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003.5.25日分

快調に紫竜号は気流に乗っていた。その時であった、高く舞い上がる紫竜号の更に、上空から黒い弾丸が落ちて来るような気配があった!俊敏な紫竜号は咄嗟に避ける。だが、その弾丸の波状攻撃は何度も続く。隼だ!紫竜号の何倍もの速度で飛翔する、その鳥のスピードには到底適わない。きりもみ状になって、降下するその先に小高い森が見える。方向転換をする紫竜号、その喉元に激痛が走った!隼の嘴が喉を切り裂いたのだ!。朦朧とする意識の中で、紫竜号は、それでも気丈に森の奥へ逃げ込んだ。隼はもう、それ以上は追って来なかった。だが・・。
一本の太い枝に紫竜号は、へたへたと座り込んだ。意識が混沌として朦朧となった。どくどくと赤い血が流れている。紫竜号は深い傷を負っていた。動く事が出来ない・・俺は死ぬのか・・?紫竜号は思った。次第に思考力が薄れて行く紫竜号だった。この時であった・・父さん・・母さん・・何故か紫竜号は育ててくれた仮母の親達より、見も知らぬ父母を無意識に呼んでいた。絶対絶命・・・。ここまで、当日帰れるかと言うスピードで紫竜号は帰って居た筈・・・。もう駄目だ・・諦めかけた紫竜号に、その時であった。薄闇が既に迫って来る頃、突如、谷間から吹き上げる神風が吹いたのだ。無意識のまま紫竜号は、羽を広げる・・その持って生まれた天性の資質が無ければ、ここで紫竜号は、息絶えた筈。その時紫竜号は鳩舎まで、既に200キロの地点まで戻って来ていたのだった。「帰りたい・・」紫竜号の本能は朦朧とする意識の中で、羽を動かせた。追い風が吹いていた。優しい風だった。その時間・・6月に発表となる論文の最終校正をしながら、香月は鳩舎のタラップをまだ締めないで待っていた。いつもなら、とっくに外敵から守る為に締めているタラップだった、この時、タラップに仕掛けてある電子ブザー音が聞こえた。
「あ!・・しまった。タラップを締めて無かった」

外敵侵入か!慌てて香月は家の外に走り出る。鳩舎は暗いが、タラップは月明かりで、2重タラップ内に外敵にあらず、鳩が居るのが確認された。
「あれ・・後日帰りかな・・?」
鳩の足輪からゴム輪を抜く、そして薄灯りの中で確かめる。
「こ・・これはGCのゴム輪」
傍に置いてある時計に打刻後、香月はその鳩を抱いた。ぎょっとした。異様な感じが手にした。鮮血が流れた。「し・・紫竜か!お前!」
香月は紫竜号を抱きかかえると、家に走った。
「た・・大変だ!父さん、母さん、今から大学へ行く!」

応急処置後、香月は一目散に車を走らせた。瀕死の重症を負って、それでも当日帰還した紫竜号。いや、当日戻らねば紫竜号は確実に死んでいただろう。この資質故に戻れたのだ。しかし・・・紫竜号の命は風前の灯火に見えた。既にぐったりとしていた。
「死ぬな!紫竜!」
香月は何度も叫んだ。この素早い処置と行動が、紫竜号の命を救う事になるのだった・・。
「ど・・どうした?香月君」
同じように、論文提出の為に大学へ残っていた掛川だった。香月の必死の形相に、事態をすぐ悟った。
無言で、香月の手術の助手を勤める掛川だった。一本のアンプルに入った薬を、香月に手渡す。
「これ使えよ」
「これは?」
「いいから・・これだけ出血してるんだ。一刻を争うだろ?」

こくんと香月は頷いた。
処置は終わった・・後は紫竜号の生命力に賭けるしか無かった。そして・・夜が明ける・・。
生死を彷徨う中で、紫竜号は夢を見ていた、顔を知らぬ父鳩と母鳩が優しく毛づくろいをしてくれている。温くもりの中で、紫竜号が生まれて初めて味わった事の無い、幸福感に満たされていた。誰なんだろう・この温もりは・・やがて・・その鳩達は、遠くへ・・遠くへ・・飛んで行く。「父さーん・・母さーーん・・」紫竜号は、泣きながら追いかける。しかし、追いつけない、益々遠くなり・・そして・・消える。・・ぐ・・ぐうーー・・紫竜号は声を上げる。「こ・・ここは?」それは、香月の腕の中だった。
「し・・紫竜・・助かったか・・」
掛川が、香月の肩を叩いた。
「良かったな・・助かったようだ」
「はい・・有難う御座いました」

香月の目からは、涙がぽろぽろ落ちていた。
・・何で泣くのだろう・・主人は・・・
紫竜号には理解出来なかった。
しばらくしてゲージの中へ移された紫竜号だった。香月は、紫竜号の体温が落ちないように、一晩中抱いていたのだ。
「少し帰って休めよ。後は、俺に任せてくれ」
「あ・・でも」
「良いから。愛鳩家の君の姿を見させて貰った。正直、感動した。後で笹本教授に診て貰うから安心してくれ」
「本当に有難う御座いました」

香月が大学を出た後、掛川は紫竜号に言った。
「おい・・紫竜とやら、ご主人が香月君で良かったな」
紫竜号は立ち上がろうとした、しかし、まだ動けなかった。
「おいおい・・気丈な鳩だなあ、お前は・・無理するなよな」
すぐその後、笹本教授がやって来て、術後の診断をした。
「おお・・見事な処置だ。君がやったのか?」
「残念ですが、手術は香月君ですよ」
「そうか・・しかし、この縫合と言い、腹の筋肉を首に移植した処置と言い見事だ。」

笹原教授は薬を投与すると、戻って行った。
「おい・・良かったな、天下の名医に見てもらって」
掛川はウインクした。
大学から戻った香月に両親が訳を聞いたが、鳩の怪我だとだけ言った。紫竜号と共に参加した2羽が、丁度この時間一緒に戻って来た所だった。時刻は10時半。打刻はしたものの、香月はまだ放心状態で、時計を自分の所から一番近い浦部の家に預けて、川上氏に電話した。
「何!紫竜号が!」
状況を全て聞いた川上氏は、
「そうか・・助かったのか。良かった・・良かったね」
電話の向こうで、川上氏の声が詰まった。香月の心情とシンクロするように、川上氏も涙をぬぐった。紫竜号は、白川氏が残してくれた遺産と言える大事な・・失ってはならない鳩なのだ。この瀕死の帰舎は、圧倒的当日唯一羽帰りの記録ではあるが、日没から日の出までをカウントしないルールによって、実距離950キロしかないGC参加連合会が総合順位を独占した。分速カウントの矛盾はそこにある。紫竜号は夜も飛べる鳩なのだ。夜間訓練も経験している。紫竜号の総合順位は9位となった。その瀕死の帰還は連合会内に伝わったが、誰もが紫竜号はこれで終り・・・そう思った。それは、香月自身も確かにそう言う思いを抱いた、当時では無かっただろうか。