海の棺 1
05/9/4
海賊船はあっけなく砕け散った。
白兵戦に持ち込む時間もなかった。
「無理ですぜ」とスノウを止めた海賊たちも、そのほとんどが死ぬか、二度と戦えないほどに負傷していた。
スノウも海に飛び込んだが、投げ縄で生け捕りにされ、縛り上げられて、オベルの巨大船の甲板に引き据えられた。
軍主の少年はスノウを出迎えて、こう言った。
「おれたちと一緒に戦ってくれ、スノウ。きみの力が必要なんだ」
イリスの顔は正気そのものだった。
イリスの周りには人が集まり、スノウの周りからは人がいなくなっていく一方だというのに。
することなすこと、ヘマばかりの愚か者が必要だと、この大きな船を従えた少年は真顔で言うのだ。
スノウの白い服は血と煤で汚れていたが、プライドはどうしようもなく残っていたので、即座に首を振った。
「冗談ならやめてくれ。さっさと首を刎ねろ」
拒絶されても少年はひるむ様子を見せなかった。
「もうお遊びは終わりだ、スノウ。おとなしく……」
怒号にかき消されてあとは聞こえなかった。
「おい、イリス。そんな裏切り者、さっさと殺してしまえ!」
野次馬の一人が、後ろから叫ぶのが聞こえる。それに続いて何人かが叫ぶ。ラズリルの生まれのものらしかった。
しかしイリスがにらみつけると、彼らはすぐに静かになった。
何もかも失敗ばかりの自分と、このイリスとの決定的な差を、いやというほど見せ付けられた瞬間だった。
イリスはスノウに向き直り、スノウにだけ聞こえるように低い声で言った。
「頼む、スノウ。言うことを聞いて。形だけでもおれに従ってくれ」
スノウは震えながら叫び返した。
「いやだ。きみなんか、嫌いだ。きみに従うくらいなら、死んだほうがましだ!」
イリスはじっとスノウを見つめた。
「きみはばかだ。結局、自分のことしか考えてないんだ。誰の気持ちも考えないんだ。……そうやって人のきもちを傷つけて、きみは」
イリスの顔は、ひどくゆがんでいて、泣き出しそうに見えた。
やがてゆっくりと剣を抜いた。剣の黒々とした抜き身が、太陽の下でぎらっと輝いた。
「そこを動くな、スノウ」
言い終わる前にイリスは剣を振り上げ、叫び声とともに振り下ろしてきた。
「ひぃっ………!」
スノウは目をつぶった。
だが、予想した衝撃は来なかった。その代わり、窮屈だった両の腕が急に自由になった。
スノウを縛り上げていた縄はばらばらになり、足元に落ちていた。少年の顔からは血の気が引いていた。
「どこへでも好きなところに行けばいい! おまえなんか、一生、自分だけをかわいがってりゃいいんだ!」
少年はそういい捨てて背を向けた。
舟をこいでくれたのは、海賊船の最後の生き残りだった。茶色い髪に白髪が混じった、小柄な船乗りだった。
ごく下っ端の男らしく、今まで言葉を交わしたこともない。初老の男だったが、苦労したらしく老けて見えた。
「よかったな、お若いの。首と胴が泣き別れ、っつうことにならなくて。おかげでわしも命拾いしたが」
スノウは不機嫌に黙り込んでいた。
「ほれ、敵の大将がまだ見てるぞ。手でも振ってやればどうじゃ」
スノウは返事をする元気もなく、ただ深い海の色を見つめていた。
失敗に、失敗を重ねるだけの人生。
グレアム・クレイに言われたのは「その辺を適当に荒らしまわって、補給路を混乱させろ」という仕事だった。
補給路を断てというのではない、混乱させるだけでよかったのに、それさえも満足にこなせなかった。
スノウはめまいがした。どこまで自分は失敗を重ねるんだろうか。生きている限り、こうなのだろうか。
「……結局、自分のことしか考えてないんだな、スノウは」
イリスのゆがんだ顔が目に浮かぶ。
自分のことしか考えないだと?
