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2003.5.18日分

しかし、この屈指の難レース、天候は確かに良かったが、放鳩地近くでは15メートルの強風が吹く放鳩日となった。向かい風10メートルを越す強風に、放鳩時間が9時半に延びた。
「ふう・・今春は天候に恵まれ安心していたが、色々あるもんだ」
川上氏の電話だった。
「まあ・・でも、天候は良いですし、放鳩地は向かい風ですが、300キロ地点は横風、200キロ地点からは逆に追い風になりますから」
香月は明るく答えた。いずれの鳩舎も自鳩舎を代表する選手鳩を投入しているのだ。佐野からも同様の電話が入った。同じ返事をした。つまり、それほどこの400キロレースを各鳩舎が、重要視していると言う証明でもある。だが・・このレースは予想を大きく覆す結果となるのであった。
香月鳩舎に2時半と言う脅威のタイムで帰舎をした鳩が居た。紫竜号であった。丁度500キロへ参加させる鳩を、触診して調子を見ていた香月であった。
「な・・なんで・・?紫竜よ」
余りに驚く早い帰舎に震える手で香月は打刻した。過去20年間、このレースで記録した事の無い快分速であると同時に、向かい風10メートル以上吹きすさぶ現地、そして帰路・・それは、帰舎も予想してない。500キロレースに出す選手鳩を触診していた時であったから。
頭の中が少しパニック気味の香月であった。「分速1300メートル以上出ている・・」2番手のスプリント号が帰舎したのは3時頃であった。それでも、通常ならばダントツに近い優勝タイムだ。3時半に一羽、45分に一羽が戻って来て打刻を止めた。
4時半になって、佐野から電話が入った。弾んだ声だった。3時10分前にタンギ号が帰舎したと言う事で、優勝の一角に居るであろうスプリント号のタイムを聞いて来た佐野だった。ほぼ同タイムと言う事で、更に優勝争いに確信を持った様子だったが・・。
「え・・?まだもっと早い鳩が居るって?紫竜号が2時半・・信じられないタイムだ」
佐野の動揺が、電話の向こうで見て取れた。桁外れに早い帰舎は、香月とて信じられないのだから。
「とんでも無い怪物に育ったようだね・・紫竜号
間も無く、川上氏からも電話が入った。やはり、川上氏も100キロレースから常に川上鳩舎のトップで、帰舎を続けている、若鳩だが、後の代表基礎鳩となる、白泉エース号が、3時過ぎと言う事で、4時半までにばらばら帰舎だと言う事だ。この3時帰舎と言うタイムは、過去20年のこの400キロレースの中でも、レコードに近い快分速だ。それを大幅に上回る鳩が居ると言う事で、連合会内では、もう情報が駆け回っているようだった。
「どえらいレコードのようだね。いやはや・・快晴の天候でも出ないスピードだ。特別な訓練をしたのかい?」
「いえ・・紫竜号はもう成鳩ですから、むしろ体力を使い切らないよう、セーブする訓練を施して来ました。ですが、常にレースのトップ集団に居ます」
「鳩の様子はどう?非常に疲れて無かったかい?」
「はい、
スプリント号は少し疲れた様子でした。後続の鳩はそれほどでも・・でも、紫竜号は平然としてましたが」
「私の所の一番手も、全レース鳩舎で一番手の鳩なんだが、今日は疲れていたよ、凄く。後続はそうでも無かったが」
「・・帰舎コースがそれぞれ違うのだと思いますが、今晩申し訳ありませんが、時計を預けさせて貰っても良いですか?」
「ああ・・でも、何で?」
「今から大学の掛川さんに連絡を取って、今日の気象状況や、コースを分析したいのです」
「特別な意味がある・・訳だ。今日の驚愕な帰舎タイムには」
「はい・・それによって、
紫竜号は今期、GPに出しません。」
「分かった・・君の考え通りしたら良い」

