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2002年12月24日分

この夜、香月は重大な事を川上氏に相談出来なかった。それは、きっと愛鳩家の氏からは、大目玉を喰らうような途方も無い事であった。しかし、話の途中から顔色が悪くなった氏に、何も言えなかった。香月は、ある試みを紫竜号に対して実行していた。それは、もしかしたら紫竜号を失ってしまうかも知れない、無謀なものでもあった。
次の日、持ち寄り場所に12羽の鳩を連れて来た香月を見かけて、磯川がすぐ近寄って来た。
「よお!忙しかっただろうから、もう君の、今春の参加は無いなって思ってた。大学受験の方、どうだったの?」
「ええ、合格しました」
「そう!おめでとう!君・・知らなかったんだけど、S工大受験したんだってね。凄いね!」

周りの学生達が集まった。わいわいがやがやと香月達を中心に話題が盛り上がった。
「で・・いきなり700キロへ持って来るのは、GP?それとも、この後の長距離狙いかな?」
磯川は真の狙いを即座に見たようだ。香月は笑った。
「隠せませんね、磯川さんには。ええ、今春の俺に出来るベストの調整をやってきました。仕上がりには少し自信があります」
すぐ側に居た北村が言った。
「うん・・香月君がこれ程言うのは珍しい。余程の裏付けがあっての事だろう。過去D地区Nの総合2位もある事だしね。特に今年の場合、前年追加された、KCが面白い事もあって、参加羽数は減っている。川上さんの所の昨年度の全体総合3位と言う記録もあるしね。地域的には不利な我が連合会でも、充分総合優勝のチャンスは出て来た訳だよね」

北村は今や、連合会の中堅クラス、若手の面倒見も良く、「兄貴」と慕われている。そして、そのまま閉函時間となって、すぐ香織の所に向かった。昨夜の事もあり、近くの喫茶店で談笑する2人であった。
「ねえ、香月君、大学へ通うのはどうするの?」
「自動車の免許を取ろうって思ってる、今まで、そんな余裕も無かったからね」
「私の場合、冬休みになんとか教習所に通って受かったので、学校へは自動車で行くわ」
「橋本さんと一緒だから、心強いよね」
「学校の方はどうなってるの?」
「ああ、通常の大学と違ってさ、国家公務員のような施設だから、週に3回、講義の他は、自分が所属するチームでの研究自体が、そのまま一学科のようになっている。時間的余裕はあるんだ」
「でも、その分厳しいんでしょ?」
「ああ、卒業までに論文を完成させないと、5年、6年、最長7年間は大学だ。」
「その論文が完成出来ないと?」
「卒業出来ない・・と言うか、ただ卒業しても修士課程と同じ。国家の仕事には従事出来なくなる」
「貴方は?」
「俺は、獣医になりたいんだ。でも、そうなるには、何年か、国が指定する機関で働く事になるか、教授としてS工大に籍を置く事になる。その為に、学費の免除や、研究費が出る訳だからね」
「本当に特殊な大学なのね」
「ああ」
「大学に残るって方法もあるんでしょ?」
「それも、ある。教授の道だね。でも、俺は研究より、より多くの動物と触れ合いたいんだ。」
「応援するわ」

別れ際、2人はいつもの公園で、唇を重ねあった。香月は、もう既に大学へ通いながら香織の通う短大側のペットショップでのアルバイトが決まっていた。そして、そこの主人は強豪風巻連合会の競翔家、日下部四郎と言う人であった。細身で長身、口に髭を蓄えた、お洒落な人だ。この人との縁も、後に香月の競翔家として多大な影響を与える事となる。
2日後の放鳩を前に、香月の心には大きな不安があった。紫竜号の帰舎についてである。香月は、典型的な超距離鳩として天分を持って生まれたその資質を、短距離で使い果してしまう危惧ゆえに、敢えて紫竜号の体重を80グラムも殺ぎ落としていたのだった。何故?愛鳩家を自負する香月が、こんな無謀な策を講じたか・・その訳は、その計り知れない紫竜号の、突出した方向判断力と、圧倒的なスピードを生む筋肉にあった。生まれながらの長距離鳩の資質を、持て余すように使ってしまう紫竜号をこのままで使翔してしまうと、中距離競翔鳩として、スピードバードの称号は得るかも知れないが、それで終ってしまう危惧を持ったからだ。確かに、無謀な試み・・しかし、それに成功すれば紫竜号は大きな成長の一歩を手に入れる事になる。師匠川上氏ならどう使翔するだろう・・香月は考えた。きっと、中距離鳩で成績を残した後、種鳩にするだろう・・と。香月はそうは思わなかった。あの・・白竜号と出あった衝撃・・それは、「わしはまだ飛べるぞ!」そんな声が自分の心に響いた気がした。ネバーを見た。この完璧な超長距離競翔鳩が。何で最終のGNで、その力を十分に発揮出来ずに、引退してしまったのだろうか・・と。紫竜号が、今・・成鳩目前の体になって思った。この目は、「まだ飛べるぞ!」その両鳩の遺志を受け継いで生まれて来たのだと・・。この紫竜号を育ててくれと言う、白川博士の遺志を持って生まれて来たでは無いかと。それは、香月にとっての義務では無いか・・と。それ故に、香月には辛い選択だったが、無謀を承知で実行したのだった。