白い雲トップへ  次へ   参考資料   お願い  登場鳩

2003.4.20日分

退院した香月に待ち受けていたのは、大学の研究室での、論文提出前の討論であった。それはお互いの論文テーマに対する指摘であり、桑原研究チームと言う突出したメンバーが集まる学内でも高レベルな討論でもあった。自分の論文の位置するものが、ここで互いの指摘を受ける事にもなる。8名のメンバーは普段バラバラで、自己の研究を行っており、こうして一同に集まる事は少ない為、絶好の機会でもあった。桑原教授が、いつも議題を提出し、自分の研究テーマを紹介しながら、疑問点、不備部分を徹底的に突いて行くと言う厳しいものだった。情報量も圧倒的で、又その習熟度は、飛びぬけたメンバー揃いでもあった。白石五郎、新藤雄作、尾上一行、西山司郎、高山良行、山本俊二、菊池秀夫、香月一男、そして、桑原教授も加わる。
「・・と言う訳で、私のテーマ発表を終わります」
白石の論文テーマ発表が終わると、すぐ質問の手が上がった。高山だった。白石はこの中では最年長の博識家、対する高山は理論家として知られ、その舌峰には鋭いものがある。
「質問します。白石さんの今の発表の中で、言語に対する知性との関連の中で、幾つかの言語レベルでの比較データがありましたが、知識レベル・知能レベルについての比較対象の論旨説明が少し甘いのでは?」
白石が答えた。
「比較対象とは、幾つかの知識レベル、相対的な脳の比重や、体重に占める大きさ等に区分されます。例えば人間界に於いても、知能レベルテストは完璧ですか?逆に高山君に質問します」
高山が質問を取り下げた。こうして、次々と論文発表があり、最後に香月の発表となった。香月に対する質問は、殆ど全員の手が上がった。
「・・君の言う鳩ゲノムの遺伝子情報解読はどのように進めるのか?」
「・・DNA塩基配列の仕組みについて」
「病理学的、免疫性のテーマは?」
「優性遺伝、劣勢遺伝についての資料を」

等、様々な質問が起こった。それは、香月の論文が今までに無い、新境地を拓いているからで、特に遺伝子情報の解読と言う、この時代には超先見性的の高い研究部分については、大きな質問が集中した。最後に桑原教授が締め括った。
「今日は有意義な日であった。それぞれの研究論文は5月末に纏めて提出下さい。それによっては、現役での博士号も可能かも知れない。特に、新分野の香月君の研究論文には、大変私も興味があった」
この日、香月には大きなS工大での一歩があった。それは周囲が予期せぬ、大きな、大きな一歩でもあった。
そんな日々の中でも早くも、春の競翔についての訓練に余念が無い香月であった。
今回は助手である掛川が、鳩の訓練地探索に同行していた。山間の訓練の候補地選びであった。香月鳩舎には現在43羽の選手鳩が居るが、今回の放鳩地探索には、その中の13羽に重要なポイントを絞っていた。
2人が到着したのは、山間の細い桟道だった。
「これ以上は、もう車では無理だね」
掛川がつぶやくように言った。そこへ車を止め、急な坂道を下った。やっと一人が通れる位の曲がりくねった道を降り、その場所を眺めながら、2人は同時に頷いた。
「うん・・ここなら行けそうですね。掛川さん。理想的な地形と言えませんか?」
「昔・・渓流釣りに凝ってて、色んな場所に行った。それが役に立ったようだね」

山間の深い谷間であった。両岸が切り立った断崖で、渓流は激しく流れ、大小の岩にぶつかり飛沫を上げている。雪もちらほら残り、この日は今にも雪が降りそうな天候であった。2人で地図を眺め、詳細に記入しながら、ここでの一斉放鳩を、まず実施したのだった。本来は単羽訓練地だが、このような冬場の寒い放鳩には危険も伴う。今回の場所を詳細に記して、この場を2人は後にした。帰りの道中の車内での会話。
「やっと・・一つの難問の答えは見えてましたね。次の難問をどうクリアして行くか・・叉、鳩が答えてくれるか心配です」
「うーーん。難しいね。競翔鳩の優秀さに、俺も認識を新たにしたよ。君の鳩舎の一級選手鳩を提供してくれたから、随分助かってるんだが、この訓練が、レースに影響を与えないか?」
「その点でしたら、大丈夫です。成鳩に関しては、一般訓練をこの後行うので、それで十分だと思ってます。若鳩の潜在能力をいかに早く把握出来るか。俺も助かってますよ、この訓練は」

