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2001.4.11日分

 この日、香月が、いつものように訪れた川上宅の中からは、大きな声が聞こえていた。
常日頃非常に穏やかな人柄で、怒声を発するような川上氏ではない。どうやら、もう一人と口論してる風であった。玄関の戸を開けるのに躊躇していた香月だった。その時、上気した顔で川上氏が玄関を開けた。香月が驚いた顔で立っているのに気付くと、すぐ笑顔を作り、
「やあ、香月君来てたのか。丁度良い。君も鳩小屋に来たまえ」
 この来客は、どうやら競翔関係の者らしい。それにしてもあの剣幕は・・?香月は後をついていった。若い競翔家で、25、6才位で、がっちりした体格をしていた。この競翔家は、近くの連合会で素晴らしい成績をあげている、トップレーサーの佐伯道年と言う著名な人であった。実は、この人の鳩が川上鳩舎に迷い込んできたのを連絡をとって、今日訪問となったらしい。鳩舎の前に立つと、川上氏が又大きな声で言った。
「佐伯君!君はトップレーサーだが、見たまえ!私の鳩舎にもたくさんの鳩が居る。だが、一羽たりと、私はこの鳩達をレースで失いたくない。私製管(住所管)とはその為に左足に装着してるのだ。今深刻化している迷い込み鳩対策だが、どんな鳩であろうとも、我々は鳩を飼っている。その愛鳩精神無くして、いかに優秀な成績を残そうが、意味は無い!君が迷い込み鳩は駄鳩と決め付けて、処分するなどと言う発言は、多いに私の競翔観に反するのだ!一羽の鳩すら大事に思わぬ者が、果たして立派な競翔家と言えるのだろうか。聞きたい!」
 上気した川上氏の顔は、見た事の無い厳しいものであった。香月は黙って聞いていた。
「確かに言われる事は正論だと思います。しかし、私は競翔をやっています。その競翔自体が鳩の優劣を競う順位の序列である以上、必然的に我々は優秀な血統で、優秀なレーサーを作出し、他鳩舎より優れた鳩を育て上げなければなりません。そうしなければレースには、到底勝てません。そのレースの途中で、ついて来られぬ鳩は当然失格として、切って当然では無いでしょうか。鳩レースそのものが大羽数参加で、最終レースでは、僅か数羽残すような淘汰のシステムである以上、その迷い込み対策として、確かに私も私製管を装着しては居ますが、だからその鳩が、他鳩舎に迷い込んだ時点で既にその鳩は落第。確かに愛情は必要でしょう。しかし、その建前論で、こんな厳しい淘汰の競翔を続け、成績をあげる事、維持する事など出来ないと感じます」
 磯川にも似た、激しい闘志を秘めた競翔家だった。その理論も彼個人の持論で、それはそれで筋が通っているように香月にも思えた。だが、何か釈然としないものも、心に沸いていた。
 川上氏は、今度は静かな口調で言った。
「佐伯君・・君は大きな勘違いをしているよ。こんな小さな動物を我々は飼っている。このかけがえの無い小さな動物は、見知らぬ遠い地へいきなり連れて行かれ放される。人間などの勝手な思惑など何も知らず、彼等は一生懸命自分の鳩舎へ戻って来るのだ。時には命を賭けて・・。鳩にも伴侶はあるんだ。ひたむきに、その家族の元へ飛び続ける彼等の姿を想像した事が、君にはあるか?なんと可哀相な事を我々はやってるのだ・・そう思う事が何度もあるよ。確かに・・レースとは君の言う順位を競うものだ。だが・・忘れてならないのは、彼等を人間の欲望の道具にしてはならないと言う根本なのだ。私達に出来る事は、彼等に住み良い環境を与えてやり、適切な訓練をし、彼等の秘めたる能力を最大限に引き出してやる、トレーナーであるべきだ。迷い込み鳩が駄鳩だと決め付ける前に、自分の落ち度が無かったか?住み良い環境だったか?そう考える必要もあるのではないのか?」
 川上氏の目に涙をためた、鳩に対する思いを感じて、香月の目頭も熱くなった。佐伯青年も流石に心を揺るがされたようだった。


