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あの橋のたもとで。 2 00/10/16

 去年着たから、着つけは簡単だと思っていたが、甘かった。 人間は忘れるのだ。
都合一時間ほどかかって、おれはやっと踊り衣装を着て、自転車で本社へ走った。

 集合は6時で、なんとか間に合ったおれを見て、坂東さんは絶句した。

「努力は認めるけど……」
「お、おかしいですか」
「合わせが逆になってる。 左前だよ、それ」
「……あ」
「直さなきゃ。 社長の訓示があるから、そのまえに直そう」
「す、すみません」
「大丈夫、酒樽割って乾杯するだけだからね」

 そして、おれたちは人気のない更衣室へと急いだ。

 おれが帯をほどくと、坂東さんはひざまづいて、踊り衣装をたくし上げた。
「ちょっと短めに着つけておこう。 ちょっとここ持ってね」
 言われるように浴衣の端を押さえていると、坂東さんは紐でおれの腰を締め上げた。
 それから、おれの腰に両腕を回して、帯を結んでくれた。

 そのあいだにも、なにか説明してくれてるんだが、おれは聞いちゃいない。
 というか、聞こえない。
 
「まったく不器用なんだからな。おれが着つけてやるよ、明日から」
「ほ、本当ですか」
「去年みたいに、道でストリップされちゃ通行人が驚く」

 2日目におれが自分で着たとき、途中で帯が落ちてしまったことがあった。 幸い演舞場は抜けたところだったが、そのときも坂東さんが速攻で直してくれた。

 お世話になってばかりのセンパイだ。
 その先輩は、おれを見上げて、つんつん、と胸元をつついた。
「平良君、可愛い顔して胸毛がある。 うらやましい」
「う……」
「隠すのもったいない。 もうちょっと襟を抜こうかな……色っぽいから」
「せ、先輩っ」
「冗談だって」
 いつもより血色がいい。 もう少し飲まされてしまったんだろうか。
 薄赤い目許を見てると、おれはもう。
 限界だ!

「せ、先輩っ」
 先輩の前に膝をつき、その柳腰をがばっと抱きしめた。
「うわっ」
「坂東さんっ」
「こ、こらっ。 えい、放せったら。 社長の訓示が始まるだろうが」
「訓示なんてどうだっていい。 坂東さん、好きだっ。おれはもう、毎晩眠れないほどっ」
「平良、平良、放してくれ……苦しいよ……」

 おれはあわてて坂東さんを放した。 細工物みたいに華奢なひとを、ぎゅうぎゅうねじあげてどうするんだ。
坂東さんは、急いで自分の着崩れを直している。
「体力バカ。 レスリングかよ……」
「す、すみません」
「今から暴れたら、よけい汗かくだろ?」
 
 坂東さんは、おれの顔を撫でた。
「がんばろうな、平良」




 はじめにおれたちが向かったのは、藍場浜演舞場だった。 
 前の連は海外へも行くような、有名連で、当然おれたちよりもうまいだろう。 問題は前の連のお囃子に引きずられないようにすることだった。

 おれたち鳴り物は、演舞場の入り口に立って待った。 三味線に続いて演奏を始め、そして踊り子が全部入ってから、ゆっくりとあとに続いた。
 まだ空はほんのり明るくて、それでもライトはまぶしく目を射た。
 観客のいろんな色のうちわがひらひらしているのが見えた。 端っこなので、観客の顔がもろに見える。
 かあっとあがってしまい、おれはひたすら前を見て、カネを叩いて歩くことにした。
 
 前には坂東さんの、涼しげな背中がある。 余分な力の入っていない、それでいて毅然とした背中だ。
肩の骨が浴衣越しにうっすらと見える。
 細い腰の上で、かすかに揺れている印篭、そしてその紫の飾り房。
おれは、その印籠になりたい……。 坂東さんの腰にまとわりつきたい。 あの、小さなお尻の周りで遊びたい。