そして・・2日後、単羽訓練が掛川の手によって、同場所で行われる事となった。掛川は一羽、一羽、放鳩しながら鳩の帰還コース、時間等を詳細に記録して行く。鳩舎で待つ香月は、放鳩された時間から逆算した、一羽、一羽の帰舎を克明に記録して行く。放鳩から1時間以内に8羽の鳩の帰舎が確認された。放鳩地からの直線距離は60キロ。相当な難所ゆえに、特別早い帰舎も無かった。さらに、1時間経過して、3羽が戻って来た。残り2羽の帰舎を待たずに、香月は大学へ戻り、掛川と結果を分析しあった。
掛川が地図を片手に話始める。
「予定していた通りに小雪ちらつく天候で、帰舎コースは4つに分かれたよ。その内訳は直線的に川を下って、それから急上昇をしたのが3羽。それから左側の山を越えて行ったのが4羽。逆に上流へ向かって、そのまま急上昇をして視界から消えたのが2羽。それからまっすぐ川を下って見えなくなった鳩が4羽。計13羽の内訳だ」
「ええ。岐路コースを分析すれば、帰舎は上流方向に位置する訳です。このコースは最短で直線的でもあります。これは短距離鳩の特徴で、2羽は確認出来ました。次に下流に向かった鳩が11羽と言う事になりますが、これも結果が顕著です。いきなり上昇した鳩の4羽は、確認出来ました。まず、6羽は見込みある鳩です。長距離鳩の資質十分です。残り5羽なんですが、左の山を越えた4羽の内2羽は先ほど確認しましたが、残り2羽と、まっすぐ下流に向かった3羽の内、どちらの2羽が2時間以内に帰舎していないかを推理して見ますと、左手の山超えの2羽の方が少し遅れて帰舎したのでしょう。そして、一羽が下流に向かった方でしょう」
「うん。根拠は?」
「地図を見ながらお話しましょう。最初の放鳩と、最後の放鳩との時間差は1時間ありますから、2時間の差がついて当然の帰舎なんですが、つまり・・下流の2羽は一度左手の山を上って、それから迂回をする事になりますが、山からの強風に煽られて、相当苦戦した事でしょう。逆に上流に向かった鳩は視界こそ悪いが、追い風となって、比較的楽な帰舎コースを選んだ事になります。」
「ははあ・・なるほど。だから、2羽が下流と言う結論なんだね?」
「ええ・・この2羽は今後のレースに不向きですね。大学へ持ち込みましょう。逆に下流の一羽。これは期待が持てます」
「・・・なんで?分からないね。競翔素人の俺には・・ははは」
「明日もう一度訓練を実行したら、結果が出ますよ。多分」

そう言ってすぐ次の日に放鳩へ向かったのは、香月が秋に行った、あの山あり、谷あり、池あり、川ありの放鳩地だった。11羽の鳩が今回は訓練を受けた。雪混じりの天候は、昨日と同じ。2日続けて行うと言う点が大きく過去の訓練と違う所だ。ただ、一斉放鳩に踏み切ったこの日の訓練に鳩は1時間弱で戻っては来たものの、相当疲れた様子だった。
香月は重大な事を忘れていた事に気がついた。
「しまった・・確かに結果は出たし、見極めも成功した。しかし、こう難レースばかり想定しての訓練じゃ、荒天レースがかえって心配だ。スピード性のある、短距離鳩には、災いしてしまう・・。」
研究者としての立場、そして競翔家としての視点。香月はその2者が両立しない事に気がついた。
次の日に掛川と実習室の中で、相談を繰り返していた香月だった。