海の棺 3
05/9/10

部屋の灯りは消されていたが、窓から月の光が入るので暗闇ではなかった。
控えめなノックの音にドアを開けると、ラズリルが立っていた。
「これ、持ってろ。傷薬だ。痛み止めにもなる。……その、前もって塗っとけって副長が言ってた」
ぼそぼそと不機嫌にそういうと、スノウの手に小さなガラス瓶を押し付け、逃げるように立ち去った。

窓際に寄り、月の光に透かして軽く振ってみる。中身は香油のようで、不思議なほど透明なルビー色をしていた。小瓶の底には花びらのようなものが沈んでいた。
それを、音を立てないように枕元に置いたつもりだったが、それでも「ゴトン」という小さな音をたててしまった。
「ママ」
振り向くと、少女が目を覚まして半身を起こしていた。
そしてスノウを見ると、また泣き出してしまった。
スノウは困ってしまった。子供のあやし方などわからない。それに子供の泣き声を聞いたら、あの船長のことだから、いきなり切れるかもしれないのだ。
「いい子だから、眠っていておくれ」
スノウは風の紋章を宿した左手を上げ、「眠りの風」を唱えてやった。すると娘はまた安らかな寝息を立て始めた。

ドアが乱暴に開かれて、船長が革靴の音も高く踏み込んできたのは、それからすぐのことだった。
船長は、カーテンの陰で眠る娘を、冷ややかな目で見下ろした。
「親が死んでも平気で寝るか。下賎なものは、豚とかわらんな」
男はおそらく、クールークの貴族出身か何か、良家の出身と思われた。
この根拠のない誇り、身分の低いものには悲しみなどない、泣く権利もないと思い込んでいる、この傲慢さ。少し前の自分と共通するものがある。
ほんとうに醜い、とスノウは思った。自分もさぞ醜く、他人には見えていたのだろう。

船長は何の表情も浮かべずにゆっくりと近づいてきた。
スノウは大切な剣を外し、カーテンのむこうにそっと置いて、船長を見つめた。
「覚悟を決めているようだが」
「約束ですから」
そう答えると、いきなり平手打ちを食らった。
「妙に腹が据わっているのが気に食わんな!」
男は叫び、スノウの腹に蹴りを入れてきた。息が詰まり、体を二つ折りにして激しく咳き込んだ。
暴力はそれで終わらなかった。さらに手を乱暴に引っ張られて、ベッドの柵に力任せに縛り付けられたのだ。きつく縛られて、手首がちぎれそうだった。
「痛いっ」
そう叫んだとたん、往復で平手打ちを食らった。頭を柵に打ち付けて、しばらく気を失っていたらしかった。
気がつくと、下半身をむき出しにされ、足を高く持上げられていた。次の瞬間、船長の硬いものがスノウの後ろに押し付けられていた。
その船長の手には、ラズリルの持ってきた油があった。スノウは、それを使ってくれるものと思った。
船長は小瓶を眺め、つまらなそうにそれを床に放り投げてしまった。
「誰の差し入れか知らんが、よけいなことをするものだ」

スノウは苦痛に強いほうではなくて、むしろ弱いほうだった。
叫び声をこらえることができたのは、最初だけだった。そして痛みはなくなるどころか、男が動くたびに強くなる一方だったのだ。あの華奢な女の人は、この拷問をどうやって耐えていたのだろう?

(すごく辛いことがあったら、楽しいことを考えて過ぎるのを待つんだ)
以前イリスが言ったことを思い出し、楽しいことを思い出そうと試みた。
(楽しいことだけを考えるんだ……)
とても難しかった。最低限、体の力を抜かなければ危険だった。
だが体が勝手にりきんでしまって、息ができなくなる。
それを男は力任せに犯し続ける。
無理だ、ときっぱり言ったラズリルは、正しかったのかもしれない。
あまりの苦しさに目の前が暗くなっていく。ときおり意識を途切れさせながら、スノウは耐え続けた。
何も聞かない、何も考えない。男の動きを記憶しない。
ただ終わってくれるのを待つだけだ。


やがて窓の外が白んできた。もうすぐ夜が明けるのだ、とスノウは思った。
長い恐ろしい夜だったが、明けない夜というものはない。
夜明けとともに、船長はようやく納得したか部屋を出て行った。スノウは浅い息をして痛みに耐えていた。
(終わった……ぼくは生きてるんだ)

革紐で縛られていた腕は、油が切れたように動きが悪かった。
手首が黒く内出血して、血もにじんでいる。肩の辺りの関節も、脚も痛い。痛くないというところがないほどで、体全部ぼろぼろだったが、生きていた。
しばらくすると気分が落ち着き、波の音が聞こえるようになってきた。
その音はいつしか、イリスの声となった。


イリスが顔の前で、両手を振っている。火入れの儀式だ。
(イリス、ちょっと持たせてあげるってば)
(だめだよ、スノウのお役目だろ。ちゃんとやんなきゃだめだろ?)
(松明の煙が目にしみて痛いんだ……それになんか、みんなが見てて恥ずかしいんだ。きみ、やってよ)
(しょうがねえなあ。ひとつ貸し!)
イリスが松明を力強く掴み、高く掲げた。青い目がきらきら輝いて、背筋も伸びて見えた。
(ほら、なんでもないぜ。堂々としてりゃあいいのさ、スノウ)
(うん。でもかっこいいよ、イリス)
なにを考えたのか、イリスはスノウの手を引いて、暗い裏通りへと走っていった。
(どこへ行くの、イリス。みんな表通りで待ってるんだよ)
(勇者とお姫様が悪者退治さ!)
ならず者が襲ってきたら、その松明で容赦なくぶったたいた。イリスはほとんどアクロバティックな動きで、敵を次々に倒していった。
スノウは喜んで、やっちまえ! と叫んだ。
するとイリスは、振り返ってすばやくスノウにキスをした。
ぽかんと口を開けたスノウに向かって、(これからもよろしくな、スノウ)と笑ったのだ。松明の下で、イリスの頬がひどく赤く見えた。
何もかももう、遠い夢だった。


スノウは涙を流しながら、いつしか深い眠りに落ちていった。



つづき 海の棺 4

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