2001.4.12分
 
 しばらく、無言で何か言いかけて、又佐伯は考えていた。川上氏は鳩舎の中を凝視したままだった。そして・・
「あの・・私は川上さんに憧れて、目指して競翔をやってきました。失礼の言葉は重々お詫びします」
 佐伯は、そう言った。
 川上氏が振り向いた。
「いや・・分かってくれたのだね。有難う」
 優しい柔和な、いつもの川上氏であった。
「川上さんの愛鳩家の姿勢は私の連合会でも、良く聞いております。ただ、川上氏に追いつけ、追い越せのレースに私は夢中になって、大事な事を忘れて居りました。勿論、私も鳩が大好きです。だから私製管を装着して居ります。けど・・こんな近くの鳩舎に迷い込むなど・・私には初めての経験だったものと、この鳩はレースでも成績が良くありません。300キロレース最中に何で、ここに迷いこんだのか・・それで、処分と言う言葉を使いました。言葉は悪かったですが、実は私の鳩舎にも迷い込み鳩は多くあります。然しながら、その鳩達は全て健康とは限りません。大事な選手鳩達に蔓延する重大な病気・・それの危険もあります。だからこそ、心を鬼にして処分する事もあるのです。自分は、病気の蔓延を何度も経験しているからです」
「む・・それは・・」

川上氏が言いかけた、その時、香月が言った。
「あの・・・僕ごとき学生が生意気かも知れませんが、僕が競翔を始めたのは、川上さんの鳩が怪我をして迷い込んだのがきっかけです。そのおかげでこうして、競翔にも参加し、鳩との出会いが嬉しくて、楽しくて、そして川上さんに、一杯競翔を教えて貰える喜びを噛み締めて居ります。僕にとって鳩と言うのは家族であり、友達です。だから、僕の鳩舎に迷い込んでくる鳩は必ず、別棟に建ててある鳩舎にまず隔離して、それから病気の有無を確かめて、連絡できる鳩舎には連絡します。連絡できない鳩は、近所の子供達で欲しい子にあげていますし、何日かして自分で帰って行く鳩も居ます。僕が川上さんからいつも教えていただいている『愛鳩家であれ』と言う言葉はそう言う事だと思うんです。あの・・よろしければ、その鳩を僕に下さいませんか?競翔に使って見たいです」
「えっ・・?」

川上氏も佐伯氏も目を見開いた・。
「差し上げるのは、抵抗も無い。喜んで・・でも・・君は今・・競翔に使うとか言わなかった?」
 佐伯氏は驚いたように聞いた。
「はい・・言いました」
「おい・・おい。香月君・・君は鳩も見て無いし、その鳩は選手鳩だよ。そう簡単に君の鳩舎に慣れる筈が無い」
川上氏が言った。
「いいえ、分かります。あの鳩でしょう?」
 香月が川上鳩舎内の、その鳩を指差した。川上氏も佐伯も目をくりくりさせた。香月が続けて言う。
「僕の鳩舎に慣れなくて・・佐伯さんの所へ戻ってきたその時は、この鳩を飼ってくださいますよね?」
「そりゃ・・勿論・・」
「あー良かった」
「あははは。面白い子だな、君って」

 佐伯氏は笑った。川上氏も微笑みながら、鳩舎の中からこの鳩を捕まえてきた。香月は嬉しそうに丹念にこの鳩を触った。 
 70ACD0345 B♀・・。
「聞いた話なんですけど、佐伯さんの鳩は、ハンセン系ですよね?」
「うん、そうだよ。その鳩もその血筋だ。少しブリクーの血も入ってるけど」
「やっぱり!川上さんの主流はブリクーですよね?ノーマンサウスウェルは何分の一で、勢山系が半分の血ですよね?」
「ああ・・そうだよ。君の所はノーマンサウスウェルが半分、勢山が2分の一、シオン系が2分の一だ」
「ほお・・では、思い出しましたが、この子が香月君?あの文部杯の」

佐伯氏が言った。
「そうだよ」
 川上氏が答えた。嬉しそうに香月は鳩を触っていた。
「種鳩にするの?」
 佐伯氏が、再び念押しするように香月に聞いた。先ほどのは聞き間違えたと言いたげだった。
いえ!選手鳩として使います。」
「あっはっは。佐伯君。この子は並の子じゃないよ。きっと考えがあるのだろう。E高校でもトップを取る子だ、きっと何か考えがあるのだろう」

 こうして、一瞬にして佐伯氏と川上氏は、この日こんな葛藤があったのに、和解していた。まるで香月に影響されたように。佐伯氏もまた一流の競翔家であった。
このB♀・・実はのちに大活躍をする香月鳩舎の長距離鳩になる事を、この日の誰も知らない。香月以外にこの鳩の資質を見抜いた者が居ないのだ。
 後の・・・ムーン号・・。との出会いであった。