 こんなに華奢なのに、どういう肺活量をしているのか、その笛の音は、この喧騒の中でもおれの耳に染みとおってくる。
 マイクも通していないのに。
 その音を聞くと、なんだかライトもピンク色に滲んで見える。

 なんとか踊り抜けたときは、ほっとした。 女の子たちは、腕が死んだとか、下駄の鼻緒が食いこんで足が痛いとか騒いでる。
 大太鼓を叩いていた貸付の次長などは、「カネは楽でいい」なんてひどいことをいう。
 でも、おれだって途中で、カネを叩く手が痛くて、よっぽど止めそうになったんだ。 けっこう重いし、楽なんかじゃない。

「ったく、暑い……」
「平良、すごい汗!」
 坂東さんは、笑って、たもとから薄い手ぬぐいを出して、すばやくおれの顔を拭いてくれた。

 ああ!
 おれってば、幸せものじゃないか。 もう、手がちぎれるまで叩くぞ。

 と、回ってきた広報課の人が叫んだ。
「次は、元町演舞場です。 順番が取れたと先ほど連絡が入りましたので、すぐ移動お願いします。時間はありますので、慌てないで移動してください」

 藍場浜から、駅に近い元町までは近い。 上手に順番を取ってくれたらしい。

 それから、おれたちは雑踏の中を移動し、演舞場前で待っていると、中年の女性が冷たい飲み物を配り始めた。
 OBの方の差し入れだという。 坂東さんは、オロナミンCをもらってきて、おれに差し出した。
「そのうちに、ビールとか日本酒とか出てくると思うけど、無理して呑まなくていいからな」
「はいっ」
「手、痛くない?」

 おれは、ばちを持った右手を持ち上げた。
「大丈夫です……ちょっとだけ痛いけど」
「このへん?」

 坂東さんはふわっと笑って、おれの手首を軽く握った。
「…………」
「ん? ちがう? このへんかな?」
 先輩は、もうすこしひじに近いところを、ぐいと握りこんだ。
「……ば、坂東さん……」
「ちょっと楽になるだろ」

 手首だろうが腕だろうが、坂東さんに触られて感じないところなんて、ない。
 知ってるくせに、こんなところで。 なんて意地が悪いんだ、坂東さん。

「お、直己じゃないか」
 野太い声がして、振り向くと、歳は30まえくらいだろうか、日に焼けて長身の、全然タイプじゃないが、なかなかハンサムな男が笑っていた。

 すると、坂東さんは、懐かしそうに言った。
「田所さんじゃないですか。 お久しぶりです」
「なんだ、おとなみたいな口きくようになったな、直己」
「これでも、いちおう社会人やってますから」
「ギンコーインな。 似合わないけどな」

 なれなれしい口をきく男だ。
 すると、坂東さんはおれのほうを振り向いた。 
「あの、同僚の平良です。 平良くん、こちら能天気連の田所さん。 田所建設の専務さんだ。 こちらの鳴り物はすごいんだよ。 おれも、何年か入ってたんだけどね……ずっと前だけど」

 能天気連というと、海外にも遠征してるような大きなところだ。
 すると、田所なにがしは苦笑いした。
「抜けて三年しか経ってないじゃないか、今からでもまた……」
「だめだめ、もうそちらの連のレベルには、とても。 あ、奥様は今日は?」
「ああ。 もうすぐ子供が生まれるんで、今日は来れなかったけどな」
「それは、おめでとうございます」

 すると、田所とやらはおれに向かって、「後輩か。 いじめられてないか?」
 などと言った。
「いいえっ。 とんでもないですっ。 お世話になってますっ」
「冗談だよ。 直己は、めちゃくちゃいいやつだ。 ガキのころからな」
 それを聞いて、少しだけ「直己」ははにかんだように笑った。
 営業用とは程遠い、いい笑顔だった。
 