そこまで自分本位なつもりはない。しかしめったに自分以外のことを考えたことはないので、やはりいわれた通りなんだろう。
イリスが感情をむき出しにするのを、事実はじめてみた。そのときは反発しか感じなかった。
だが冷静になると、心に芽生えてきたのは、「それでは人として恥ずかしい」という感情だった。
「み〜んな海の底じゃ。お祈りのひとつも言ってもらえんで死んだな」
日焼けしたその男は、案外おしゃべりだった。この男はスノウを責めない。
「で、だんなはこれからどうするつもりかね?」
「海賊の掟じゃこんな場合どうするんだ?」
「さあ、わしにゃわからんね……わしは下っ端だから」
「なんなら、あんたが首を落としてくれてもいい」
海賊の生き残りは、不快そうに顔をしかめた。
「若い者は命を粗末にしたがる。罰当たりじゃ。ろくに生きてもいないくせに、簡単に死ぬなんぞとと口にするもんじゃない」
海賊はポケットを探り、粗末な煙草入れを出した。しかしそれは空っぽだったので、首をすくめて「帰りてえなあ」とつぶやきながら、それを海に投げ捨てた。
「わしらはもともとネイ島の生まれでな。出稼ぎに行こうと思って、仲間と船に乗って、うっかり海賊につかまってなあ。海賊になるしかなかったのさ。だがわしの女房は必ず待っているはずじゃ」
「………」
「そうだ、帰ったら、仲間の家族に謝って歩かねばならんな……生きて連れて帰れなかったからなあ」
スノウはラズリルを思い、足元を見つめた。
もう二度と帰れないのだ。帰っても喜んでくれる人もいない。
「兄さんもわしといっしょに島に行ってみるかね。あんたなあ、とてもじゃないが海賊には向いておらん」
スノウは親切を受けなれて育った。だが世間はそうではないことを、やっと学び始めていた。
もうスノウは無一物で、この状態で親切にしても、何の得もない。
だから、どん底での親切は身にしみてうれしかった。
「ぼくのことは……どこでもいい、始めに見えた陸地で降ろしてくれたらいい」
そしてスノウは、ポケットに手を入れ、大粒のルビーを取り出した。それはわずかに持ち出せた家の財産の一部で、スノウの手に最後に残されたものだった。
それをつかみ、男の荒れた手のひらを掴んで、そっと乗せた。
「これを持って帰って、どこかで金にして、奥さんと、それから亡くなった仲間の家族に分けておくれ。もうぼくには必要のないものだ」
「こ、これは」
「ぼくの、罪滅ぼしだ。みんなの分でこれだけ……嫌な役だけど引き受けてくれ」
男は押し頂いてそれを受け取った。
「ありがとうよ、だんな」
しばらくして、はるか西のほうに大きな船が見えた。
「おい、船だ。あれは……クールークの船だな。助かった。おおい、乗せてくれよう!」
男はそれに向かってシャツを降りたくって叫んだ。
朝、甲板を磨くのは水夫の仕事だ。
ばたばたとにぎやかに騒ぐ帆の下で、半分に割った椰子の実を両手に持ち、水浸しの床板を、力を込めて磨きあげる。
水夫たちは同じく、乞食のような汚さだが、椰子の油で磨かれた甲板はぴかぴかになる。
その中にラズリルの貴族であったスノウもいた。同じように汚れてみすぼらしく、あちこちに油のしみまで作っている。
それが終わったら帆の手入れ、策具の手入れ。合間にエサ同然の不味い飯を食う。夜まで休む暇もない。
「………お若いだんな」
並んで甲板を磨いている男は、小さな声で話しかけてきた。海賊船に乗って、一緒にラズリルに攻め込んだ仲間の、最後の生き残りだった。
そして彼らの乗り込んだ船は、クールーク船籍の、商船を装った海賊船だった。正確に言えば私拿捕船。船の規模はこちらがかなり大きいが、やっていることは、スノウが前にやっていたのと同じだった。
「わしら、いつまでここにいたらいいんかのう。あんたもだいぶ、くたびれてきたのう」
男は、抜け落ちた歯の間から震える声でこう言った。
スノウも痩せてしまっていたが、この男の衰えようのほうがひどかった。髪も抜け落ちて、もうどこから見ても老人だった。
「困ったよ、ネイ島からますます離れていってしまう」
男は本当に縮んで見えた。どこか悪いのかもしれなかった。
「帰る前に寿命が尽きちまうよ。せっかくダンナに土産までいただいたのに……」
スノウは、「何とかする」と答えた。
甲板磨きが一段落して、朝食が終わった後、スノウは甲板長のところに行き、「お願いがあるんです」と切り出した。
甲板長は忙しそうだったが、「手短に話せ」といってくれた。