その晩の開函場所の会長宅では、騒然となっていた。
「しかし・・信じられんタイムだ。香月君の鳩」
高橋会長が大仰な仕草で言った。
「日本記録を塗り替えたスピードバードですよ。有り得るでしょ、今回の帰舎は」
磯川がレース前に予言していた結果を、肯定するように言った。
「それにしてもだよ。放鳩地と、鳩舎位置を距離で換算しても、実距離600キロ余。すると鳩は分速2000メートル以上のスピードでしかも逆風の中を戻って来た事になる。脅威的だよ」
小谷氏が言う。他の会員も頷いた。
「しかし、実際ですね、他連合会では、500キロ、500キロのレースで、分速2300メートルとか2100メートルの分速が出てるじゃないですか。脅威とは言えないでしょ。分速1300メートル台なんですから」
磯川が反論する。解説者を取り囲むように、磯川を中心とした円陣が自然と出来た。連合会屈指の理論家である磯川の円陣に、川上氏もやや後方に位置し、座っていた。
「しかしなあ、この放鳩地が出来て、20年。過去40回もの開催の中で、分速1000メートル台の競翔は僅かに3回。その最高分速にしても、1100メートル台だ。今回、突出した一羽を除いても、2位から6位までの5羽は、分速が1200メートル台だと集計はまだだが、予想されている。一気のレコード更新をどう見るのかい?」
高橋会長の質問に、にやりとして、磯川が答えた。図を指し示しながら、
「・・・と言う2つのコースがあります。先頭集団は、このコースを飛び帰ったと予想されます」
ほお・・会員達から少しどよめきが上がった。川上氏も頷いた。
「川上さん、この場に香月君が居ませんので、少しお聞きしますが、香月君は何か特殊訓練をやったのですか?」
少し曇った表情の川上氏だったが、
「少し、高地訓練等はしたようだよ、私も詳しくは聞いて無いんだが」
ほお・・少し、会員達のどよめきが上がった。
「納得でしょ?つまり、香月君の菊花賞鳩に引っ張られた格好で、この5羽の集団が出来たのです。こうやって迂回すると、200キロ地点からは、追い風になります。記録が出た筈ですよ」
得意満面な磯川の表情だった。
「ふうむ・・なるほどなあ・・確かにそう言う事なら納得出来そうだ」
小谷氏は頷いた。
「なら・・トップの鳩をどう見る?」
高橋会長が尋ねた。
「それは・・分かりません」
磯川は、実にあっさりと答えた。
「何だよ、それ。わははは」

会員が笑った。磯川が頭を掻きながら
「ただ・・考えられる事は、この5羽の一群こそGPを制する鳩群だと言う事ですよ」
全員の顔が今度は引き締まり、一瞬座が静まった。
「なあ、磯川君。君の推理でも良いから、トップ鳩の帰還コースを解説してくれよ、あるんだろ?思いが」
小谷氏の言葉に少し磯川が頷いた。
「憶測で良いのなら・・でも、あくまで仮想でしかないですが」
「聞こう」

川上氏が言った。
「放鳩地から、50キロ後方つまり450キロ地点には、標高2450メートルの妙高山(仮名)がありますよね。つまり、この山の裏手に回り、大きく迂回するコースです。なら、向かい風も無く、更に風裏となって、山沿いに一直線で、200キロコースに迂回出来ます、そこからは追い風です。」
ほおーー・・叉どよめきが上がった。
「しかし、それは妙高山を迂回する為に、50キロも逆飛翔する事になるじゃないか。若鳩の方向音痴ならともかく、優秀な経験鳩がそんなコースを辿るだろうか・・」
郡上氏が言う。
「そこなんですよ、仮説の域を出ないのは。ただ、この鳩の成績を見ても、前年度のGP時は相当がりがりに痩せてたんです。でも、今期は見違える程の筋肉がつき、体型も出来ています」
「磯川君は、えらいその鳩に御執心なんだね。」

高橋会長が言った。
「それ程未完の大器と言うか、底知れぬ物を感じているからですよ。俺はずっと注目して来ました。郡上さんにお聞きします。ネバー号の筋肉を覚えて居られますか?」
「ああ・・手に持てば、ぐにゃっとなるような柔らかい体、理想の体型、絹のような羽毛、幅広い副翼・・まさに競翔鳩の理想のような鳩だったなあ・・」

遠くをみるような視線で、郡上氏は答えた。
「川上さんにもお聞きします。白川さんの所から卵で貰ったと言う事ですが、白川さんの所にネバーの他に、オペル系の鳩が居ましたか?」
困惑気味の表情で答えようとした川上氏の横から、丁度集計が終わった、佐野が答えた。
「僕が答えましょう。はい、一羽居ます。オペル系真髄のダブルBの2重近親の鳩です。他156羽についてもお答えしましょうか?」
磯川が、いやいや・・と言うように手を振って、
「良いよ、それは佐野博士がデータとして持って居れば良い。で・・その鳩は?」
「田中君と言う学生競翔家の所ですね。ただ、昨秋病気で死んでますが、その鳩は。」

おお、流石博士だ。会員が感心していた。
「で・・その鳩の成績は?」
「100キロから500キロまで全優勝してます。短距離スピードバードですね。栗二引きの鳩です」
「何だ・・じゃあ、違うじゃないか、
紫竜号とは」
磯川が言う。川上氏が少し笑いながら言った。
「短距離鳩の仔が全て短距離鳩とは限らないじゃないか。まだ競翔鳩はたかが100年、色んな特徴が出るよ。」
「そうなんですが・・俺の言うのは筋肉の話なんですよ。その鳩だったら、むしろ筋肉は硬い筈。その特徴のどこに親鳩のものを受け継いでいるかが、関心のある事なんです。じゃ、雄親と言う事になるのかな?」

川上氏は答えなかった。
「僕も答えようが無いですね、データ外の事ですから。白川さんと、香月君の事でしょうから」
そう言って佐野は川上氏に目配せした。この時になってようやく、佐野が紫竜号の生い立ちを知っている事を川上氏は認識したのだった。せめて・・凡庸に生まれてくれれば良かったのに・・川上氏は胸の中で大きく嘆息したのだった。
そんな時S工大では、掛川と香月が喧喧諤諤と討論を繰り広げていた。