剣士オルナンのつぶやき4
王宮に着くなり、デスモンドは「ちょっと待っていてください」と中へ入っていってしまった。
出てきたとき、やつは古びた箒を手にしていた。
「なんだ? 酒を取りに行くんじゃなくて、掃除でもするのか」
するとやつは、「ここじゃ、これが必需品なんで」とだけ答えた。いろいろしゃべりすぎたと思い、用心深くなっているのかもしれない。
王宮の右へ回ると、何度となく通った崖道へ出る。この道の先に、オベルの巨大な船が隠されていた。
クールークの艦船が迫る中、山を崩して逃げたときは生きた心地もしなかったものだ。
今はもう何もない、ただの山があるだけと思っていたのだが、オベルの薬酒はそこに隠されているらしい。
補佐官は、何も説明しようとしない。青い海を見下ろす絶景でも楽しみながら、ゆっくり行けばいいものを、黙って早足で歩いていく。手には相変わらず、竹箒を握り締めている。
途中まで歩いたころ、物陰から小さな獣が2匹、飛び出してきた。むささびの一種で、見た目はちょっと可愛らしいのだが、実は非常に凶暴な動物である。
デスモンドは竹箒を構えた。戦う気かと思い、こちらも匕首を構えたのだが、次ぎのやつの行動に度肝を抜かれた。
やつは箒を前に構えたまま、ムササビの間に突っ込んでいったのだ。
そしてそのまま、すごい勢いで走り抜けた。つまり、一人で逃げたのだ! 許せるか、これが!
「おい、こら、待てこの野郎!」
獣たちはどういうわけか、逃げたデスモンドには目もくれない。逃げ遅れたおれに向かってくるではないか。
「うわっ」
多勢に無勢だ。むこうは2匹。
おれもかなりがんばったのだが、蹴飛ばされたり噛み付かれたり。もう死ぬのではないかと思ったほどだ。
やっと2匹を倒したときは、服も髪もぼろぼろ、頭には2つ風船が着いていた。敵を前に逃げたことは数知れないが、仲間を置いて、自分だけ逃げるというのはどうなんだ。
そりゃまあ、そういうやつも中にはいるだろうが。
それって、卑怯ってものだろう? 少なくとも一言ぐらいあってもよさそうなものだ。
足を引きずって洞窟の前に行くと、入り口にやつの箒が放置してあった。デスモンドは一目散に洞窟へ駆け込んだらしい。
内部は薄暗く、デスモンドの姿は見えなかった。おれは大声で怒鳴った。
「おおい、デスモンド! どこだ! 逃げてないで、出て来い!」
するとずいぶん高いところから、「ここですよ!」と声がした。
「ここって、どこだ!」
やつはもう答えなかった。仕方がないのでそこに座り込んで、ムササビにやられたところに薬を塗りこんでいると、10分くらい経ってようやく卑怯者が降りてきた。背中には大きな包みを括り付けている。どうやら、洞窟の壁をよじ登っていたらしい。
「お前、おれをおとりにして逃げただろう!」
おれがすごむと、やつは案外素直に「ごめんなさい」と頭を下げた。
「私はいつも逃げるんです、どうしたって、あいつらには敵わないんで。反射的に逃げたんですが……あなたには悪いことをしました」
そう素直に謝られると、拍子抜けがするが、それだけじゃないような気がする。
「それと……言いにくいんですが、貯蔵庫の出入り口のありかを、あなたに見せるわけにはいかなかったんです。薬酒は貴重なものなので」
デスモンドは気の毒そうな顔をしていたが、内心せせらわらっているのではないか……。
まったく嫌な役目を引き受けてしまった。だが薬を手に入れたのだからあとは帰るだけ。早く船に帰り、ルイーズの顔を拝みながら、一杯やることしか考えていなかった。
「畜生め」
そう吐き捨てて歩き出すと、やつは「服の背中、破けてますね」と言い出した。
言われなくてもわかっている。いったい誰のせいだと思ってるんだ。
「船に帰ったら、ルイーズさんに繕ってもらうんですね。彼女は手先が器用だから」と言った。
「おお、縫ってもらうとも。ついでに愛を育んでやる」
「……ご自由にどうぞ」
妙に冷めた口調だった。昨日まであれほどルイーズ、ルイーズと騒いでいたやつとは思えない。
「おい、ご自由にって何だ」
「私はもう降ります」
「つまり、おれにルイーズを譲るってコトか?」
「譲るもなにも。ルイーズは私なんか眼中にないんですから、あなたは好きなだけ彼女に言い寄ったらいいですよ」
