白い雲トップへ  次へ   参考資料   お願い  登場鳩

2003.8.7日分

GCHレースとなった。香月鳩舎の参加は一羽。紫竜号が400キロからの大ジャンプで、1100キロGCHに参加させられていた。主翼の先端は、磯川の提案通り少し切り込まれていた。それによって、紫竜号の飛びぬけて長い主翼からして、影響が出る程の事では無かった。香月は、紫竜号をどのレースに投入するかで、決定を悩んでいたのだが、今期の競翔が磯川も言っていたように、終わったのでは無かった。このレースが紫竜号にとっては、初めての長距離メジャーデビューとも言える。香月はこのレースまでに、紫竜号の贅肉を殺ぎ落とし、初めて完璧とは言えぬまでも、十分なコンディションで、このレースに参加させていた。
この日の紫竜号は、気負い過ぎる程気合が漲っていた。その同じ籠の中で、パイロン3世号が声を掛けた。
「よお、おっさん。又会ったな。久し振りだな」
「お前か・・。今度こそ借りを返してやるぜ」
「ふふ。気の早いおっさんだぜ。海を渡るのは初めてかい?」
「2度目だよ。お前こそ、大丈夫かい」
「ふふ・・はあっはっは。」

パイロン3世号は笑いながら、紫竜号から離れた。
パイロン3世号は前年CHレースで、総合10位になっている。前年のGP総合3位と、今春の400キロも優勝している。並みいる参加鳩達中でも突出した鳩だ。周囲の鳩達からそのやりとりの様子に失笑が漏れていた。しかし、紫竜号の意欲は益々高まって行った。
その頃鳩舎では、2回目の日下氏からの子鳩が到着していた。今度も素晴らしい出来の仔鳩だった。芳川が上空を飛ぶ、先に到着した仔鳩を指差して、にこやかに言う。
「見てご覧よ。もうあんなに高く舞い上がっている。今は、鳩舎も淋しいけどさ。すぐ一杯になるよね。」
「うん。種鳩鳩舎には全部入らないからストックバードとして、色違いの私製管を作ってるよ。秋には、競翔家芳川のデビューだね」
「ああ。実を言うと、一男がこっちを任せてくれるって聞いてから、自分の鳩舎は考え無くなったよ」
「狙い通りだ」
「うん?俺は一男の手の内だった訳かい?」
「俺はね、浩ちゃんと一緒に競翔をしたかった。それだけだよ」
「ああ、俺も実はそう思ってた。ただ・・一点を除いてね」
紫竜号は、もう競翔に参加したよ。結果が出てから判断してくれよ」
「何かが・・起る・・そんな気がするよ、俺にはね」

