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2003年1月7日分

初夏の日差しが明るいペットショップ店内に射し込み、飼料を運ぶ香月にも汗が落ちる。大学へ入ってもう2ヶ月。春の作出も完了し、総数46羽の仔鳩を得た。極度の近親交配による弊害の仔鳩も何羽か居り、これらの鳩を大学の飼育室に持ち込むには、まだまだ幾つもの垣根を越えねばならなかった。秋の競翔までには、第1選抜、第2選抜、そして秋レースでの第3選抜で何羽残せるか。経験鳩4羽を種鳩にした今、春の残りが6羽。これから第2次鳩の作出を各1腹ずつの予定である。こう言う時、雌鳩を多く持っている鳩舎は有利だ。偶然とは言え、香月のところには雌鳩が多い。変則的な春のレース参加だったとは言え、良い成績を収める事が出来た。秋のレースは本格的に取り組む事の出来るシーズンだ。1レース、1レース蓄積されてきたた独自の手腕は、幾度の成績に証明されている様に、川上氏もおびやかす存在になっている。日下部ペットショップの中で、額に汗して働く香月、香織。仄かに香る清涼の気。周りの誰もが愛さずに居られない、明るく煥発な若者達、その笑顔。日下部夫婦もいつしか本当の弟、妹のように、自分達も惹かれている事に気付いた。一瞬の後には、もう過去の香月の姿が映っている。急速に階段を昇る、現在の輝くその姿を見つめている日下部氏達がそこに居た。大きく香月は成長しようとしていた。

第2編 事件

広い学内に咲き誇るひまわりの花が、盛夏の強い太陽に負けない位大きく、黄色い花を咲かせていた。この夏季休暇中には、学内に通う学生もまばらだが、香月にとっては、一ヶ月後に控えた論文に、自分の全てがかかっていた。学内の図書室へ朝から晩まで通う毎日となっていた。自宅で論文を書く者、避暑地で書く者、色々だろうが、香月はこの大学の図書室が好きであった。数多くの専門書、辞書、歴代の教授陣の論文が読める。その数も膨大であった。香月は論文とは直接関りは無いが、坂上と話し合った飼料について興味があった。鳩は好き嫌いが多い。その為栄養のバランスが崩れる。何か画期的な飼料が無いものか・・坂上とは試験が終ったら会う事になっている。香月は、その夏季休暇前半に論文を急ピッチで完成ようとしていたのだった。それは、香織との2泊3日の、初めての2人だけの小旅行の為に・・。そして・・香月と香織は海へ出かけていた。考えて見れば、若い男女の自然な青春の姿。海辺で真っ黒になってはしゃぐ2人。どこから見てもお似合いの若者達であった。その夜の事・・2人にとって思いもかけない事件が起こった・・。
バンガローに戻ったのは、夕暮れ近くだった。生憎飲み物を切らして、香織が売店に走って行った後、香月はバンガロー内で、夕食を広げていたが、歩いて2、3分の所にある売店なのに、香織が戻って来ない。心配になった香月は、外へ飛び出した。それは直感のようなものであった。売店には香織は居なかった。その瞬間香月の頭に過ぎったのは香織の危機であった。すぐ裏の松林に飛び込むと大声で香織の名を呼んだ。
「香織!香織ぃーーーー!」
その声に香織の甲高い悲鳴が聞こえた。
「香月君、香月君ーー!」
声のする方向に走ると、5、6人の不良達に香織が上半身を剥き出しにされ、松を背に囲まれていた。香月には、自分でも押さえられない激情の怒りがその瞬間に起こった。怒号が飛ぶ。
「何・・してるんだ・・?お前達!」
「ああ!・・彼氏か、テメエ・・!」

ナイフを片手に、中でも一番大きな男が走って来た。それは殺意であった。香月は身をかがめ、落ちている木の枝を拾った。香月の怒りの形相が、不良達の行動を誘発したのかも知れない。香織のつんざく悲鳴、泣き声が響く中、香月は、既に自我忘失。やらねば、やられるのだ。その中で、香月の怒りは当に頂点に達していて、不良達の一人がナイフをかざして飛び込んで来た瞬間、香月の上段の構えから打ち下ろした木の枝が、男の腕に鈍い音を発しさせた。「バシン!」恐らく腕は折れただろう。その男は、その場にうずくまった。流石の残り5人の顔が強張った。香月の構え、その鋭い振りは、喧嘩慣れしてるであろう不良達にすら恐れを抱かせた。目配せすると、大柄な男は、他の5人と共にその場から立ち去った。
「香月君!香月君!」
香織が大きく肩で息をする香月の胸に飛び込んで来た。香月はやっとその時我に戻った。
「香織・・」
「私の為に、私の為に・」

泣きじゃくる香織の髪をなでて、香月は言った。
「大丈夫だったかい?怪我無かった?」
しゃくりあげながら香織は頷いた。バンガローの中に入っても、まだ香織は香月の胸に顔を埋めて泣いていた。夏の夜は若者の狂気を誘い、暴走する。無秩序の世界にいきなり飛び込んだ2人にとって、大きな出来事であった。しかし、香月、香織の魂が呼び合う如き叫びは、捨て身の勇気を生み、それを救った。
ようやく落ち着いた2人、香織は香月に腕を巻きつけた。
「香織・・」
2人はこの夜結ばれた。1つの事件が益々2人を畢生の伴侶として結び付けようとしていた。