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2003年1月14・15・16・17日分

第3編 出発

それぞれの胸に思いを秘め、学期初めの論文が提出された後、ふいに、香月は動物生態学の笹本教授に呼び止められた。
「香月君!」
「あ、はい!教授」
「少し時間を貰えないかな?話があるんだが・・」
「・・はあ、良いですけど」
「そうか。何・・余り時間は取らせないよ。少し、校外で話したいのだ。喫茶店にでも」

突然の事で、香月も笹本教授の言うままに、校外のやや離れた喫茶店に入った。座るとすぐ教授は話し始めた。
「うん・・今日、話があったのは、他でも無い。今期の受講生は学部総数235名。例年通りこの中の100名余は、再受講を余儀無くされるだろう。講義の内容は、君も理解していると思うが、実に多くの専門知識が必要で、応用もとにかく幅広い」
「ええ・・かなりな広範囲からの受講は、3ヶ月の期間ではまとめきれない量でした」
「ははは。当校では、まだこれ位は序の口だ。確かにここ数年、高校からストレートに入学した者は居ないし、君にとっては大変な苦労だったろう。だが、講義内容さえ理解出来ていれば、論文としての形態はどうにか完成出来る筈。知識として身についていかなければ、この先、自由選択肢としての、各チーム活動は出来ないのだからね」
「はい、心引き締まる言葉です」

「実はその事だが、まだ論文も見ていない段階で、我々としても断は下せないが・・、君は桑原チームに加入を希望しているとか?」
「いえ・・そんな。希望と言うより、その・・桑原教授が・・」
「君に参加してくれと?」
「ええ・・まあ、そう仰っては頂きましたが・・」

香月は笹原教授の真意を測りかねて、あいまいな返事に終始していた。
「私も学内は長いがね。あの桑原博士が、特定の者を指名する事は今まで一度も無かったし、それで、君の事を色々論文やら、他の事も調べさせて貰った」
「はあ・・そうですか」
香月が少し不安な顔で答えた。
「いやいや、別に君がどうとかそんな話じゃないんだ。そんな顔をされたら私も困る。私も獣医学部の教授だし、自分のチームも持っている。だから、これまでの経緯の事や、定期的な小論文にしても君は群を抜いて素晴らしかったよ。本年度一番最年少入学である君が、これ程高い知識を持っている事に驚嘆すら覚える。だからこそ、君の論文の中に桑原教授を惹きつける何かがあると思った訳だ。確かに君の視点は、ユニークであり、興味もある。それ故に、だから、私のチームの生態学の方にも参加して欲しいと言う誘いなのだよ」
「えっ!」

思わぬ笹本教授のチームの誘いに、香月はその言葉が信じられなかった。研究チームのテーマも内容もそれぞれに違う。両チームで研究する者が学内を見ても殆んど居ない現状からして、直接教授から誘われるなんて事は、殆んど皆無に近い。そんな言葉を貰えるなんて、それは非常に光栄な事であった。
「光栄です。是非それが、叶うならば!」
若者らしい煥発さで、香月は答えた。研究に値する何かが認められているのだろう。それが嬉しかった。
「良かった。私もほっとしたよ。何しろ、桑原博士の合意も得ている、それは意思でもあったからね」
「ええっ?」

香月はもっと驚いた。
「君は知るまいが、君の入学論文は、君の将来を大きく左右するような大きなものであった・・それだけ今は言っておくよ」
「え・・?」

その先の説明はもう無かった、笑い顔で、笹原教授はレシートを取ると出て行った、香月も後について出た。真夏の空には白い雲が浮かんでいた。
この日は、坂上達と市内の居酒屋の2階で会う事になっていた。香織も同伴だ。その待ち合わせ場所に着くと、もう坂上達は来ていた。
「よお!久しぶり!」
香月が声を掛けると、坂上、木村が立ち上がって2人を迎えた。
「久しぶり!香月君、川上さん。さあ、2階へ行こう。」
2人に付いて行くと、もう、料理はセットされていた。木村かずみが香織に言った。
「うふ、驚いたでしょ?この店、私の親父殿の店なの。だって私達まだ未成年だし、店の中では堂々と飲めないでしょ。」
香織が言った。
「どおりで、料亭?って思っちゃった。私も、もう大人・・ま、少しはね」
茶目っ気たっぷりに言う香織の言葉に、皆が笑った。
「はは、ま、ビールを一杯位なら良いだろう、汗もかいたし、それじゃ乾杯しますか?」
香月の言葉に全員が乾杯をした。少しの間に高校時代とは違う大人びた顔に、お互いなっていた。雑談が続く。
「どう?大学の方は」
香月が坂上に尋ねる。
「うん、思ったより厳しいんだけど、何とか選択科目に進めるように頑張ってる。君の所は言うに難し・・かな?」
「ああ・・やっと論文提出が終ったばかりでね。まだ、結果は出て無いんだけど、手直しに時間が掛かれば、希望のチームへの参加が遅れるから、必死さ。毎年、3分の1はこの論文で落伍するらしい。一ヶ月で、済む者も居れば、半年も掛かる者も居るらしいし、大変だよ。その差が優秀な研究助手を獲得出来るか否かの境になるそうだし」
「へえ・・随分違うもんだね。普通の大学とは」

坂上が言った・
「一種の研究機関だからね。助手と言っても、助教授を目指している優秀な人も居れば、学内に残って、仕事として助手をしている人も居るらしいから、色々だよね」
「ふうん。良く分からないけど、早くチームに参加出来たら有利なんだね」
「うん、随分その後が違って来るらしんだ。自分の進路や、大学内で教授の道を目指す人にとっては」
「君は何を目指すの?」
「うーーん。漠然としてるけど、研究も勿論したいけど、獣医になりたいね、やっぱり」