芳川は、表情を曇らせた。
その2日後、悪天を避けた放鳩は、午前7時と言う比較的遅い時間となって一斉に大羽数が羽ばたいた。「体が軽い」紫竜号は思った。無駄な筋肉を殺ぎ落とした紫竜号は、自分の自由に動く理想とする体に満足していた。一直線に先頭集団に張り付く。
「お・・おっさん。無理するなよ。ははは」
パイロン3世号、見慣れた顔の白川系鳩群が、先頭を飛んでいた。どの鳩よりも先へ・・紫竜号は、単独トップに立つ。見る見る集団を引き離し、曇天の空に消えて行った。早い・・他の鳩群は思った。紫竜号は圧倒的な速さで飛んで行く。見慣れた風景が見えてくる。前年飛び帰ったコースだ。
その頃、香月の家に川上氏から電話が入った。川上氏は、このGCHレース前のCHレースで、白兼号で優勝、総合19位に入った。今年も好調であった。次々と素晴らしい鳩群が生まれる白川系は、日本鳩界のトップとして、今や磐石な地位を固めていた。それは、川上氏の手腕が、一層白川系を磨き上げたのだ。
「7時の放鳩だったよ」
師弟の関係は、既に義理の親子となった関係よりも、深かった。信頼し、尊敬し、信頼されてもいた。
紫竜号もGCHレースには、最高の状態で、参加出来たね。大羽を切ると言う私としては不満で、万全な状態じゃないが、放鳩車に積み込む前に触ったら、最高の状態だった。磯川君じゃないが、確かに・・紫竜号を眺めたら、どんなチャンピオンも色褪せるよ。私も実は、紫竜号のファンなんだ。ネバー号の再来・・それ以上かも知れない」
紫竜号には振り回されますが、一番このレースが良い状態だと思います」
香月も肯定した。
快調にその頃紫竜号は飛んでいた。霧の立ち込める津軽海峡を躊躇する事無く、一直線に飛び越える。あの悪夢の昨年を忘れるかのように・・紫竜号は知っていた。唯一当日一羽帰りの自分が、トップに立てない理不尽を味わった事を。紫竜号は更に加速をし始めた。もっと先へ・・もっとだ。曇天の空、驚異的なスピードが紫竜号を押して行く。気流は紫竜号を運んだ。紫竜号の資質とは底から止めどなく溢れる才能の泉だ。その本能は、自らコントロールするのでは無く、自然に湧き出るような力となって、発揮されて行く。今の紫竜号の体は、ほぼ完成の域にあった。海峡をどの鳩よりも一番に渡りきった紫竜号。その先に昨年南下した、あのコースが見える。紫竜号は思った。「こっちを飛べば、早い」紫竜号に恐怖心は、無かった。本能が、迷う事無く、南下コースを取った。紫竜号のこの選択は、実は間違っては居なかった。曇天の中、隼等の視力は効力を弱める。紫竜号の本能は、死への恐怖を上回った。しかし、どこかで、紫竜号の脳裏には、昨年の出来事が引きずっていた。低空を飛ぶ紫竜号。そして、圧倒的に他を引き離す竜号に少し油断が生じたのは、この時であった。低空で、無風の状態に業を煮やした紫竜号が、陸地に急角度を取ったのだ。山際に進路を取る事で、上昇気流に乗り、家路までの飛翔を加速する事。この選択もやはり、紫竜号として間違ったものでは無かった・・が・・。高山に向かう途中で、紫竜号に異変が起った。自分の位置を突如見失ったのである。
「ど・・どこだ?ここは・・」
紫竜号は、旋回をする、それは何度飛んでも、同じ位置に戻る。自分は狂ってるのか・・・紫竜号は思った。そこは、地磁気がずれる鉱山の跡地だった。この選択が、1分遅れていたか、早かったなら・・紫竜号の1100キロ唯一羽当日帰りの、日本記録レコードでの総合優勝は確実であっただろう。それ程紫竜号は、充実していたのだ。体力、気力、知力。当に最高の出来でもあった。紫竜号は、急降下を始めた。一端、羽を休ませて、休息を取る為に・・しかし、その地は、紫竜号に更なる試練を与えた。硫黄の噴出する大地。紫竜号は、再び上昇。この時紫竜号は思った。自ら、冒険する事の危険を。意を決した紫竜号は、高く高く舞い上がった。ようやく紫竜号に、明るい日差しが射したように、自鳩舎の位置が叉見えて来た。紫竜号は再び、海に向かった。が、その時海からは、低気圧による激しい雨と、強風が吹き始める。紫竜号は、低空を飛びながら、民家の見える上空に向かった。これ以上、羽が濡れたら危険・・そう思った紫竜号は、民家の屋根下で、羽を休める事になった。既に、夕闇が迫っていた。この大幅な、紫竜号の迂回の中、パイロン3世号、白川系一群は、安全な空路を辿り自鳩舎まで、既に200キロ地点まで戻っていて、そこで羽を休めていたのだった。大きく迂回した紫竜号は、前半稼いだ距離も貯金を使い果たして、鳩舎まで、300キロの地点。この100キロの差は、もう挽回不可能。雨足は強く、明け方まで、止む事は無かった。夜間飛行する事も紫竜には選択出来なかったのだ。薄明るくなってから紫竜号は家路を急いだ。少し雨に濡れた体は重く、上空に上れない。羽ばたきを助ける風は吹かない。紫竜号の歯車が狂っていた。一方開けた平野部を戻るパイロン3世号達は、ゆっくり飛び帰っていた。今更慌てて帰る必要など無いからだ。先頭を行く鳩群は皆無。しかし、次第にパイロン3世号は、少しずつ距離を白川系鳩群に離されて行く。白川系の5羽が、スピードを増したのだ。スピードでは叶わない。パイロン3世号は真南に進路を変えた。少しずつレースは変化して行く。圧倒的有利とは、どの鳩も言えない。近距離の鳩舎に有利に傾く、この1100キロGCHレース。白竜号ような圧倒的なスピードが無ければ、最遠隔地の東神原連合会が、総合優勝を手にするのは容易な事では無い。総合一桁と総合優勝では、全く価値が違うのだ。その圧倒的不利の情勢は、又刻々変化しつつあった。紫竜号は、突如折からの風に高く舞い上がっていた。鳩舎まで、一直線の距離に迫った時、前方に一羽の鳩が見えた、鳩舎方向に急降下する紫竜号
「おおっ!」
振り返った、パイロン3世号が身震いした。猛スピードで、急降下してるのは、あの「おっさん」と形容した鳩。
「よお、若造。まだそんな所に居たのかい」
紫竜号は、その横をすり抜けた。逆転・・この不利を紫竜号は、3度ひっくり返したのだ。だが、その過ちを自身は知る由も無かった。紫竜号は食いつぶしてしまったのだ、この時、自身の才能を・・。
紫竜号が鳩舎に到着したのは、午前9時40分。打刻をした香月だったが、その余りの姿に驚いた。紫竜号の全身はずぶ濡れ、羽毛は剥がれ落ち、主翼を完全に傷めていた。紫竜号に風が吹かなかったら、飛ぶのもやっとの状態だったかも知れない、昨年負った傷口はぱっくりと開き、1100キロGCHをいかに、この鳩が無謀な飛翔をしたか、香月は悟った。傷口を消毒し、主羽を3枚ずつ香月は抜いた。紫竜号をしばらく舎外に出さない為だ。
午後になって川上氏から電話が入った。
「やあ。どうだね?」
好調のようで、川上氏の口調は明るかった。
「はい・・何とか午前中に戻って来ました。でも、紫竜号は自分を壊してしまったようです」
早い帰舎の割りには沈んだ香月の言葉に、川上氏は尋ねた。
「・・どう言う・・事かな?順を追って説明してくれるかい?」
「はあ・・今晩俺が行きます。鳩時計も預けなきゃいけないし、その時地図でご説明します。」
そう言って電話を切ると、芳川に電話した。芳川は勤務であったが、午後から戻って来るようになっていた。
・・・昼から戻って来た芳川が驚いた。
「わあ・・・どうしたんだ・・この有様・・」
紫竜号の体に真っ赤についた赤チンを見て、芳川は驚いた。見事な絹のような羽毛もぼろぼろ、主翼も短くなっていた。
「主翼3枚は駄目だから、抜いたよ。それより、見てよ・・この傷・・」
「どうして、こんなになるの・・?」
「もう・・どうしようもないね、
紫竜号は自分で、自分を潰そうとするんだ」
吐き捨てるように香月は言った。
「もう、これで、年貢の納め時・・良い機会と思えば良いさ」
芳川は安心したように答えた。
「ああ・・もう、呆れたよ、
紫竜号
香月は疲れた表情で、言った。
「で・・どうなの?この紫竜号の帰舎は・・」
「ああ・・さっき川上さんの所の帰舎が、余り詳しく聞けなかったんだけど、5羽が殆ど同時刻だったらしくて、11時前とか言ってたなあ・・。」
「それで、
紫竜号は?」
「タイムはしたよ、9時40分頃だと思うけど」
「それじゃあ、早いじゃないか!」

