2003.8.3日分 芳川が家に戻って来ると、香月が待っていた。 「御免ね、浩ちゃん。無理言って」 「いやいや、色々勉強になったよ」 「で?今日の結果は?」 「ああ、君が、2位、4位だった。優勝は、磯川鳩舎で、あのパイロン3世号だったよ」 「流石ですね、最高の仕上がり状態です。現役最高競翔鳩でしょう」 「皆もそう言ってたよ。でも、磯川君は、君の紫竜号とは比べられない・・そんな高い形容をしていた」 「えっ・・磯川さんが・・?」 「ああ、資質、成績。結果として、パイロン3世号が評価されるが、紫竜号の次元はもっと高い所にあるのでは?そう言う最大限の評価だよ」 「一流の競翔家ですからね、彼は。紫竜号の生い立ちに敏感に迫っているのかも知れない」 「少し、寒気がしたよ。川上さんが茶化してくれたんで、場は持ったがね。でも、今年は、もう駄目なんだろう?紫竜号は」 「うーーーん。厳しいですよね、今の状態じゃ。この鳩だけは、俺のデータにまるで入らない。自分が間違っている気がいつもしますよ」 「川上さんは君を天才競翔家と言っている。俺も見ててそう感じるが、紫竜号に関しては、磯川さんと君の認識は、まるで同じ。そう言う意味で、やはり別次元の鳩なんだろう。君が翻弄される程、やはりこの先俺は、不安を感じざるを得ない」 芳川が自宅に戻って、香月が、鳩舎の中へ入る。 「紫竜号・・・お前に、俺の意思が通じるのは何時の事だろうね」 紫竜号は、香月を見下ろし、爛々と輝く目で、睨んでいた・・。 次の週の500キロレース。香月は今期初めて自分で、持ち寄り場所へ出向いていた。すぐ人だかりが出来たが、香月が持ち込んだのは、カズ・エース号を初めとする、10羽の鳩達であった。川上氏はこのレース、20連合会総合レースとなるのだが、大羽数参加で、89羽もエントリーしていた。今期の川上氏は、短距離よりも中距離から徐々に集中して、狙っているような・・そんな考えが見て取れた。香月は短く会釈しただけで、すぐ閉函規正、そして放鳩車は出て行った。 「寄るかね?」 川上氏はそう言ったが、香月は、 「いえ、戻って書物の整理がありますので、今日は帰ります」 「そうか・・。」 佐野が早口で、香月に告げる。 「凄いよ・・川上鳩舎、長距離鳩の主力を全部このレースに集中させているよ。俺もタンギ号を参加させているけどね」 「新放鳩地のせいですよね。」 「ああ、もの凄い羽数になるんじゃないかな。25連合会で、2万3千羽は超すようだ。」 「そうなんですか!それは凄いなあ」 「何で、君は400キロに全部持って来たの?」 「調整が、そこしか無かったからですよ。何しろスタートが400キロなんで」 「色々大変そうだね。ま、明日は天気も良さそうだしね」 そう言って、この夜は帰路につく香月であった。明日は芳川も、帰舎を同時に待つ事になる。 連続投入となったカズ・エース号だが、今期のこのレースで、引退。やはり種鳩として鳩舎を移される事に決まっていた。400キロレースでは、この鳩が初めて着外に沈んだが、短距離の銘鳩に位置するような素晴らしい成績をこれまで収めていた。5つの優勝、一つの総合優勝。近未来の競翔は、中距離主体になって行くだろう。香月、川上氏の一致した意見だった。だが、香月は自ら、超長距離系を目指す。 絶好の晴天の中、7時に放鳩された鳩群・・。予想通り素晴らしい高分速続出のレースとなり、香月鳩舎の一番手はやはり、カズ・エース号だった。芳川の興奮した声が響く。タイム寸前上空には50羽程の群れが、一分間隔で通り過ぎて行った。香月鳩舎にも続々と鳩が戻り、2時までに8羽が帰舎すると言う、スピードレースになった。香月は、カズ・エース号一羽だけタイムを打った。 開函規正には、香月が今期初めて行った。高記録に賑わう、持ち寄り場所には香月の周囲に学生競翔家達が集まり、助言を求めていた。香月は学生競翔家の憧れであり、又先生でもあった。磯川は少し遠巻きに座って、その様子を微笑みながら見ていた。ようやく一段落した頃、磯川が香月の所に近寄った。 「よお!」 「あ、お久しぶりです」 「凄いよね、今日のレース。分速2000メートル超えてるって話だよ」 「凄いレースになったもんですね、殆ど上位はコンマ秒、数秒単位でしょう」 「ああ、総合は間違い無く、東神原連合会だと言う事だ。こうなると、君のエースは有利だよね」 「いえいえ、分かりませんよ。この混戦のレースでは」 香月は、確かに有終の美を飾る、カズ・エース号の上位を確信していた。 「で、さあ、話は変わるけど、君の紫竜号の今後の予定は?」 「それが・・400キロレースで、主翼の左側大羽を傷めちゃったんですよ。」 「そうなの・・?具合は、どんな感じ?」 「先端7ミリが切れたような状態ですね、2枚」 「その程度か・・切れば?」 「えっ・・!」 香月は磯川の提案に少し戸惑った。 「ここで立ち止まらす鳩じゃない。今年は1000キロを参加しとかなきゃ、来年が無くなるだろう?」 「磯川さんの提案は、分かります。それは考えて居なかった事ではありませんが・・」 その会話を聞いていた川上氏は、少し厳しい顔で2人の会話に入った。 