あの橋のたもとで。 1  00/10/04  

 8月11日の金曜日、銀行が盆休暇に入る前日だった。
 2階の食堂で、変わりばえのしない仕出し弁当を食っていた。
 隣で食べていた坂東さんのコップが空だったので、おれは手を伸ばして麦茶を注いだ。
「ありがとう、平良くん」
「いいえ」
 別に坂東さんだから、特別というわけではない。
 体育会系のおれは、先輩に茶を入れるくらい、あたりまえだと思ってる。
 それから、向かいに座っている、先輩の女性行員のコップにもお茶を注いだ。

「おい、背高のっぽ」
 次長がおれを呼びに来て、あわてて廊下に出た。
「平良、これ貼ってくれ」
 おれは廊下に貼られていたのをはずして、新しいのを貼りつけた。 カレンダーをつぎはぎして作った、いまどき珍しい、手書きの棒グラフだ。
 もちろん自分のは一番にチェックするが、次に坂東さんのが気になる。
 ライバル視してるというより、坂東、という字がとにかく気になる。

 おれよりずっと数字は大きくなっている。 そびえたつ白抜きの棒グラフは、坂東さんが預金を取るたびにマジックで塗りつぶされていくだろう。
 貸付の目標額もあり、それにプラスして預金のノルマもある。
 大きい数字を要求されても、坂東さんはいつも余裕で達成してしまうので、よけいに数字は増えていくというわけだ。

 おれは、5人もいる窓口係りの中では一番新人で、目標額もまだまだ少ない。
 それでも青息吐息で、どうにか間に合う程度だ。
 1年しか違わないのに……あらゆる意味で、坂東さんにはかなわない。
 おれはため息をついて、表を見ている得意先係の行員を尻目に、食堂に戻った。

「新しいの、貼ってきたんだ」
「はい」
「盆開けからだな」
「そうですね。 あの、坂東さんの数字また上がってますよ……おれのもですけどね」
「まいったなあ。 おれ、大丈夫かな」

 のんびりと坂東さんは言った。
 内心はどうなのかわからないが、ちっとも困った顔をしていない。 
 こんなに華奢な肩に、あの大きな数字を乗せるなんて……支店長の鬼。
 といっても、おれの肩にもけっこうな数字が乗せられてるんだけど。

 トイレの洗面所で歯を磨いていると、坂東さんがやってきて、ネクタイを首の後ろに放り上げてから、歯を磨き始めた。
 女みたいかもしれないが、おれたちは窓口係りだから口臭をさせるわけにはいかない。

「今日、そっち忙しそうだな」
「もう、トイレに行く暇もないです」
「こういうときこそトイレくらい行って、クールな頭でいるんだ。 トイレの時間なんて2、3分じゃないか」
「はい……」
「がんばれな、平良。 これが終わったら休めるから」
 にこっと坂東さんが笑う。透明な笑顔だ。
 おれは、その白い顔を見ると欲望で一杯になるというのに。

……先輩、休みになったら、一緒に一泊旅行でもいきませんか。 近くでもいいんです、海の見えるところ。
……鳴門でも室戸でもいい、どこか景色のきれいなところ。
……だめかな。 直前じゃぜったい宿なんてとれないかな。
……先輩とおれの休みが一致するのは、14日と15日だ。 ひそかにチェックしてある。

……無理ですよね。 毎日6時から阿波踊りが入ってるんだから。
……じゃあ、せめて一緒に食事して映画見て、それからおれのところに泊まりに来ませんか。
……坂東さん。 おれ、隣に声が聞こえたってかまいません。
……でもって……できたら、身のほど知らずだけど、今度は……おれが先輩を。

「お、踊り、楽しみですね……先輩はお盆の予定は……」
 おれはかろうじて、坂東さんの好きそうな話題に振る。
「何もない。 踊りだけだよ。 平良は帰省できないね、踊りがあるから」

