合気道 (光和堂刊より) 

◆    合気道とは

・   燃ゆるもの”それは実に逞しく魅力的なものであり、不思議な程吸引力を持っている。合気道は燃えているものであり、燃ゆる中から限りなき寂空への自覚を表示した、強烈なる宇宙の実相とも見ることができる。

・   いまここに合気道を学ばんとすれば、その人がいかなる動機で入ったとしても、この燃ゆる逞しさの中にとけ込むことを最も必要とする。なぜならば、吸引力なきものは死滅を意味し、死んだ形骸を意味するからである。

・   生命力に満ち満ちた日本文化の断面を、こうした合気道の焔の中で感得し、身を以って味わうことは、実に愉快な事である。

・   しかもこの無限の生命力により、日常生活の茶飯事より舞踊、健康法等各方面にわたり融通無碍の働きをなし得るのならば、我等人間社会に対して斯道の貢献するところは、実に大なるものがあると言わなければならない。

・   合気道は天地の実相に即した永久性を持ったものであるから、これを今日我等の生活のすみずみにまで生かし、かつ又時代と共にいつもこれに応じて行くことができるのであって、修者は日常稽古の心得を右に置いて、諸生活の一端に到るまで実現する時にこそ、人間性に溶け込んだ真の合気道を体得したものということができるのである。

◆ 合気道の精神

・   大自然に同化し一体化した動きであり、そこには対立相克の世界もなく、相手もなく、ただ自己の気が宇宙の気に合うして動くというものであり、その体的表現が一つに合気道として現われてきたものである。

・   合気道は和合の道であり、万有帰一の大精神を根底として動く体的表現の至妙境である。

・  「合気は大きく和するの道にして、宗教にいう天国とか或いは大宇宙完成に対し、その羅針盤として実現を計るの道」である。

・   即ち敵の無い境地、相手の無い世界、造物主が造られたこの地球上で何の争いを起こす必要があろう。愛と和合の真心によって、中心に帰一し、美しい天国浄土の世界をきづくことが、この道に与えられた使命であり生命である。

・   そして、この使命を達成するには、たゆまざる修練によって正勝吾勝の境地を自悟しなければならない。

・   正勝とは、正しきに勝つことであり、正しいことは断乎としてこれを行い、邪悪なるものをすべてこの世から追放することである。かくして更に進んで、正邪共に無しという境地に至るのである。

・   吾勝とは、自己に勝つことであり、自己の持って生まれた天職使命を完遂することである。そこには自己の安易なる満足への郷愁はゆるされない。

・   古より武道は精神によって生きるとされている。

・   気心体一致の合気道

・   しかしながら一面において、合気道が武道である限り、それは飽くまでも強くなければならない。どんな邪なものが来ても、いかなる不正な事象に対しても、断乎としてこれを払いのけて、正しきを護るだけの強さは常に持っておらなければならない。

・   道主の創始した合気道はあらゆる修業の結果感得したところを、体的現象に表現しているものであるから、その発するところは天地の理法にかない、天地の気を受け、大自然の動きにとけ込んで、そこに何等の無理もなく、五体すべてがその気に満ち満ちて、予想外の偉大な力が発揮されてくるのである。

・   「この世の中は、人が経綸して行くものであって、人があっての天地である。目をつむれば何も無くなる。自我と私欲の念を去ったら、天地はすべて自分のものになるのである。合気はこうした精神の道と、体の道とが一つになって現れたものである。」と喝破している通り、天地の気と一体となったところに合気の道の至妙な深さがあるのである。故に合気道は、統一の武道であり、中心の武道であり、又帰一の武道であるとも言うことができる。

・   「合気は真実そのもののあらわれであって、愛で世の中の人を吸着し、和合させ、いかなる武器ができてもこれに和合してゆく道である。怒って来れば笑ってこれに和するということこそ、真の合気でなくてはならぬ。」

・   「武道の根源は、神の愛-----万有愛護の精神-----である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。その時以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や、名誉や、財宝は勿論のこと、強くなろうという執着も一切なくなった。

・   「武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることである」と私は悟った。

・   すなわち、「武道の鍛錬とは、森羅万象を正しく産み、まもり、育てる神の愛の力を、我が心身の内で鍛錬することである」と私は悟った。

・   「天地の心を以って我が心とし、万有愛護の精神を以って自己の使命を完遂することこそ武の道であり、単なる武技はそれに至るべき道しるべに過ぎない」と言い切っている。即ち武道を学び、苦心惨澹その真髄を感得した道主は、第一に精神的指導理念の目標を打ちたて、第二に自己の学んだ技術を合気の“気の流れ”“気力”“魂力”に帰納してそれに生命を与え、日本武道の持つ高度な精神面と優れた技術面を人類永遠の社会に生かし得たのである。

・   換言すれば、道主こそはこの合気について世の中にはっきりした道を指示し、目標を与えた第一人者と言うべきであると思う。

・   「合気道には完成というものが無い。道は無限であり、汲めどもつきぬ泉のようなものだ」とは、いつも道主の口にしている言葉である。

・   「合気」という名は、昔からあるが、「合」は「愛」に通じるもので、私は自分の会得した独特の道を「合気道」とよぶことにした。したがって、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異なるのである。

・   合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。

・   合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。

・   ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」

・   何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(武を生み出すこと)ではない。 だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。

・   即ち、絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。

・   勝つとは、己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。

・   しかし、以下にその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて、偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。

・   大きく和するの道 合気道の奥義はいわゆる大和である。ひとたび強さが魂の練磨と完全に一致した時には、更に数段の力を発揮するのである。

・   合気道においては、局部局部の技も必ず全体との関係を有し、技そのものが宇宙の自然の流れに同化していて、始めなく終わりなく絶えず動いているのであって、従って急に力を入れたり、俄に力を抜いたりする過激な技は皆無である。しかし、どんな場合でも常に頭の頂から足の先迄、体中に気が満ちているのである。