「それは・・理屈ではそうだろうが、短距離ならともかく、長距離に参加させる鳩には、過酷なもの。まして、片翼だけの切断では、浮力バランスが崩れる。両方の羽2枚。計4枚は、極度の負担では無いか。そんな案には賛成しかねるな、香月君は選択しないだろうね、勿論」 強い言葉で、川上氏は迫った。 「あ・・はあ」 香月は、そう言う言葉を発せざるを得なかった。磯川は少し、不満そうな顔をした。 「お言葉ではありますが、紫竜号の場合、豊かな副翼があります。大羽2枚の先端が少し短い程度では、殆ど影響はありませんよ」 「そう・・断言出来るかな?君はそうするとして、実際にどんな些細な状況においても、絶対だと、君は言い切れるのか?」 「それは・・鳩レースに絶対はありません」 「なら・・最大危険度数を削除するのが、競翔家じゃないか。君の言うのは挑戦であり、冒険だ」 「確かに・・仰る事は正論ですよ、川上さんの姿勢にも感服します。けど、紫竜号には、そうすべき運命があるんじゃないでしょうか?」 食い下がる磯川にはらはらしながら、周囲が見守った。川上氏の表情はいつに無く厳しかった。 「・・どう言う意味かな?」 「では・・何故出生を川上さん、香月君が隠しているのかは分かりませんが、白竜号、ネバーマイロード号の仔として、その天分を紫竜号が受け継いでいるからと言ったらどうですか?」 「な・・・」 川上氏と香月の顔が凍った、周囲の会員が集まった。 ざわざわと、この場はレースの結果を待たずに騒がしくなった。 「どうです?否定されますか?もう隠しても無理ですよ。はっきりした証拠もあります」 磯川が、血統書を差し出した。周囲の驚きは、最高潮に達した。ここで、香月はとうとう、正直に話した。 「今更隠しようも無い事ですし、だからと言って、紫竜号が競翔に駆りたてられる必要性とは、結びつきません」 郡上氏が、溜息まじりに尋ねた。 「では、何故今まで内緒にしてたの?」 「紫竜号は・・得られようとして得られた鳩では無いんです。気まぐれな神のいたずらか・・そんな奇跡の仔鳩誕生を白川さん自身も、想定しては無かった。なのに・・紫竜号がせめて、凡庸な鳩であってくれたら、これ程、俺も苦悩する事も無かった筈だし、ここで皆さんに大騒ぎされる事も無かったと思います。内緒にする気なんて気持ちは無かった・・でも、初レースで、日本記録全国優勝をした紫竜号の、競翔鳩としての将来を思う時、それは、環境として静かに競翔を続けさせてやりたい・・そう思いました。で、無ければ、恐らく紫竜号は周囲の雑言によって、潰されていたと思うんです」 川上氏が続けた。 「白川さんと、この香月君の交流を知っている私は、どう言う思いで、この香月君が紫竜号を育てて来たのか分かってるし、故白川さんからの遺言もある。考えても見たまえ。日本鳩界を代表する、超銘鳩同士の仔鳩。この唯一の血を使翔すると言う事が、どれ程大変な事なのかを。だから私は助言し、今まで隠して来たのだ。いずれは素性も分かるだろう。でも、それまでは、そっとしておいて欲しかったんだよ」 磯川の顔面が蒼白になっていた。 「申し訳・・ありません。ただ・・悪意として暴露したのでは無い事を分かって下さい。俺は、川上さん、香月君と同様に、紫竜号の資質を認めています。それは、得ようとしても得られない、孤高の気高さと、素晴らしい筋肉、理想的な体の紫竜号に惚れたからです。それ故に、是非これからも活躍して欲しいと思う気持ちで言ったんです。」 集計を終えた、会長達と、佐野を交えて、紫竜号を中心とする談義が始まった。 「ここに居る会員に言っておくが、口外は無用。香月君、川上君の気持ちを察してやれよ」 高橋会長の言葉に黙って会員は頷いた。 「さて・・磯川君、その気持ちは純粋だと言う事にして、君の提案の真意はどこにある?」 高橋会長が言う、先程の話を聞いていたようだ。 「今、大羽先端を切れば、これから先のDC、VC等1000キロレースには間に合うと思いました。典型的な超長距離鳩である、紫竜号は来年のGNには完璧な体になって、一番力を発揮する年代。その為香月君は、紫竜号を体が出来るまで、素質を温存する方法で、能力をこれまで、抑えて来たんだよね?」 恐るべき、磯川の慧眼。それは川上氏すらそう見て無かった。香月がは、頷いた。まさに、三国志の仲達か孔明・・競翔界のライバルの目は、鋭かった。 「君達は・・我々の常識や視点を遥かに超えている」 高橋会長、郡上氏、小谷氏が唸った。 「来年の為に、今期の1000キロがあると言うのか?」 川上氏が聞いた。磯川も聞く。 「そうです。今年の方向が、選手鳩存命か、否かの見極めでしょう。違うか?香月君」 香月が答える。 「そうです。紫竜号は自らをコントロール出来ません。その苦しみは、今脱皮するか、終わるかの瀬戸際です。競翔鳩に結果としてついて来る栄誉の記録の為に競翔を続けるんじゃ無いんです。俺は、その素質を100パーセント引き出してやりたい。それが、白川さんに報いる為である。そう思って居ます」 場は再び静まり返った。高分速に沸く500キロレースの開函の夜では無い雰囲気であった。 |