「拾ってもらってありがたいと思っています。しかし、ぼくと一緒に来てくれたものが、体調を崩して家に帰りたがっています。もしネイ島近くに行くことがあったら、船から降ろしてやりたいんです」
「あのじいさんか……乗せていても働けそうにないからな。だが、すぐにというわけにはいかない。今、あのあたりはオベル王の勢力範囲だからな……」
甲板長が言い終わる前に、甲板のほうで叫び声が起こった。
「ケンカだ!」
「ひげじいさんが刺されたぞぉ」
甲板には人だかりが出来ていた。倒れた老人の周りを遠巻きにしているのだ。
首を切られてひどく出血しており、もう手の施しようがないことはあきらかだった。
「なんで、なんでこんなことに!」
腕組みをして見下ろしていた水夫たちが、スノウに教えてくれた。
「このじいさんが、赤い宝石を持っているのを見た男がいた。あんたがいないときに、そいつが石を横取りしようとした。それでも抵抗して刺されちまったんだが、首を掻っ切るってのはちょっとやりすぎだよなあ……」
「刺した男は宝石を持って逃げた。船の中だ、すぐつかまるだろう」
「盗んだ宝石を惜しんで殺されるとは、まったくケッコウな死に方だぜ」
そういってあざ笑った男がいたが、周りの水夫にたしなめられて黙り込んだ。
「やめろ、どうせおれたちだって似たようなものだ」
スノウは立ち上がり、その水夫の前に立った。
「なんだ、この小僧は」
「彼は盗んでなどいない。ぼくが、土産にしろと彼にあげたんだ」
そういうと、スノウは泣き出した。
「ぼくのせいだ。ぼくがじいさんを殺したんだ……」
「頭がおかしいんじゃないのか?」
スノウは座り込んで、泣きながら、老人が絶命するのを見守った。
やがて雨が降ってきた。スノウが一人で座っていると、クールーク人らしい、黒い髪を後ろで束ねた、まだ若い水夫が近づいてきた。
若者は黙って、白い麻布を差し出した。
「これでじいさんを包んで、縫うんだ。やりかた、わかるか?」
スノウは若者を手伝って、老人の体を布で包み、言われるままに針と糸を持った。しかしすぐにスノウの手は刺し傷だらけになってしまった。かなり時間がかかっても、まだ10センチも縫えないありさまだ。
「日が暮れちまう。かせ、おれがやってやるから」
麻袋を縫いながら、若者は「おまえの父親か?」とつぶやいた。
スノウは首を振った。
「じいさんの本当の名前は何というんだ」
「知らないんだ。名前も聞いていなかっ……ぼくが殺した。親切にしてくれたのに。ぼくは、人でなしだ……」
スノウはいつか手放しで泣いていた。若者はちらりとスノウを見やり、ため息をついた。
「まあ、それだけ泣いてくれるやつがいるってだけでも、このじいさんはまだ幸せかな。おれたちはどうせ、虫けら以下だもんな……」
数時間後、甲板に人が集められて、簡単な葬儀が始まった。
スノウはそのときに、この船の船長を始めてみた。歳は40すぎ、背が非常に高い、無表情な男で、金髪を短く刈り込んでいる。
祈りを捧げる声は知的で、海賊、または私拿捕船の船長というより、クールークの軍人といった印象だった。
船長の祈りが終わり、板に載せた老人の体を海に投げ入れる。
スノウは、水しぶきを上がるのを見つめ、手を合わせて祈った。
どうか彼が天国に行けますように。安らかに眠れますように……。
多分、自分もそのうち後を追うから、それで許してくれと。
顔を上げると、船長と目があった。スノウは感謝を込めて会釈をした。船長は頷き、きびすを返して船室に消えた。
夜。甲板で固いパンを水で流し込んでいると、後ろから呼ばれた。
「おい、お前。スノウ」
振り返ると、水夫長が立っていた。
「船長がお呼びだ。ついてきてくれ」
途中、先ほどの黒い髪の水夫に会った。若者は策具を手入れしていたが、スノウの足に気づいたか、顔を上げた。
しかし水夫長とスノウを見比べ、ひどく慌てて顔を背けた。
スノウが「さっきはありがとう」と言うと、「別におれは」とそっけなかった。水夫長とスノウが通っていくと、他の水夫たちがひそひそと何か言っているのが聞こえた。
スノウは廊下を歩きながら、ふいに強烈な不安に襲われ、立ちすくんだ。
どうしても足が動かないのだ。これ以上歩いていくと、何か非常に悪いことが起こるような気がした。
『早く来ないか!」
水夫長に恫喝されるまで、スノウはそこに立ちすくんでいた。
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