エミーリアは見違えるほどに健康になった。 体が弱く自分の思い通りに動けないせいで、鬱々と癇癪を起こしていたのが嘘のように、明るく笑うようになった。 それは喜ばしいことだったが……。
長年彼女の世話をしてきたメイド達は恐ろしいものを見るような目でフリードリヒを見ると、そそくさとベッドを整え終え、逃げるように部屋を出て行った。 屋敷のものは皆、彼の異様な雰囲気に気が付いていた。 フリードリヒは、どこか普通ではない。 以前の彼とはまるで別人のようにガラリと雰囲気が変わり、目が暗い闇に染まっている。 艶やかな金の髪は輝きを失い、暖かな微笑を絶やすことの無かった顔は、冷ややかに凍りついている。 まるで高価なアンティークドールのような作り物めいた美貌は、以前と同じ形をしているはずなのにどこか恐ろしく、傍によるとぞっと身の毛がよだつ心地がする。
不安に駆られた使用人たちは噂しあった。 フリードリヒの出自について。 彼の祖父がジプシーであることを。 そして、彼自身が改宗もせず洗礼名を持たないことを。
使用人たちは噂しあった。 どこか狂気をはらんだ目で。 フリードリヒとエミーリアの関係について。 病弱だった彼女が奇跡的に健康になり、見違えるように美しくなったことを。 わがままで気位の高い彼女が、いくら恋のためとはいえ、自分よりも身分の低いフリードリヒに献身的に尽くすようになるなんて。長く彼女を知るものは皆、信じられなかった。
何かがおかしい。 何かが狂っている。 いつからだろう? 気が付かない間に、少しずつ日常の歯車が狂い始めた不安に、使用人たちは身を寄せては、恐怖を吐き出すように噂をしあった。 屋敷の中には、濃い死の気配が漂っている。 何とかしなければ。 早く彼を追い出さなければ。 きっとエミーリアだけではなく、自分達もこの強大な死の影に飲み込まれてしまう。
長年彼女を育ててきた乳母や執事は、彼女を心配してそれとなく諭してみたが、エミーリアはその言を聞き入れるどころか、ハッと顔をこわばらせると、身を翻して部屋に閉じこもってしまった。 『何とかしなければ』 思いは違ったが。 屋敷の人々の心は、その焦り一色に染められていた。
死の病
「ひどいわ」 エミーリアは泣きそうに顔を歪めると、ぽつりとつぶやいた。 「みんな、どうして私から先生を取り上げようとするの?」 やっと、やっと! (先生を手に入れることができたのに!) どうしてみんな祝福してくれないんだろう? エミーリアは悔しそうに顔を歪めると、扉に背を預けたままズルズルと床に座り込んだ。 今更彼を手放すことなんかできない。考えられない。 あんなに苦しい思いはもうたくさんだ! (どうして皆わかってくれないの?) 「どうして皆はフリッツ先生を追い出そうとするの?」 (先生はあんなに優しいのに!) そして (あんなに可愛そうなのに……!)
エミーリアは白い清潔なシーツにくるまれて、苦しそうに眉を寄せて眠るフリードリヒを思い出して、胸を痛めた。 眠っていてもきっと、彼は悪夢に苛まれているのだろう。 危険な光をはらんだ鋭い瞳は瞼の内に隠れ、音も無く透明な涙を零す彼はハッとするほど美しく、心が張り裂けそうなほど孤独だった。 彼にはもう自分しかいない。 彼を助けてあげられるのは、自分しかいない。 (ええ、そうよ! 先生のことを本当に知っているのは、私だけなんだから!) 誰も知らないフリードリヒの秘密。 吸血鬼であること。 それを知っているのは自分だけだという優越感に、エミーリアはいたく満足し、同時に庇護欲をかきたてられた。 先生を助けて上げられるのは、私だけ。 (私だけなんだから!) この秘密は、誰にも打ち明けることはできない。 教えてなんかやらない! だから。 できるだけ使用人をフリードリヒに近づけないようにして、自分が彼を助けてあげなければ。 (かわいそうな先生! でも、私だけは先生の味方なんだからね!
