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2002年12月22日分

この時の香月には、ある考えがあった。100キロ、200キロと何故、佐野に鳩を預けたのか、それは、例の子鳩が他の会員達の目に触れる事を嫌ったからだ。そう・・香月は例の子鳩を・・競翔に参加させていた。川上氏は、香月程の男が、何の裏づけも無く競翔に参加させる筈が無いと思っていた。勿論川上氏の脳裏に、その子鳩が競翔参加と言うカードは全く入って無かった。種鳩にするのだろう・・そう思っていたらからだ。それは、他の連合会のメンバーも同様の事であった。佐野を除いて。
香月はこの時苦悩していた。例の子鳩の圧倒的な潜在能力を。100、200キロでもタイムを取ってれば、ダントツの優勝であった事を。今期を次代の種鳩ピン太、グランプリ号×シューマン系交配の仔鳩だけに切り替えていた香月は、少数精鋭主義だった。実際、子鳩も多く取って無かった。川上氏は、今期香月の参加はもう無いのかなと思っていた。だが、この時・・香月の思惑は・・その川上氏の読みを遥かに超えるものであった。
香月はその仔鳩の能力を危惧していた。短距離をセーブ出来ないその力は、先天的な長距離タイプの素質を中距離競翔鳩として終らせてしまうだろう・・素質を自ら潰してしまうのでは?・・・そんな危惧であった。その体はもう成鳩のものに近く、茶褐色の羽色だが、暗い選手鳩鳩舎の中では、夜目が利くのかと思う程、爛々と光を放つ。その瞳『白竜号』のような、瞬間の燃えるような気性の鋭いものを感じた。そして、ますます密になる羽毛と、手に取れば、体がぐにゃりとする程柔らかい筋肉は、「ネバ−・マイロード号」を受け継いでいた。まさしく、仔鳩は超銘鳩の両親の最大の特徴である資質を持って生まれて来たのだ。更に、茶褐色の羽色でありながら、胸には、紫の光線によっては光が反射し、眼の輝きと相まって、蠢く竜に似て・・。香月はこの仔鳩に「紫の竜・・紫竜号」と命名していたのであった。これが、紫竜号伝説の始まりだった。
そして、700キロGPを持ち寄り前に、S工大から、連絡が入った。2次試験の合格をその時点で80パーセント確信した香月達であった。両親、川上氏に報告した後、最後の面接試験に香月は向かっていた。彼はこの時、初めて周囲の人に涙を見せていた。彼の努力がこれまでいかほどであったか、知る香織と周囲の人達も喜びの涙を見せた。どんどんと、香月、そして、紫竜号はその運命の波に引き込まれて行く。誰かが操るように・・深く、更に深く・・。
面接は極めて短時間で簡単な質問形式だった。その面接官は、S工大教授陣の中でも特に高名な動物生態学の権威である、桑原善一郎教授であった。
「君は18歳かね。若いねえ。過去にもほとんど高校からストレートに入学した者は居ない。君の論文を見たけど、やはり専門的見地からは、厳しいと言う指摘もあったが、実にユニークな発想だった。興味深いので、一つだけ質問するよ」
「はい」

やや、緊張しながら香月は答えた。
「君は、人間と鳩とはどちらが優れていると思うかね?」
難しい質問だと思って緊張していた香月だったが、その質問に笑顔で答えた。
「はい、勿論人間と言えますが、能力を最大限に引き出す力は、鳩の方が優れています」
「はっはっは。こりゃいい、はっはっは。君は中々の科学者のようだ。楽しみに待ってるよ。私の講義を受ける事になるから、是非生態学の研究室のチームを希望してくれたまえ。数少ない研究員しか居ないが、出来るだけの設備と資料を用意しよう。はっはっは。」

思いがけない言葉で、香月は感激した。大学でも特に名の通った教授にチームに加わってくれと言われたのである。それだけ、香月の研究テーマが、認められたと言う事を意味するのだ。こんなに順調に・・全てが歯車のように回転して行く。不思議な一致と共に。
そして、700キロGPの持ち寄り前日だった。香月は、川上宅へ合格祝いで呼ばれていた。香月はこの日重大な決意も胸に秘めながら・・。楽しく談笑しながら、香月は香織からプレゼントのペアのネックレスを首にかけて貰った。
「有難う・・香織。有難う御座います。川上さんご夫婦に感謝します」
「何を言うんだ。君の努力だよ。君の頑張りは、香織からも、そして私達も良く知っている。本当に良く頑張ったね。おめでとう!こんなに早く合格の声を聞けるとは、正直思わなかったよ。これは君の努力以外のなにものでもない」
「そこまで仰られると。感激も一塩です。でも、この合格はここで川上さんとの出会いが無ければ、ありませんでした。僕の方こそ、夢に向える喜びに感謝します」
「謙遜だよ、君の何事にも妥協しない、全力の努力の結果だ。」

香織が少し頬を赤らめて言った。
「私ね、きっと香月君は受かるって思ってた。人の何倍もの努力を知ってるから。夢に向かってるから」
川上氏が言った。
「夢って何だい?」
香織が制する。
「駄目よ。これは私と香月君の問題なの。今は内緒よ」
「ははは。分かった、分かった。ところで香月君、この前の話なんだけど・・」
「はい、実は俺も今日お話しようと思ってました。明日が、もうGPの持ち寄りですし、俺もこれで、全力でレースに集中出来ますから」
「うん・・聞こう。君の狙いは何だね?応接室へ行こう。香織・・後で、茶を運んでくれ」
「はい、はい・・。」

母親と香織は目を合わせて笑った。父親と仲の良い娘の夫・・と言う、将来の姿を想像するより、長男がこの家にずっと居るような感じでもあった。