そして、「どうせあなたも、振られるとは思うけどね」と付け加えるのも忘れない。役人ってのはプライドが高いのだろう。
「どうせおれには敵わないからあきらめた、ってことかな」
「16の年から進歩がない自分が、情けなくなっただけですよ」
デスモンドは、背中の包みを背負い直し、歩き始めた。
「前にこれを使ったときは、フレア様は6歳でした。そのころ、私は優しくしてくれた女の人に夢中になって、フレア様のお世話がおろそかになっていました。姫様がご病気になったのは私のせいなんです」
話しながら、やつはだんだん早足になっていた。
「私は不器用だから、人を好きになるのとフレア様にお仕えするのと、両方ともちゃんとすることは出来ないんです」
なんとくそマジメな。
「お前が女に惚れるのと、お姫さんが病気になるのと、何の関係があるんだよ。つきっきりで面倒見てても、病気になるときはなるだろうが」
それに対する答えはなかった。
答えがないはずだ。目の前には、ムササビが5匹も歯を剥いている。
デスモンドは黙って手に持った箒を前に構えた。
「数が多いですね……仕方ないから戦いますか」
「無理するな。お前はさっきみたいに逃げろ、こっちも隙を見て逃げる」
しかし、この判断は完全な失敗だった。
デスモンドは「すみません」と答えて走り始めたが、その姿を見た瞬間、後悔した。
(遅い。逃げられない……)
背負った荷物が明らかに動きの自由を奪って、さっき見たすばやさはなかった。それどころか、5匹のムササビを一人で引き受けた形となってしまったのだ。
「あっ」
やつの叫ぶ声が聞こえてきた。
足でも噛まれたのか、首根っこでも噛まれたのか、やつはその場で動かなくなった。
「バカ野郎、止まるなっ。走るなり戦うなり……ええい、くそっ。手間のかかるっ」
匕首を振り回して駆けつけたときは、デスモンドの馬鹿はなんとか崖際に移動し、大事な包みを背中で庇いながら、5匹のムササビの集中攻撃を受けていた。というより、ケモノの餌食になっていたというほうが近いだろう。
そして額でも割られたのか、顔の上部は血でどろどろに汚れている。手に持っていた箒も一メートルも離れたところに落ちている、何をか言わんやである。
まったく野生動物というのは、同じ時間を生きているというのに、なぜこうも人間を嫌うのか。一度尋ねてみたいものだが、そのときのおれは、ケモノの心を推し量るどころではなかった。
「ええい、畜生! どけ、どかないと鍋に突っ込んで食ってやるぞ!」
おれはその箒を取り上げ、やつに噛み付いているケダモノをめちゃくちゃに叩きつけながら、大音声で脅かしてやった。
ムササビはそれで逃げ出してくれたのだが、問題は、荷物を庇った姿勢で、血の気のうせた。ほうけた顔をして空を見上げている、この馬鹿野郎だ。
「おい、生きてるか?」
デスモンドは「なんとか」と答えると、自分のポケットを探って薬を取り出し、土気色になった手でそれを口に入れると、苦労して飲み下した。
「毒が、きつい」
「あんなやつに毒があるのか」
「緑っぽい色のやつは、毒があることがあるんです。噛まれるたびにきつくなる」
やつは大儀そうに答えたが、声が震えている。ショックでも起こしたのかもしれない。なかなか解毒できないようだった。血で汚れていない唇の辺りも土気色だった。
そのうち白目を剥いて、泡を吹いて倒れるんじゃないか……。
「おい、誰か助けを呼んで来ようか」
やつはかすかに手を上げて見せた。
「要りません。少し休んだら歩けますから、多分」
しわがれた声でそんなことを言っているが、その様子はただ事じゃなかった。どうも真に受けないほうがよさそうだった。
「お前がここで死んだら、おれが殺したと言われるからな。ここで動かないで待ってろ」
おれはそういい置いて、王宮に向かって歩き出そうとした。
「オルナン、前っ。気をつけろ!」
デスモンドの叫び声が聞こえた瞬間、何か黄色いものがおれに向かって突進してきた。身構える余裕も、よける時間もなかった。
肩にちくっと痛みが来た瞬間、何もわからなくなった。
剣士オルナンのつぶやき5
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