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エミーリアは決して器用な娘ではなかったが、彼のために何でもしようとはりきっていた。 緊張に顔をこわばらせながら、紅茶を運ぶ。 ティーカップになみなみと入れられた紅茶は、たぷたぷと揺れそのたびにどきりと足が止まる。 フリードリヒは、はらはらとしながら、一生懸命に紅茶を運んでくれるエミーリアを見守っている。 目が合うと彼女は嬉しそうに顔をほころばせて、褒めてといわんばかりに彼に紅茶を差し出した。 彼女の笑みに、血を流した心がきしんだ音を立てる。 だけど、ああ、だけど。それを気づかれてはならない。 フリードリヒが微笑んで礼を言うと、エミーリアはパァッと顔を輝かせて、誇らしそうににこりと笑った。
あの神父が言うには、自分はどうやら吸血鬼らしい。 もし伝承が本当ならば……。 自分の血を浴びた彼女もまた無事ではいられないはずだ。 じく、と心がまた血を流した。
彼女は生まれつき体が弱かった。 成人しても長くは生きられないだろうと思っていた。 それがどうだろう。 今では見違えるほどに健康になり、幸福そうなピンク色の頬をしているではないか。 こんなにも快活に笑うようになり、てきぱきと動くようになったではないか。 これは……自分の血による影響だろうか? フリードリヒは苦悶に満ちた表情で頭を振った。 (健康になっただけならいい) だけどもし――。 もし、他に恐ろしい影響があれば…… フリードリヒはぞっとして背を振るわせた。 ああ――時間が戻るものなら、戻して欲しい! 彼女を、こんなに恐ろしい運命に巻き込んでしまうなんて! こんなに幸福そうに笑う少女が、自分のせいで血の呪いを受けてしまうかもしれない。 それを思えば、恐怖と不安に震えそうになる。 今すぐ彼女の傍から逃げ出したいのに、罪悪感にかられて――彼女が心配で、一瞬たりとも目を離すことができなくなる。 フリードリヒは怯えている事を気づかれないよう、できる限り優しい笑みを浮かべると、指の震えを必死に隠して紅茶を飲んだ。
エミーリアは華やいだ笑い声を上げながら、いろいろな話をしてくれる。 フリードリヒはそれに一々相槌を打ちながら、しかし他のことを考えていた。
エミーリアは健康になった。それは見せ掛けだけでなく、体質そのものが急激に変化していた。 (なぜ……?) 医者である自分にはこの変化が信じられない。 もしかして、健康になったのではなく、自分のように心臓が止まっているのではないか? ある夜不安に耐え切れなくなって、眠る彼女の鼓動を確かめたことがある。 それは確かに力強く脈打っていた。 そのことにどれだけ安堵したことだろう。 神に感謝したのは、初めてかもしれない。 可愛そうなエミーリア! 静かな夜の帳に包まれ、少女は安らかな寝息を立てている。 その無垢な表情に、かきむしられるように胸が痛んだ。 まだ若い、自分とは何の関係も無い少女を、こんなことに巻き込んでしまったなんて……。 どう責任を取ればいいのだろう? 吸血鬼なんて信じてはいなかったが。 こうして、心臓が止まってもなお自分は生きているのだ。信じないわけにはゆくまい。 (なら……、伝承も本当なのだろうか?) 吸血鬼は己の血を与えることで、人間を仲間にすることができたはず。 それは血を奪ってから、というのが条件なのだろうか? ……自分は彼女の血を奪ってはいない。 じゃあ彼女は――? まだ人間なのだろうか?
嬉しそうに笑うエミーリアの声にハッと我に返ると、フリードリヒは彼女に合わせるように目を伏せて口元に笑みを浮かべた。 神父の言葉をもはや信じないわけには行かなかった。 彼は何かがあれば自分を頼れとエミーリアに言っていた。 彼女は拒否したが、遅かれ早かれ彼の手をとることになるだろう。 それが例えどんな結果を招くことになろうとも…… フリードリヒはさりげなくティーカップを置くと、布団の中で手のひらにきつく爪を立てた。
日に日に冷たくなっていく身体―― 脈打つことをやめた心臓。 白く透き通るような肌に浮かび上がった血管。 まるで蝋人形のような……。 否、死体そのものの身体……。 フリードリヒは頬にまつげの影を落とすと、自嘲するように笑った。
換気のために開け放された窓からは、冬の香りのする風が吹いてくる。 薄いピンクの花柄のカーテンを揺らし、窓辺に生けられたカサブランカの香りがフワリと鼻腔をくすぐった。 エミーリアは喋るのを止めて、じっとフリードリヒを見つめた。 彼が自分の話を聞いていないことは気づいていた。 何かの物思いに囚われて、ふさぎこんでいることも。 だから。 少しでも彼の心を軽くしてあげたくて、色々な話をしてみるのに。 フリードリヒはお愛想程度に笑うだけで、ちっともこっちを見てくれない。 闇に囚われた彼を救い出すことができない。 でも。 (負けないんだから!) エミーリアは一人意気込んだ。 必ず彼の心を闇から取り戻してみせる。 (吸血鬼だから何だって言うの?) 自分はフリードリヒを化け物だとは思わない。 (でもきっと……先生は自分のこと、化け物だって思ってるんだわ) だから好都合だった。 