秋田


ある夜のこと、秋田は同室の土田に声をかけて、
「風呂行くぞ」と促した。
土田は最近ぼけっとしていることが多いので、風呂に入る時間が遅れる。あまり遅くなると湯がなくなるのだった。
「む。」といって、アルマイトの洗面器をかかえて着いてきた。
この男は最近、勉学にも身が入らないようだ。土田は理乙で、軍医を目指している。

秋田は刈り上げ頭に石鹸を塗りたくり、ぞんざいに湯をかけて洗い流す。土田は湯に入り、やはりぼんやりとどこか空ろである。
「おう、腹でも下したか?」とからかっても、土田は「む」としか言わない。もともと無口な男だが、どこか生気がない。

脱衣場から外に出たら、土田がぶるっと震えて大きなくしゃみをした。
そのあげく「今夜は冷えるな」などというので、秋田は笑った。
「寒いか? 土田は鹿児島だもんな」

秋田の故郷の街では、風呂屋に行けば、家に帰るまでに手ぬぐいが凍る。鼻毛が凍る。大口を開けて笑えば歯茎も凍る。
しゃべれば、口から出したとたんに言葉も凍る。
秋田はそういう寒い街からやってきた。東京の冬など寒いうちには入らない。

「冬になると、小便が放物線になって凍りつく。用を足す間に、ナニが凍りつくんだ」
「それは大変だな」
「冗談さ。鼻毛は凍るがな」

土田がかすかに、笑顔のようなものを浮かべた。
下手な冗談に笑ったのかと思ったが、そうではなかった。土田は、秋田の肩越しに別に微笑んだのだ。
「楽しそうですね、土田さん」
背後からよく通る声が響いた。
それは、この秋から編入してきた学生で、正確には、もと「小間使い」だった青年である。月村教授が後見人となっていて、法的にも近く養子になるとのことだった。
小間使いだったころは、無造作に髪を伸ばし、粗末な袴をはいていたが、今は違う。

薄い麻モノのようなシャツを着て、男のクセにかすかに香水まで振っている。その辺の貧乏学生よりよほど羽振りが良さそうだった。
秋田の郷里にも肌の白い人間は多いが、この男も色が白い。米のとぎ汁のように白く、唇は完璧な弧を描いて微笑んでいる。
(どうもいかん。)
とにかく全てが不吉だった。化かされる、という言葉が頭に浮かぶ。

この男がいると、土田も別人のようで恐ろしい。
「かなめ」
物欲しげに口を薄くあける。
剣道で鍛え上げた体の、薩摩士族出身の土田が、見る見るうちに「女」になる。秋田がそばに居ることなど忘れて、何かを待ち望むような表情になる。
それは、本当に恐ろしい光景だった。

要と呼ばれた男は、秋田などに頓着はしない。
「土田さん、おいしいお酒があるんだけど、部屋で飲みませんか?」
そして土田に顔を寄せて、「土田さん、お風呂上りですか? いい香りですね」と言った。
土田は、顔を染め、「早く行こう」と答えた。秋田は思わず声を荒げた。
「秋田、明日はお前、ドイツ語の試験だぞ。ドイツ語苦手だろう、大丈夫か?」
「大丈夫ですよ、土田さんは。ねぇ、土田さん?」
下級生は、口元だけで微笑んで見せた。秋田はむっとした。いくら月村教授の養子だからといって、慇懃無礼な態度は許せない。

「日向君、おれは土田に話しているんだ。おい、土田! 落第してもいのかよ?」
だが、要も土田も、聞いてはいなかった。
魔物が土田の腕を引いて、自分の部屋に連れて行く。
「おい、ちょっと、待てって土田!」

すると男は、再び、作り物のような笑顔を浮かべた。
「早めにお帰ししますから、どうぞご心配なく、先輩……」
陶器めいた白面の口元が、微笑みにゆがむ。秋田の背中にまた悪寒が走った。なぜならば日向要の目は、なにか剣呑な殺気を帯びていたからだ。
喧嘩など嫌いな秋田は、引き下がるしかなかった。

(……なまらおっかねえ。ああいうの、『ファム・ファタール』っていうんだべさ!)
係わり合いにならないほうがいいと思った。それでも秋田は、離れていく二人の背中から目が離せないのだった。


秋田2
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