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2002年12月26日分

それは、紫竜号であった。何故だ?香月は、驚愕した。しかし、気持ちと裏腹に体は反応する。ゴム輪を外して殆んど無意識の内にタイムしていた。その時香月は空白の瞬間から覚醒し、時間を見る。ヒロ、シルク号をタイムして、1分も経て無かったのだ。再び彼は驚愕した。こんなに早く紫竜号が帰って来れる筈が無い。ギリギリの体力のコンディションで、海沿いの高速コースを・・?。当日帰って来れる確率とて低かったかも知れないのに・・。700キロを飛び帰る限界の体力であった筈だ。流石に止まり木で座り込む紫竜号を見ながら、香月は時計を再確認した。更に驚く。5時10分前であった。と言う事は、GPの優勝タイムの1200メートルをクリアしている事になる・・3羽とも。香月は自分の予想すら遥かに飛び越えた紫竜号の持つ脅威の能力に、恐怖に似た気持ちさえ覚えたのだった。しかし、香月は勤めて、冷静に分析しようとした。この紫竜号を完全な体力のまま参加させていたら、どんな大記録が生まれたかも知れない・・否・・それは結果論に過ぎない。香月は考えた・・。持って生まれた天性の広く、密集したその副翼は、紫竜号の体を上空高く舞い上がらせて、気流に乗ったのであろう・・。その体重を絞り込んだ事で、かえって浮力が増し、紫竜号は気流に乗ると言う事を得たのだろう・・それは、確かに香月の試みに叶った事・・しかし、その方向判断力、潜在能力の余りの凄まじさに、その香月自身が恐怖したのだ。ようやく冷静になりつつある香月の鳩舎に、次の帰還が、5時30分に1羽、続いて35分に1羽、6時10分に叉1羽。第一配合の子達2羽が同時に帰ってのを見届けてタイムを完了すると、まだ誰からも電話が無い事に不安を覚え、川上氏に電話した。
電話に出たのは、香織だった。
「香織?俺・・川上さんは?」
「お父さんは、今ブザーが鳴って、鳩舎の方に行ったわ。すごく帰りが遅いからって心配してた見たい。呼んで来ようか?」
「いや・・いいよ。それじゃ、すぐ俺がそちらへ向かうんで、家の中に戻って来たら言っといて」

受話器を置くと、香月は自分の予測した事が現実となるのを感じた。今、12羽参加中7羽帰舎していた。もう陽は落ちかけて当日帰還は望めそうも無い。しかし、それにしても川上氏が52羽参加で、この時間にまだ帰舎中とは珍しい事もあるものだ・・香月は思った。当然、前年度GP総合3位の川上鳩舎は、優勝候補筆頭の筈なのに。既に、使翔も3年目。白川系の真価が発揮する年であり、得意の距離である筈・・何故?香月は思った。香月はオートバイのアクセルを強く握った。
しかし、その川上氏は平然としていて、1羽の帰舎に喜んでいた。香月から言い出した。
「あの・・帰舎が悪いようですが・・?」
川上氏はしかし、笑顔で答えた。
「いや・・そんな事は無い。分速1100メートルも出てるんだからね。それにしても、良く、当日帰って来たよ。他の鳩舎でもほとんど当日帰って来ていないようだから、君の所は特別だけど、今連絡があって、私と君を除いて、連合会で24羽しか戻って来て無いんだよ。」
「そう・・なんですか?でも・・」
「原因はあってね。実は、700キロの持ち寄り前に鳩舎に猫が出没してね。幸い被害は無かったんだけど、鳩が怯えててね。状態としては良くは無かった。今春今一つなのは、猫のせいだと思う。もう少し早く気付いて居れば・・。鳩舎から外が見えないように、仕切りも作って何とかやって見たが、間に合わなかったようだ。ま、でも、解決したし、これから徐々に鳩も落ち着くだろう。今日は1羽だが、入賞圏内。明日何羽帰って来るのかが、私としては心配だよ」
「そうでしたか・・。」
「で・・?君はかなり良かったようだね、思惑通りだったかな?」
「ええ、12羽中、7羽今日タイムしました」
「ほお!それは凄い!ダントツの帰舎率の上に早そうだね、何時?」
「ええ、早いのが、5時前・・それで3羽。後はバラバラで、最終的に6時10分前に2羽で、7羽なんです」
「君がGPを制した・・か。恐ろしく早いタイムだね。分速1200メートルだと、総合一桁は確実だろう、それも3羽なんて。ははは。参ったなあ。君には」

