海の棺 2
05/9/7
暗く狭い廊下の中ほどに、長身の男が立っているのが見えた。
ゆれるランプの光に照らされて、短い金髪の毛先が白く輝いている。
昼間見たあのクールーク人の船長だ。彼は軍人のように背筋をまっすぐに伸ばして、長大な剣を布でぬぐっている最中だった。
そしてその足元には、小柄な水夫が倒れていた。手には短剣を握り締めていたが、どうやらもう死んでいるようだった。
前を行く水夫長は、振り向いてスノウに命じた。
「この男を布に包んで、海に捨てろ。床に落ちた血も拭いておくように」
すると、船長が口を開いた。
「中にももう一人いる。誰かもう一人呼んで来い。しっかりしたやつがいい……いや、もう来ているようだな。おい、お前。ラズリル」
水夫長とスノウが振り向くと、黒い髪を後ろで束ねた、日焼けした若者が、顔をこわばらせて立っていた。
スノウの礼の言葉も受け取らなかったのに、なぜかついてきていたのだ。
「お前も手伝え。中には女がいる。それも片付けておけ。甲板には運ぶな、ここの窓から捨てるんだ」
「承知」
若者は顔色も変えずに即答した。
「包む布と、ぞうきんを持ってきます」
若者が姿を消すと、スノウは水夫長に命じられるまま、死んだ男の足を持ち、部屋の中へ引きずっていった。小柄な男だが、死んだ体は重い。
やっと部屋の中に入ったところで、何かやわらかいものを踏みつけた。
思わず飛び上がると、足の下には血まみれの女の手があった。
中は「凄惨」の一言だった。
狭い部屋にはベッドがあり、そのベッドから上半身を投げ出して、若い女が死んでいた。
スノウが踏みつけたのは、その女の手のひらだった。そしてその無念そうな死に顔は、どんな戦死者よりも恐ろしいものだった。
スノウは腰を抜かしてしまい、見開かれた女の目を閉じてやることもできなかった。
「何で女が船にいるんだ、と思っているな」
船長は腕組みをして薄く笑っていた。恐ろしいのは死んだ女の顔だけではない。
この男の酷薄な笑顔、死んだ魚のような目。妙に隠微な印象を与える、赤くて厚みのない唇。すべてが恐ろしかった。
「その女は商船を襲った際に捕らえたものだ。ここで特別な仕事をしてもらっていた。どういう意味かは、わかるな」
スノウは震えながら、何度も頷いた。声も出なかった。
船長は、倒れた男を足先で蹴りつけた。
「こいつは今朝、お前の老人を殺して逃げていた。ここに逃げ込んで女を斬ったので、私が成敗した。老人が持っていたという宝石だが、どこかに隠したようで見つからないのだ。そのうち出てくるだろうが……まったく、お前もよけいなことをしたものだな」
スノウは吐きそうになり、手を口で押さえた。
自分が不用意に与えた宝石が老人を死なせ、それをもって逃亡した水夫が女を殺し、その水夫がまた船長に討たれ……。
ここまでくると、スノウの鈍い理解の限界を超えていた。
船長はしかし、上機嫌にしゃべり続けていた。
「だがひとつ問題がある。せっかくの暇つぶしの道具が死んでしまったのだ。私だけではない、他の連中も退屈してしまう」
「…………そうですか……」
この船長がクールークの海軍にいたのなら、私拿捕船の船長として厄介払いされたのも無理はなかった。
「実は、一緒に捕まえたのがもう一人いる」
船長はそういうと、ベッドのむこうのカーテンを勢いよく引いた。
その床の足元に、女児がうずくまっていた。
青い目、麦わら色の髪の、かわいらしい子供だ。おそらくは10歳にもなっていないだろう。その子供は女の死体を見て、一言「ママ」とささやいたが、それから黙りこくってしまった。泣きもしない。目を開けまま、気を失っているのだった。
「多少は使えると思うか?」
スノウはうめいた。
「許してくださ……」
「それではわからぬ」
スノウはふらつく足を踏みしめ、船長に向き直った。
「どうぞ、この娘にお慈悲を。次の港で下ろしてやってください……」
船長は大げさな身振りで、両腕を広げた。
「お優しいことだ。だがこの船の連中は血の気が多い。私も含めてだが……ガス抜きが必要だ。誰かがその相手にならねば、爆発するだろう」
