頭に、エミーリアの毒がゆっくりと浸透していく。

 

先生、ワタシ ノ 血 ヲ ノンデ

 

フリードリヒはたまらず顔を背けた。

早くなる鼓動に、必死に抗い続けた。

こめかみを脈打つあるはずの無い鼓動が――酷く恐ろしかった。

 

 

xxxxx

 

どれだけ眠れぬ夜を過ごしたことだろう。

 

もうこれ以上共にいることはできない。

わかっていた。

早くエミーリアから離れなければ……。

喉の渇きは日増しに膨れ上がる!

渇望するのは!

甘美な赤い――

「……駄目だ!」

フリードリヒは食いしばった歯の隙間から搾り出すように悲痛な声を出すと、怯えるように毛布を頭まで被って、枕に顔を押し付けた。

「駄目だ!」

自分は医者だ!

人の命を奪うようなことがあってはならない!

どれだけこの呪われた身体が血を求めようとも……!

エミーリアをこの手にかけるような恐ろしいことを!

「……許してくれ……」

フリードリヒは震える吐息を細く吐き出した。

「許してくれ……」

謝りたいのは、誰にだろう?

誰にするともない懺悔を聞くものはいない。ただ月光だけが静かにカーテンの隙間から細く光を投げかけている。

フリードリヒは嗚咽をかみ殺すと、わななく唇を巻き込むように吸って牙を立てた。

(助けてくれ――!)

誰でもいい!

この心が! まだ人である内に!

助けてくれ!

呪われた者になど! なりたくはないんだ!

「誰、か! 助けて、くれ……ッ!」

心と身体がバラバラに引き裂かれそうだ!

ああ――!

あまりの痛みに、恐怖に! 声を上げてのた打ち回りそうになる。

「……っく!」

フリードリヒは必死にその衝動を飲み込んでシーツに爪を立てた。

ここはエミーリアの屋敷だ。そんなことはできない。

なにより。僅かに残った理性が、それをすれば終わりだと声をからして告げている。

己の異常をこれ以上さらすわけには行かない!

フリードリヒは苦しげに眉根を寄せ、全てを拒絶するようにきつく目を閉じた。

汗の流れない身体から、ブワリと脂汗が噴出す心地がする。

だが――額も手のひらも、汗を浮かべることはない。

この身体は死んでいるのだ!

苦しい!

苦しい!

心が、声のない悲鳴を上げる。

フリードリヒは枕に強く額を押し付けた。

この衝動から逃れるには――

(血だ!)

血を!!

血を――しかあるまい……

あえてどうしたいのか考えないように、首を振って自分をごまかすと、フリードリヒは浅い呼吸を繰り返し、がくがくと震える身体をシーツに押し付けた。

どこだ?

どこに――

血走った目が、衝動の開放を求めてさまよう。

(血を、血を……)

見つけた!

壁際に自らの医療かばんを見つけ、フリードリヒはうつろな目をギョロつかせ、ベッドから飛び出した。

振るえ力の入らない膝がもどかしい。

フリードリヒはベッドから転がり落ちながらも、這うようにして鞄を手に取ると、半狂乱になって乱暴に手を突っ込んで中をかき回した。

(ない! ない! ない!)

手にゴツゴツと薬や医療器具が当たるのもそのままに、一心不乱にメスを捜し求める。

ついにそれを見つけたフリードリヒは、クマのくっきりと浮かぶ目を見開き震える指に何度も失敗をしながらもメスをケースから取り出した。

カーテンの隙間からもれる月光が、鋭い刃に光を走らせる。

フリードリヒはゴクリと喉を引きつらせると、慎重な手つきで手首にメスを押し当てた。

細い線を描き―― 一拍を置いてぷくりと血が盛り上がる。

歓喜に目を見開き、それを凝視したフリードリヒは、直後わなわなと血走った目を見開いた。

血が……腐っている……。

 

死体。

 

それをまざまざと見せ付けられ、目にブワリと涙が盛り上がる。

「あ……あ……」

血の渇望よりも、絶望の方が大きい。

衝撃に震える指をそのままに、フリードリヒは目元を覆った。

「――ああ……」

泣き顔を隠すように覆った手のひらに――

涙は当たらない。

「私、は……」

(私は死んだのだ!)

ならば!

なぜ!

この身は動いている!?

生き物の理を無視して!

フリードリヒは半狂乱になって泣き笑いの顔で、腕を切り刻んだ。

だが、どこ切っても血は吹き上げることはない。

ただ淀んだ黒い血が、傷口からぷくりと盛り上がるだけ。

しかし己の生を確かめたくて、フリードリヒは尚も自らを傷つけることを止めることはできなかった。

(鼓動が……動かない!)

どうすれば――動かすことができるのだろう……。

 

 

  

2009.9.21

2010.1.18