他人と会いたくないだろう彼の弱さにつけこんで、エミーリアは当初の予定通り、父母を説き伏せフリードリヒを屋敷の一室に閉じ込めていた。 彼を極力誰にも合わせないようにして、 「怪我をしているから」 そう言い訳をして、ベッドに彼をおしこんでいるけれど……。 あれだけの傷がもうすっかりふさがっていることに、彼女は気が付いていた。 あの神父に襲われてから、まだ一月も経っていないというのに! エミーリアは、半身を起こしてベッドに横たわるフリードリヒをじっと見下ろした。 (先生は、昔から細かったけど……) 今は消えそうなほどに儚くて怖くなる。 柔らかな金の髪は、午後の日差しに溶け込むように淡く煌き、血の気の失せた白い横顔はぼんやりとした輪郭だけを残して消えていきそうに見える。 じっと見つめていると胸が苦しくなって、エミーリアはきゅっと胸元を握りしめずにはいられなかった。 (ねぇ、フリッツ先生……) 呼びかけたいのに、声が出ない。 どうして彼は、自分と一緒にいるのにこんなに哀しそうなんだろう? たくさん面白い話をしてあげるのに。 どうしてこっちを見てくれないんだろう? (こっちを見てよ! ねぇ!) 祈りを込めてすがる様に横顔を見つめても、残酷な美しい顔はちらりともこっちを見てくれない。 ただ静かな緑の瞳に、密やかに色々な思いが浮かんでは消えていった。 エミーリアは彼を引き寄せようと、白い腕を伸ばした。 フリードリヒはエミーリアに触れられるのをひどく拒んだが。 強引に触れた手はあまりに冷たくて――エミーリアはぎょっとして思わず手を離しかけて、慌てて彼の腕を胸に抱きしめた。 (先生の身体は――) もう、死んでいる? これは死体の冷たさだ。 ス、とみぞおちが冷たくなったが、すぐに自分の弱さを叱咤するように唇に歯を立てると、エミーリアは諦めたように項垂れるフリードリヒに抱きついた。 こんなに密着していても。彼の鼓動は伝わってこない。 (でも……それが何だって言うの?) 死んでいても、彼はここにいるし喋ることも動くこともできる。 それは生きていることと変わらないではないか? 彼はこんなにも美しい。 エミーリアが好きだったフリードリヒの瞳は、一層明るい緑色になり、暗闇では僅かに光って見えるようになった。 (でも、先生は先生だわ!) そんなこと、愛の前では些細なことでしかない。 (そうよ! 私は先生を愛しているのよ! 愛しているんだから!) 満足そうにうっとりとエミーリアは目を閉じたが、フリードリヒは苦しげに顔を歪めて、シーツに爪を立てていた。
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フリードリヒはあまり笑わなくなった。 口をあければ、鋭くとがった牙が覗くようになったからだろう。 彼は必死で、自分の異形を押し隠そうとしていた。 ベッドの天蓋から下がるレースに守られるように隠れて、フリードリヒはずっとぼんやりと窓の外を眺めていた。 苦悩に満ちた瞳は壮絶なほどに美しく、見るものの心をかき乱さずにはいられなかった。 この頃になって、やっとエミーリアの心にも焦りが生まれ始めた。 エミーリアはフリードリヒの横顔を見つめて、形の良い唇を引き結んだ。 窓の向こうでは、また薄い黄土色の煙が上がっている。 今日もまた、伝染病で何人かが亡くなったのだろう。 一日、一日と確実に濃くなっていく死の煙は、どんよりと立ち込めた雲の下、町を包み込むようにうっすらと広がり、人々の心に影を落としていく。
ああ、また人を焼く匂いがする。
エミーリアはぞっと身体を震わせると目を伏せた。 (もし、もし先生のことが、王宮の兵士たちにばれたらどうなるんだろう?) 異端審問にかけられる? それとも火あぶりにされるのだろうか? すぅ、と頭のてっぺんから血の気が引いた。 (そんなことさせない!) 絶対にフリードリヒは自分が守ってみせる! (この部屋にずっといれば、先生を守って上げられる!) だから。 (先生はこれからずっとここにいて、私だけを見ていればいいのよ!) 屋敷のものだけなら自分が何とかすることができるけど。 屋敷の外のものまでには、自分の力が届かない。 もしフリードリヒがここから出て、自分のいないところで何かがあれば―― エミーリアは想像に目を吊り上げると、ギリとスカートを握り緊めた。 (させない!) フリードリヒの髪の毛一筋たりとも、傷つけることは許さない! 早く、早くこの部屋から死を追い出さなければ。 できる限りフリードリヒに普通の生活をしてもらって、使用人達の疑惑を晴らさなければ。 (兵隊達なんかには、先生を連れて行かせない!) もっと窓辺に白いバラを飾って、 (ううん。それだけじゃ足りない!) もっと部屋いっぱいに飾って、バラの香りで死の匂いを追い出さなければ。 エミーリアはベッドでおとなしく座っているフリードリヒを見ると、慌てて庭に駆け出した。
2009.9.21 2010.1.14
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