芳川が大きな声を上げた。
「そんなもん・・もうどうでも良いや・・」
香月の緊張の糸は切れているようで、吐き捨てるような口調で香月は言った。順位には全く感心を示さなかった。それ程、紫竜号に対して、全てを裏切られる思いがしたからであろう。
「死ぬよ、
紫竜号。今度のレースで」
香月はそう、紫竜号に向かって言った。その言葉を理解できる筈もなく、疲れた体を鳩舎内で休めていた紫竜号だった。
香月の苦悶が始まった。それは、悉く裏切られ続けた紫竜号との残り一年を予感するように・・。
そして・・1週間後、GCHレースの発表が行われた。紫竜号・・GCHレース3万9千642羽中総合優勝。絶賛の嵐が吹き荒れる。最遠隔地での総合優勝だった。雑誌社の写真を香月は無理を承知で、差し替えて貰った。とても、現状では見せられない体だからだ。出生も全国に知れた。これはもう隠しようも無い事だった。しかし、あらゆる取材を多忙を理由に香月は断り続けた。このレース、磯川のパイロン3世号も連合会2位、総合9位に入賞、文句無しのCHの称号を得る。紫竜号にも打診はあったが、延べ飛翔距離が少ない事で、見送られた。が、銘鳩大鑑には記載される事に。香月は時の人となったのだ。川上氏は3位から7位を占め、総合17位、28位、46位、68位、90位、佐野がタンギ号で、8位、総合97位、高橋鳩舎が9位、総合126位、郡上鳩舎が10位、総合187位・・他。
最終GNレースは、郡上氏が、優勝、総合21位、川上氏が2位、6位、浦部が、3位、磯川が4位、小谷氏が5位、佐野が7位、高橋鳩舎8位、渡部鳩舎9位、西条鳩舎10位と、連合会では、総合21位を筆頭に、それぞれ、26位、35位、40位、48位、56位、64位、71位、89位、99位と入賞をした。
この春のレースはようやくフィナーレとなったのだ。しかし・・喜ばない男が2人。香月と川上氏・・それぞれ違う視点で、初めて師弟の間に見解の相違が生じていたのもこの頃だった。