香織も、側で頷いていた。すかさず、かずみが言った。
「香織の夢だもんね、獣医さんの奥さん」
「もう、やだあ!」

香織が少し頬を赤らめた。ビールのせいかも知れなかったが。
話が進み、かずみが言う。
「へえー、旅行に2人で行ったんだあ。貴方達もやるわねえ」
そのいきさつを香織がすると、坂上、かずみも揃って言った。
「・・そんな事があったの。でも、日頃大人しい香月君が、暴漢相手にそんな激しい喧嘩をするなんてびっくりしたけど、香織も幸せね」
「ああ・・その時は自分を忘れてたよ」

香月が答えた。すると、かずみも言った。
「ねえ、私達の事も聞いてくれる?」
「ええ、是非聞かせて?」

香織が言った。
「貴方達程じゃないけど、今すぐと言う訳じゃないの。婚約と言う事で、学生の内は無理だけど、卒業と同時に結婚しようって決めてるの、私達。」
「そう!おめでとう!貴方達なら、きっとうまくやれるわ。お互いを理解しあってるもの」

香織は笑顔で拍手した。香月が言う。
「じゃ・・君達は卒業と同時にブラジルへ移住するって決めたのかい?」
坂上が答えた。
「ああ、そのつもりだ。実際今は、大学で学ぶ事が多いけど、向こうの大学へ助手として勤務する事も可能だそうだ。現地の方が夢により近づく事が出来るし、それにかずみは今、英会話の勉強中なんだ。向こうで音楽の教師を目指している。と、言っても、分教場のような小さな学校になるだろうけど」
「そう・・そこまで考えてるのね。じゃ、もう貴方達のご両親も?」

香織が聞いた。坂上が答える。
「いや・・大反対でね。婚約については、双方の親も認めてくれたが、移住の方は猛反対を受けている。まだ3年もあるから、その内考えも変わるだろうと、両親の方は思ってるようなんだ。でも、もう俺達の気持ちは決まってる」
「大変だね。で?君達が敢えて、今婚約したのには、きっかけがあった筈。それを聞かせてくれないか?」

香月が言うと、クスっと、かずみが笑って答えた。
「実はね、私達・・今、難民の為のボランティアやってるの。坂上君の夢の一部なんだけど、私の音楽学校の仲間で、小さなコンサートをやってて、その一部の費用を救済センターに送ってるのよ。まだまだ活動の規模は小さいんだけど、この三ヶ月で20人集まったわ。色んな職業の人達が参加してて、もっと、もっとこの活動を大きくして行きたいし、彼が目指している第一歩として、日本支部を作って、国際的な活動にしたいのよ。街頭でも良く寄付集めをするんだけど、丁度一ヶ月位の夏休み前だったわ。10チームに分かれて、街頭で寄付を集めていたの。私達も2人で。こんな活動をやってると良く分かるんだけど、今の若い人達って・・本当に、情けないけど、そう言う事に無関心なのよね。同じ世代の人達が毎日飢えで苦しみ、倒れて居ると言うのに知らん顔。でも、そんな事を私達が今、声を大にして訴えたって仕方が無いわ。もっと、もっと私達のサークルが大きくなって、他のサークルとも手をつないで、大きな運動にするまでは・・でも・・でも、この前、本当に私達は悲しかった・・」
木村かずみの顔に浮かぶ涙を見た時、坂上は言葉を続けた。
「この日は、本当に暑かった。俺達は、木陰を利用して、大きな旗を掲げて呼びかけていたんだ。それでも、中年の婦人や、小さな小学生なんかが寄付をしてくれたりした時や、暑いのにご苦労様なんて声を掛けられたりした時なんかは、頑張らなきゃ!って思って、大きな声を出してね。中には質問してきて、納得してくれる人も居るし、ポンと大金を入れてくれる人も居るんだ。そんな時だった。俺達の前にオートバイに乗った若者がやって来て、盛んに囃子立てるんだ。止めてください!これは善意の寄付集めですからって何度も言うんだけど、益々面白がって立ち去らない。それで、俺も頭に血が昇ってさ。この時間にも飢えで苦しむ同世代が居るんだ。君達見たいな面白半分で冷やかすような者はどこかへ消えろ!と叫んだんだ。そしたら、いきなり散々に殴られて、気がついたら、善意の寄付箱も無くなっていた。この時程俺は悔しい気持ちになった事は無いよ。こんな平和な世の中で、遊びまわっている人達と、今日の食べ物すら無くて、飢えに苦しんでいる人達が居る。こいつらは人間じゃない。結局警察に届けたり、全員を集めて、この事を話あったりしたんだけど、大なり小なり、皆こんな経験があるって言うんだ。何で、俺達がやってる事を理解して貰えないんだろう。こんな人達が居るんだろう・・明日は救えるかと言う問題じゃなく、今日の糧をどうするか、俺達は今そんな直面する事に問題提起してるんだ。きっと、それが明日に繋がる事だと思うから。その晩は、かずみと一晩声を思いっきりあげて泣いたよ。情けなくて、そして、自分達の非力に。俺達はその晩誓いあったんだ。結婚を」
香織が泣いた、香月も涙した。2人の信念を確かに感じたから。
「君達は立派だ。良ければ、俺達も参加させてくれないか?約束しよう。君達の心が変わらない限り、俺も香織も春想会の皆にも声をかけて」
「是非、入れて。きっと伝わる日が来るわ。坂上さん、かずみの夢が叶うよう応援する」
香織も言った。
叉大きな一夜であった。坂上と言うこの先にも重要な友人と、出会う度に香月は大きく成長して行く。人生の深さとは、出会いの深さであろう。香織はこの時思った。その出会いを形作るのは、その人の持つ運かも知れない。