船長は「誰かがな」と繰り返した。
そして手を伸ばし、スノウのあごを手で掴んで、上向けさせた。
「お前でもいい」
若者は気を失いそうになるのを必死にこらえた。
悪い予感はこれだったのだ。
「お前の心がけ次第では、娘には手をつけさせないでおいてやろう。どうだ」
小さな娘は、やはり目を見開いたまま動かない。
スノウにはもう、逃げ道はなかった。
「……わかりました」
「成立だな。今日からお前はここで住め」
船長は楽しそうに声を立てて笑った。
「よかったな、小娘。このお方がお前の代わりになってくださるそうだ!」
やがて戻ってきた黒い髪の若者は、スノウに手伝わせて、二人の遺体を布で包み上げた。スノウは半分貧血を起こしており、足をわずかに抱えるしかできなかったのだが。
「縫うのはおれがやるから、お前は床を拭いてくれ」
そういうと、水の入ったバケツと雑巾をスノウに手渡した。
「こっち終わったらおれも手伝うから」
そういってから、スノウの顔を覗き込んだ。
「おい、気分が悪いんじゃねえのか」
スノウは声もなく、首を振った。
「ばればれなんだよ。人が死ぬのはあんまり見たことがねえな? お前」
スノウはそれにも答えず、黙々と床をぬぐっては、不器用に雑巾を絞った。
水は瞬く間に真っ赤になった。その匂いにまた、スノウは気が遠くなりかけた。絞る手にも力は入らなかった。
戦場は何度も見てきた。ただ、戦死者の片付けをしたことがなかった。流れ出した血を拭き取ったという経験もなかった。手を汚さずにすむ身分だったので。
だが、気分が悪いのは血の臭いのせいだけではない。
あの船長に言われたこと、約束してしまったことが、スノウの頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
「だめだよ、水浸しになる。もっとちゃんと絞るんだ」
若者はスノウから雑巾を取り上げ、固く絞って見せた。
「まったく、何にもできないんだな。いったいどこのお坊ちゃんだよ」
だが、黒い髪の若者の口調には、ばかにしたようなものは感じられなかった。
「だけど、マジ気分が悪そうだ。無理すんな。いいから座ってろ」
スノウは言われるまま、ベッドの横にすわり、額をベッドのへりに押しつけた。息を何度も深く吸い、懸命に落ち着こうと試みた。
「あんた、名前は」
スノウ、と小さな声で答えると、若者は「おれはラズリル」と名乗った。
「ラズリル?」
「母親がラズリル生まれだったから、ラズリルだ。変な名前だって言わるが、おれは気に入ってる! ラズリルはいい所だって、母親がずっと言ってたんだ。帰りたい、帰りたいってな。……結局帰れなかったけどな」
若者は案外おしゃべりだったが、手はけして休めない。
老人のときより、かなり乱雑な縫い目で帷子を縫いながら、ラズリルという青年はこんなことを言うのだった。
「あのな。スノウにすごくよく似た顔を見たことがあるんだ」
ほんの一瞬だが、スノウは「父のことではないか」と期待した。
だが期待は見事に裏切られた。
「この船の船首には、木彫りの像がくっついてる。胸の前でこうやって、手を交差して、ちょっと首をかしげてる……ちょっとやってみてくれねえか?」
スノウは言われるままに手を交差してみた。まるで、自分の胸をかばう女のようなしぐさだと思った。
ラズリルは満足そうに頷いた。
「そっくりだ。船に乗ってるときは見えないから、今度降りたとき見てみろよ。羽が生えてて、きれいだから」
きれい、というのに少し違和感を感じつつ、スノウは聞き返した。
「この船の船首像て、騎士像かい?」
ラズリルはなにを馬鹿な、という表情をした。
「いや、女神像だ。ふつうそうだろ?」
スノウはぷいと立ち上がり、床を拭き始めた。
すると、ラズリルはひどくあわて始めた。
「いや、別に、お前が女っぽいとか言うんじゃねえんだ」
「だけど女神像と似てるんだろ、同じことさ」
ラズリルはついに手を合わせて見せた。
「悪かったよ。怒らないでくれよ」
「許そう。きみはぼくを手伝ってくれたからね」
「もしもし。ほとんどおれがやってるんですけど?」
