小舟 3
船が陸を離れてしばらくして、タルとケネスが尋ねてきてくれた。タルもケネスも赤い顔をして、酒臭い息を吐いていた。
「足の怪我はどうよ、スノウ」
「もうすっかりいい」
「それはよかった」
二人は汗を拭きながら座り込んだ。
タルが、丸い素焼きの壷を床において、酒を注ぎ、ぼくの手に押し付けた。杯の底には竜の模様が描かれていた。
その竜が、淡い琥珀色の酒の中で揺れて見えた。
「王宮の祝宴からかっぱらってきた。50年物の古酒だってさ。ま、何でもいいさ、酔えりゃ」
タルは声を上げて笑ったが、なんだか空元気のようだった。
「お祝いだ、お祝いやろう。湿っぽいのは苦手だ」
「何のお祝い?」
タルは「何でもいいさ、お祝いだ」と答えて、ぐいと酒をあおった。
「く〜っ、喉が焼けるようだぜ」
ケネスがタルに注意を促す。
「タルも、これすごく強いから気をつけろよ」
タルはすでに赤い顔をしていたが、「ケネス、お前も他人の心配ばっかしてると禿げるぞ。飲め!」
そういってケネスにも無理やり杯を持たせて、あふれんばかりに酒を注いだ。
「酔っ払った。オベルの酒は強すぎる……」
ケネスは一番に音を上げて、ごろりと横になってしまった。
「膝枕してやろうか? ケネス」
「断る!」
きっぱりと即答だった。
タルは「気持ち悪かったら言え。介抱してやるから」と笑い、またぼくに酒を注いだ。強い酒だが、いくら飲んでもケネスのようには酔えなかった。
「この船はこれから北へ向かう。もう一度イリスを探すんだとよ」
「……そうか」
「見つけたら、遠くから観察して、紋章砲を打ち込むんだとよ」
タルはまた酒を煽り、ごしごしと目を手で拭って「ちくしょう、湿っぽいのは苦手だぜ」と言った。
始めは目にごみが、なんてごまかしていたが、そのうちに声を上げて泣き始めた。泣き上戸なのだろう。ぼくも、タルみたいに盛大に泣けたらいいのに。そうしたら次に力も沸いてくるんだろうに。
おれは闇の中で目を開けた。
髪の長い女の人が、優しい目でおれを見つめていた。悲しそうな、とても美しい顔だ。この顔は一度見たことがある……。
どこだったか。
近寄ろうとすると、すっと離れた。一言もしゃべらない。
「待ってくれ!」
女はおれを見つめながら、白い光に溶けていった。
「は……あっ!」
おれは激しくあえいで、息を吸い込んだ。新鮮な空気が一気に肺に入ってきた。新鮮すぎる空気は肺を焼くようで、何度か激しく咳き込んだ。
しばらくすると目を開けることができた。抜けるような青い空と雲が見えた。
(生きている?)
おれは生きていた。今度こそ死ぬと思ったのに、まだ生きていたのだ。
舟に横たわったときはもう手足の感覚もなく、目も見えず、やがて息が出来なくなり、投げ落とされるみたいに気を失った。
目覚めたら、再び手足の感覚が戻っていた。
まだ生きているどころか、今までになく気分が良かった。紋章を宿してから、胸の中にずっとあった重い塊が消えている。
新しい体を与えられたようだ。
(生き返った。おれは死ななかった!)
正直、うれしかった。
すぐに強烈な喉の渇きを覚えた。確かに生きている証拠だった。枕元には死人へのお供えみたいに、水筒がひとつ置かれていた。おれはそれをゆっくりと飲んだ。
生温かく、少し腐りかけていたが問題ではない。周りには陸の影もない。海図もない。だけどおれは帰れる。それは確信だった。
海面に小さな魚が泳いでいるのが見えた。試しに紋章技をぶつけてみると、けっこう魚が浮いてきたので、オールを使って、魚をかき寄せて食った。生に近かったが、そんなことは問題ではない。
(漂流してるときは、鳥を生で食べたんだよ……虫は食べなかったけどね)
スノウの優しい声が、耳によみがえってくる。ぼくが丸太で漂流したときは、と彼は言った。
(水分は一滴もを無駄にしなかった。汚いなんて言ってられなかった)
(海水も飲める。少しなら命がつなげる)
(最後まで絶対にあきらめなかった。生きられると信じた)
「わかってるって」
おれは剣の切っ先を使って、舟底に「スノウ」の文字を刻み始めた。
小舟4
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