 鏡の中の坂東さんは、薄いワイシャツに、ほんのり悩ましい肌の色が透けている。 
 下着なんかつけてないのかもしれない。
 衝動的に、細身の体を抱きしめたくなる。
 でも職場のトイレなんかで変なことをしたら、口をきいてくれなくなりそうだ。
 しかたなくネクタイを直していると、後ろからぐっと両肩をつかまれて、息を呑んだ。
「肩に力が入ってる」
「……あっ」
「変な声出すな」
「ば、坂東さん」

 坂東さんはおれの肩をつかんで、指先にすごい力を込めた。
 頭に行くべき血が、どこか別のところに走っていくのを感じる。
 目を閉じたおれの耳元で、坂東さんはささやいた。
「今日みたいな忙しい日は、かっかしちゃだめだ。 あわてるとミスしちまうからな」

 先輩としての、仕事上のアドバイスだ。

 その声は、睦言にしか聞こえない。 そしてその指先は、おれの首筋に軽く食いこんできた。
 首の横、頚静脈……おれのとても感じやすいところ。

「ミスすると何倍も時間と労力がかかる。 多少とろくなっても、着実にこなせ」
 喉から胸にかけてゆっくりと撫でて、それから腹へ手は動いて、ベルトに触る手前で、ふいに先輩はおれを解放した。
「じゃ、がんばれよ、平良」
「……は、はい」

 すっかり腰が砕けてしまって、足元も定まらないのに、おれは仕事に戻った。


 営業室に降りていくと、入れ替わりにテラーの林さんが食事に立つ。 今日の食事時間はおよそ20分、こんなもんだろう。
 今日は後方事務の女性が連続休暇で休み、ベテラン窓口係が一人病欠したので、朝からトイレに立つ暇もないくらい忙しい。

「クールに仕事しろ」
 おれは自分に言い聞かせて、自分のテラーキーを機械に差し込んだ。
 仕事に戻り、はじめのお客さんの通帳を処理していて、自分の印鑑をごみ箱に落した。
 クールどころじゃない。 おれはあわててごみ箱をあさり、すぐに印鑑を見つけたんだけど、そのときに変なものも見つけてしまった。

 くしゃくしゃに丸められた、一見書き損じのように見える入金伝票だが、そうじゃない。
 すでに印字をして、林さんの印鑑を押してある。
「あちゃ……」
 忙しさのあまり、林さんが間違って、必要な伝票を棄ててしまったのか。
 とりあえず拾って、林さんの机に伏せ、文鎮を載せておいた。

 まもなく戻ってきた林さんに伝票を見せると、彼女は真っ赤になった。
「あ、あら。 私ったら……」
「偶然見つけたんですけど」
「ありがとう、平良君。 助かったわ。 集計合わないところだった」
「お互いさまです。 でも、弘法も木から落ちるんですね」
「それってちがうわよ、平良君」

 それからもお客は多かったけど、幸いに集計も一発で合った。
 こんなことは珍しい。 

 早く帰れるじゃありませんか。
 今日こそ坂東さんを誘って、おいしいものを食べに行きたい!
 それも焼き鳥なんかじゃない、水際公園のそばの、おしゃれなレストラン!

 通用口の外で坂東さんを待った。
 しばらくして、貸付の次長や女性行員と一緒に坂東さんが出てきて、おれを見つけてこういった。
「ん? 平良? 誰か待ってるのか」
 誰か待ってるのかって、そりゃないでしょう。 先輩を待ってたんですよ……。
 それ以外に誰を待つって言うんです。

「え、ま、まあ……ちょっと」
「そうか。 おれたち、今夜打ち上げなんだ」
「そ、そうすか。 いいですね、こっちはなにもなしです……」
「じゃ、一緒に飲みに行く?」
「いえ。 おれ、今日は真っ直ぐ帰ります」
「そう? じゃあな、気を付けて、明日の踊り、がんばろうな」

 坂東さんの細い背中が、貸付の連中と一緒に遠ざかっていった。

 花火の夜に衝動的に抱き合って以来、ずっとこんな調子だ。
 すれちがい以外の何物でもない。 おれは寂しくアパートに戻っていった。

あの橋のたもとで。 2へ続く

小説トップへ戻る

トップページへ戻る