スノウは無理に元気を出して、手の前で指を振って見せた。
「とにかく、女神さまと、ぼくなんかを一緒にしちゃだめだ。女神様が気を悪くする。きみとぼく、二人いっぺんにバチが当たるだろ?」
ラズリルは、しまった、というように辺りを見回した。
水夫というのは迷信深いものだ。
「女神さま、お許しください。女神さまのほうが、こいつより百倍も千倍も美人です」
「ひどいな、ラズリル。ぼくはそんなに不細工だっていうのかい?」
「んなこと言ってねえよ! いじめるなよっ」
こんなむごい現場で、スノウは久しぶりに笑った。
好意をはっきり示してもらうのが久しぶりなら、笑うのもずいぶん久しぶりだった。
「お前、笑ってるのが好きだな。ずっと笑っててくれよ」
ラズリルはそんなことまで言った。ほんとうに率直な男だ。
スノウに対する強い好意を、少しも隠そうともしない。
だがもうすぐ、そんな純粋な気持ちを裏切ることになるのだ。
死体を包み終わると、部屋の窓を開けた。窓の下はすぐ海なのだった。
ラズリルとスノウは二人で、死体を窓から放り出した。
そのあと、血で赤くなったバケツの水を海面に投げ捨てた。
ばしゃん、と下のほうで音がした。騒ぎが起こりそうなものだが、水夫らはぐっすり眠っているのか、それとも無視しているのか……何の音も聞こえない。
「やな気分だ。今日は酒でも飲みたい気分さ。おれ、飲めないけどな」
そうつぶやいて、ラズリルは立ち上がり、ポケットから銀色の指輪を取り出し、スノウに見せた。
「これはあの女の指輪だ。一応洗ってあるけど、どうするよ?」
スノウはそれを受け取った。何の飾りもないものだが、裏に名前を刻印していたので、おそらく結婚指輪か何かだったのだろう。
「あの人の、形見だね」
そうつぶやき、ベッドの横に近づいた。うずくまっていた娘は、いつか眠りこんでいた。
「大事にするんだよ」
そうつぶやき、頭に巻きつけたリボンを少し解いて、銀の指輪を結びつけた。子供の頬には、涙が流れて乾いたあとがあった。
哀れな孤児。まるでイリスだ。
「さあ、行こうか。ずいぶん遅くなったぞ」
ラズリルはバケツを抱え、半分ドアを開いてスノウに呼びかけた。
「ごめん。ぼくはここから出られないんだ」
「なにを言ってる?」
「……これから、ここで働くことになった」
ラズリルの顔がひきつっていた。
「ここで働くって、この部屋がどういうところかわかってるのかよ」
「わかってる。だけど、船長と取引をしたんだ。この子を守る。でないとこの子がやられる」
青年はスノウの腕を掴んでひっぱった。
「かわいそうだけどその子はあきらめな。あの船長は、いや船長だけじゃない、ここの仕官はみんなド変態なんだ。お前には無理だ。不器用だし、気は弱いし……ヘタレだし! 第一お前、男じゃねえか! ぜえったい無理だって」
「無理でも、やらなきゃならない。どうしても」
スノウはラズリルを見上げた。
「今までずっと、自分のことしか考えてこなかった。いわれてやっと気づいたくらいだ。正直、今でもそうだ。自分が一番。でもそれじゃいけないんだ」
「なにいってやがる……お前のいうことはわからねえよ。第一、なんでお前が……」
ラズリルの顔を両手で挟みつけ、頬に自分の頬をつけた。
「ぼくは、いろんな人を傷つけてきた。とても人の痛みに鈍感だった。そのことさえ気づかなかったんだ。だけど、今ならそれがわかる。今も君を傷つけてる。……ごめん。ラズリル。だけどぼくは、大丈夫だから。負けないから」
若者はひどく震えていた。
スノウが何か言えば言うほど、ラズリルを傷つけていくようだった。
「船長があんたを見てたんだ。目をつけたのがわかったんだ。だから心配で付いてきたってのに。遅かったのか? おれには何もできねえのか?」
「ありがとう。では、ぼくのために祈ってくれるかい?」
スノウは、ラズリルを静かにドアから押し出した。そして、ラズリルと自分にも言い聞かせたのだった。
「ぼくは負けないから」
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