川上氏は笑った。
「でも・・他には?」
「君の次・・と言うと連合会では渡辺鳩舎が、5時25分頃と聞いている。渡辺さんの所も新血統が活躍してるようだね。今年は特に強いよ、この鳩舎は。とにかく、連合会で君と私の所の帰舎を加えて、やっと当日32羽だ。GPレースの7時放鳩ってのは、しかし、鳩には酷だよね。特に今春の君の読みだと、400キロで体力を消耗した鳩は、この700キロで更に、体力を削がれる事になる。むしろ、明日戻って来る鳩の方が心強いよ。その鳩達が山沿いコースを取った大多数の鳩群だからね」

川上氏は読んでいた。香月の試みを。ただ、その400キロを経験させている鳩と、させていない鳩は、過去に置いての帰還率も違う事も、データは証明していた。香月はそのデータを知りながら、敢えて、違う事を選択したのだ。
「ああ・・そうだ。紫竜号はどうだったの?」
「それが・・その3羽の中に居るんですよ」
「何と!・・・」

川上氏は非常に驚いた顔をした。
「俺は、今回は非常に難しいかな・・と思ってました」
「ふううむ・・。血は争えないと言うか、銘血は裏切らないと言えば良いのか・・・で、特別に訓練はした訳だ。君の事だから」
「はい・・夜間訓練はしました。短距離なんですが、5キロ位の訓練を2回」
「ほお・・夜間訓練については否定も肯定もしないが、色々君もやってるねえ・」

香月は、今回のもう一つの重要な事を川上氏に言い出せなかった。それは、初めて、師匠に秘密を持った事であった。この事が後に重大なものに繋がるとは、この時点の香月と川上氏には知る由も無かった。
「ところで・・磯川さんの所の情報はどうですか?」
「いや・・当日帰舎は無いようだね」
「やっぱり・・」
「やっぱり?何で君が分かってるんだい?」
「磯川さんは、今期全レースに優入賞果たしていますが、ジャンプ方式に少し不自然さを感じたんです」
「どう言う?」
「はい、100キロ、200キロと参加したら、300キロと参加させるのに、今春は500キロへジャンプしてます。それは昨年の轍を踏まない為か・或いは・・」
「或いは・・?聞きたいな。ははは」
「少ない参加って聞いてたんです。これだけ羽数を制限していて、ペパーマン系が入賞圏内に居ないのが、むしろ不思議ですよ。GP狙いで無いとするなら・・」
「考え過ぎじゃないのかい?確かに脅威の飛び筋だが、主力を分散してるし、そんな事は無い。結果もこれまで出して来ているよ」

2日目に開函となって、香月のタイムに話が持ちきりとなったが、その開函間際に磯川が鳩時計を持ち込んで来た。磯川が当日帰していると言う報告は、入っていなかったのだ。香月が訊ねた。
「磯川さんも当日帰されてたんですか?」
磯川は怪訝そうな顔をしながら答えた。
「ああ・・700キロは重要なレース。何だい?おかしな顔をして。それより、今春200キロで中断してた君がこの場に顔を見せている事の方が脅威だよ。どんなマジックを使ったんだい?」
磯川は、少しおどけたように言った。むしろライバル復帰が嬉しそうでもあった。
「で?何時だったの?自信があるって言ってたから、早かったようだね」
「ええ、5時10分前でした。」
「凄く早いね。そりゃ驚くよ。俺が6時10分前だから、君の所と1時間も差があるよ。何で?って俺が聞きたいよなあ」
「それで、何羽参加だったんですか?少ないとは聞いてますが」
「ああ、5羽だよ。それで、当日2羽だ。今日は全鳩戻って来たよ、朝に」
「そうですか」
「君の中間訓練が上手く当たったようだね」
「えっ・・自分は訓練の事は言って無かったですが」
「その位分かるよ。じゃなきゃ、こんな差が出る訳ないさ」
「でも、磯川さんの主力は500キロからジャンプでしょ?」

香月が言うのを、磯川は眼を丸くした。
「ふふ・・相変わらず恐い奴だな。去年の轍は踏まないように、今年は400キロには少なく参加させた。主力は300キロから500キロに持って行ったよ。400キロも俺は今シーズン独自に訓練した。ちょうど平野部と、山沿いの分かれるコースの川沿い訓練をやったんだ。」
「・・流石ですね。同じ狙いと見ました」
香月は改めて、磯川の並々ならぬ視点に驚いた。今後も最強のライバルとなる事を確信したのだった。