 元町演舞場を踊り終わり、今度は新町演舞場だということで、おれたちはぞろぞろと歩き、入り口でたむろした。

 気がついたら、坂東さんは貸付係りの女性行員たちにつかまっている。 おれも途中で、得意先係のおっさんたちにつかまってしまった。

「まあ、呑め、若いの」
「おれ、かなり飲んじまってるんすけど……」
「お? まあ、遠慮するな。 次で最後なんだからなあ」

 さっきからいろんな酒を飲まされているが、どうして断れないかな。 下っ端は辛い。 上司の酒は断りにくい。
 また、貸付係りの女の人たちが笑ってる。 坂東さんが横を向いて、何か喋った。 とたんにまた、きゃあっと笑い声がする。
 おれにはけっこう意地悪なのに、冗談言って笑わせてくれたり絶対しないのに、どうして女の人には優しいかな。
 だいたい、仕事を教えてくれるときも、おれには厳しかった。 同期の女の子には、もっと優しかったぞ。 まあ、理不尽に叱り飛ばしたりはしないけど。
…………おれ、こんなにへこみやすかったかな。
…………なんか、辛くなってきた。 酒まで塩辛いじゃないか。

 すすめられるままに呑んでしまって、お返しに上司にもかなり呑ませてやった。 どうせ今日はこれで最後だ。
 
「平良? 顔、真っ赤だよ」
「え?」
「てか赤黒い。 呑みすぎじゃないか。 大丈夫か?」
「ふ、これくらいどってことないっす。 おれは底無しと呼ばれた男ですっ」
「弱いくせに。 だからあんまり呑むなっていっただろ?」
「…………すすめられると断れないです」
「いいけど、カネ調子はずすなよ……あれがはずれると目立つから」
「坂東さん。」
「なに?」
「あの、田所ってやつ。 きらいです」
「へ?」

 坂東さんは、ぽかんとおれを見ている。

「いけすかねえ野郎だって言ったんです。 気に食わねえっ。 日焼けしてガタイがよくて、歯が白くて、白目が白くてさ。 やだやだっ気色悪いっ」
「お前、酔ってる? 誰だって白目は白いよ」
「……と、とにかく、気に食わねえっ」

 すると、坂東さんはぼそっとつぶやいた。
「おれは、けっこう好きだけどな。  日焼けしてるのってタイプだし」

 ああ!
 タイプ、だなんて。
 ひどいです、坂東さん! あんなやつのこと、好きだなんて!

「そ、そうですか……ああいうのが」
「た、平良?」
「あんなのが、お好みなんですね、坂東さん」
「おい?」
「おれなんて、おれなんて」

 太刀打ちできない。 あんな二枚目とも、おっぱいのでかい、貸付係りの女とも。
 涙が込み上げてきた。

 泣き上戸だったんだ。 おれって、酔っ払うと泣いちゃうんだ。そうだったんだ。
 くっそ〜、泣いてやる! 思いっきり泣き倒してやるってば!

 得意先係のおっさんが後ろから声をかけた。
「なにボウヤ泣かしてるんだ、大将」
「おれ泣かしてませんよ。 誰がこんなに呑ませたんです、こいつ酒弱いのに」
「うっうっうっ……」
「お〜お、色黒のボーヤが赤黒くなっちゃって」

 全然責任ないけど、坂東さんのせいです。
 
「とにかく泣くな、平良。 でかいなりして泣くな」
「…………」
 優しい口調で、さらにこう告げた。
「泣きながらでも、ぶっ倒れてでも吐きながらでも、カネは叩いてもらうぞ、平良」

 なんて優しいんだ、先輩。

「これが終わったら解散だから、がんばれ」
「…………」
「そしたら、家まで送っていくから」


 送っていってやる?
「だって先輩も酔って……」
「おれは、はじめの乾杯しか呑んでないから大丈夫」
「…………」
「本社まで歩くけどな。 自転車後ろに積んで、走ってやるよ。 あっというまだ」

 
 もう、なにがなんだかわからないけど。
 やっぱり幸せなのかもしれない。

「血反吐はいてもがんばります、坂東さん」
「よし」
 こうして、踊り初日は更けていった。
 
 
あの橋のたもとで、3へ

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