小舟 2
「やめて、イリス……」
ぼくの声は、無数の亡者の叫び声にかき消された。イリスのほっそりした姿も、灼熱の光に飲み込まれて、一瞬で消え去った。
気がついたら暴走していたエルイールの陸地はどこにもなく、海面から平らな瓦礫が続くばかりだった。
「イリス?」
マストの影に、何人か固まって人が死んでいて、イリスはその上に倒れていた。
イリスだった。イリスは脚を開いて、仰向けに転がっていた。薄く目は開いていたけれど、青いガラス玉のように光がなかった。多分もう意識がない。
口も薄く開いていて、認めたくは無かったが、死んだ人間の顔になりつつあった。苦痛も悲しみも微笑みも宿さない、厳かな無表情。
ぼくは自分の手のひらを舐め、それをイリスの口元に近づけて、息をしているかどうかを確かめた。息は、していなかった。
そこからは、海上騎士団に感謝しなければならないだろう。何度も駄目だしを食らってやっと合格したおかげで、何をしたらいいのかは体で知っていた。
イリスの口の中には何もなかったので、アゴを持ち上げて2度息を吹き込み、頚動脈にそっと手を触れて、かすかに脈打つのを確認した。
「おい、死んだのか」
誰かがぼくのひじに手を触れた。
「完全に死ぬ前に舟で流してくれと言われている。その後、紋章砲で沈めろとな。そいつには死相があらわれかけている。もうやめろ、無駄だ」
それがリノ王だとわかっていたが、ぼくは聞かなかった。言い争う暇も惜しかった。
「イリス自身がそうしてくれと言っていたんだ。覚悟はできているとな。死ぬ前に舟に流せと言っていたんだぞ」
ぼくはその命令を無視して、またイリスの口に息を吹き込んだ。丸太にしがみついて生き抜いたぼくならわかる。イリスは生きたがっているんだ。
何度目かに息を吹き込んだ後、後ろから肩を捕まれた。
「馬鹿野郎、お前が罰の紋章を受け継ぐつもりか?!」
「イリスはまだ死んでません」
「だが死にかけている。死ぬ前に舟に乗せて流すぞ、この船の人間を危険にさらすつもりにはいかねえんだ!」
ぼくは額の汗を手でぬぐった。
なんて扱いなんだ。
イリスはこんな立場で戦っていたんだ。少しでも彼を羨んだことのあるぼくは、天罰が下されるべきだったのだ。
すると、横からケネスが飛び出してきた。
「交代しよう」
そういうと、彼はイリスのアゴを軽く押し上げ、息を吹き込み始めた。ジュエルとタル、そしてポーラが、その周りを守るように取り囲んだ。剣を抜きかねないほどの殺気だった。
ジュエルは、「もう十分でしょ、イリスを返してよ」と口走った。
「イリスの命令なんだぞ!」とリノ様がまた叫んだけど、ぼくらは聞きいれなかった。それからほんの少しして、ケネスが叫んだ。
「イリスが目を開けたぞ!」
ユウ先生が飛んできて、「起こさないほうがいいです。気付け薬をやります」と叫んだ。
ぼくがイリスのそばに膝をついたとき、イリスは青い目を薄く開けていた。彼はあたりを回して、小さな声で言った。
「スノウ」
「ここにいるよ、イリス」
ぼくはイリスの手を取った。手先はまだ青かったけど、子供のころからすごく丈夫な小間使い、あの巨大樹を倒したイリスが、これくらいのことに負けるはずがない。
「ユウ先生が来てくれたよ。すぐにベッドに運んであげるから」
「スノウ」
「よく眠れば元気になるよ。何も心配することなんてないから。ぼくがついてるからね。ずっとついてるから。食べたいもの何でも何でも言って。作ってもらうから」
イリスはかすかに顔をゆがめた。その口が、「ごめん」と動いた。
ぼくは泣きそうになった。謝るのはこっちなんだ、ぼくはちゃんと謝ってすらいない。
「ああ、ごめん。しゃべらないほうがいいね、さあ。下に行こう」
ケネスが「よし、脚のほうを持つから、スノウは頭のほうを」と言った。
イリスは体をよじって、首を振った。
「リノさん」
「ここにいるぞ」
「お世話になりました」
リノ王はぐっと詰まったみたいだった。
「早く舟で……そのあとは紋章砲で……」
「わかった」
「何を言うんだ、イリス!」
イリスはかすかに首を動かし、こちらを見た。
「スノウ、おれは死ぬ」
「何言ってるのさ、ちゃんと生きてるじゃないか!」
「もう君の顔も見えない。手の感覚もない……」
「……!」
「きみはもう自由だ。ラズリルに帰って……笑って暮らしていくんだ」
「いやだ!!」
「さよなら、スノウ」
さよなら、だって? 嫌だ、ぼくたちは始まったばかりじゃないか。
自分が一番好きなぼくが、誰かを好きになるなんて初めてだったのに。ぼくをひとり残して、勝手に降りるって言うのか?
「イリス! 待ってくれ、ぼくを置いていかないでくれ!」
追いすがろうとするぼくは、誰かに抱きとめられた。
それでもめちゃくちゃに抵抗したので「聞き分けろ、ばか者!」と殴り倒された。立ち上がったときはもう、イリスを乗せた小舟がロープで吊られて、海面へと下ろされるところだった。
「イリス!!」
舟から身を乗り出して小舟を見ようとしたが、軍主を最後に見ようとする人波に押されて、船べりに近寄ることさえできなかった。
そうしてイリスは海に流された。
オベルの巨大な船からイリスを呼ぶ叫び声が響いていたけど、彼の耳には届いていなかったことを祈る。なぜならばそれはすぐに、死者を悼む歌に変わったからだ。
すべてが耐えられなかった。彼はまだ生きているのに、海へと捨てられたのだ。
ぼくらを乗せた船は、彼の乗った小舟をしばらく追跡しようとした。
軍主の最後の命令は、死を確認したら「ありったけの紋章砲を打ち込んで沈めてくれ」ってことだったからだ。けれど、イリスの最後の命令は実行されることがなかった。
彼の乗った小舟は見えない海流に引きずられて、信じられない速さで流れていった。オベルの船は帆船だ。風に流されて、小舟とは逆の方向へと走り始めた。
王様の命令で風上の方向へ舵を取り、小舟を追跡しようとしたが、小舟は滑るように逃げていき、やがて水平線の向こうに消えてしまった。
遠目の利くニコですら、お手上げだった。そうしてイリスは、永遠にぼくらの前から失われたと思われた。
数日後、ぼくらの乗った船はどこかに着いた。どこだったかは知らないが、主だった仲間は下船していった。群島諸国の同盟設立を祝って、祝典をするのだという。
ぼくにとっては、関係のない世界の出来事だった。ぼくは時間の感覚もなく、呆けたようにただ甲板に座り続けた。
小舟 3
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