海の棺 4
少女は、名前を聞くと「モナ」と答えた。
ショックのせいかうまく声が出なくなったのだろう。かろうじて聞き取れるほどのささやき声だった。それでもスノウの傷ついた顔や手首を見て、ラズリルの持ってきた赤い油を塗ってくれた。
食事はラズリルが運んできて、黙って置いていった。
燻製の魚とカブ、または塩漬けの肉と干したキャベツを煮たもの。硬い黒パン、またはふすまの入ったおかゆ。水。黒く変色したりんご。
毎日この繰り返しだが、モナは文句も言わずにおとなしく食べる。
スノウも残さず食べようと思うのだが、口の中を切っていることが多く、硬いパンの食事は辛いものとなっていた。
「赤い油は、口が痛いのにもいいのよ」
少女に教えられて、手の上に油をたらして舐めてみる。味はかすかに甘く感じられ、痛みもいくぶん和らいだ。
船長が来る時間になったら、モナを風の魔法で眠らせた。だが一度、手を縛られたまま、朝まで放置されたことがあった。
目が覚めたモナはひどく驚き、紐を解いてくれようとした。だがあまりにもきつく結んでいて、子供の手には余った。
そこで小さな娘は、重いスノウの剣を懸命に持上げ、皮ひもを切ってくれた。
誰も来ない昼間は、スノウと少女は「あやとり」をして過ごした。
スノウはただ手を貸しているだけだった。あやとりは女の子の遊びで、スノウには姉妹がいなかったので全くなじみがない。おまけに不器用だった。
「お花。……橋。……、ほら、お星様」
小さな手の作り出すさまざまな形の不思議なこと。
二人で過ごし始めてまもなく、スノウは(この子に生かされている)と思うようになっていた。
出口のない生活の中、スノウと子供は一緒に息を潜めて生きた。
ある日の夕方、船長より幾分軽い、ラズリルとも違う足音が、部屋の前で止まった。モナはすばやくカーテンの陰に逃げ込んでしまった。
新手の変態か、とスノウは思わず身構えた。ドアを開けて入ってきたのは、白髪の、非常にほっそりした尉官だった。男は片足が義足らしく、動きがぎこちなかった。
すると、その音を聞いて娘が出てきた。この人物は怖くないらしかった。
「この船の副長、ティムだ」と名乗り、ローブのポケットから大きなオレンジを二つ出して、スノウに渡した。甘い香りが広がった。
「ラズリル島のオレンジだ。少し皮が厚い。お前が剥いてやるといい」
そして、「少し話してもいいか?」と聞いた。断れるはずもなくスノウがうなずくと、男は小さなスツールを引いて、ベッドのそばに座った。
白い髪の魔法使いはあらためてスノウを眺めて、「私たちはおまえの倍は生きてきた。その分、賢くなったとはとても言えない」とつぶやいた。
「ジェットは……船長の名だよ……誰よりも強く、誰よりも勇敢で、私の誇りだった。われわれは12歳で村を捨て、兵学校に入った。大きな野望があった」
誰の話をしているのかわからなくなるくらい、真実味がない。今の船長は、スノウから見ても(人間のくず)だった。
「それがなんであんな男になったのか、聞かないのか?」
「話したければどうぞ」
男は「つれないな。まあ仕方ないだろう、お前への仕打ちを考えたらな。しかも私もそれを止められないのだから」と肩をすくめた。
「霧の夜で、視界は悪かった。敵艦船と遭遇し、紋章砲の撃ち合いで相手艦を沈めた。当然だ、私が紋章砲を撃ったのだからな。ところがそれは、偽装した友軍の軍艦だった。おまけに先方の戦死者に大臣の息子がいた。全くついてなかった。われわれは軍を追放された」
スノウはあらためて、男の様子を眺めた。
額にも両手にも、宿せるところにはすべて紋章を宿している。優しそうな風情だが、恐ろしい力を持つ魔法使いなのかもしれない。
「私拿捕船に乗って、もう10年になる。ガイエンやミドルポートや、オベルの船を襲って、乗員を殺して、奪った金品は国庫に納める。敵は通商を妨げられて国力が落ちる……それもひとつの国への貢献だが、誇りは得られない。お前も同じことをしたのならわかるだろう? 少しでも喜びは得られたか?」
スノウはうつむいた。耳をふさぎたくてたまらなかった。喜び云々以前に、勝ったことすらなかったから。
「特にジェットにはひどい屈辱だった。日ごとに彼は壊れ始めた」
「ラズリルは冬は寒いか、雪はどれくらい積もる?」と聞いてきた。
スノウは、「多少は寒いですが、雪はめったに降りません」と答えた。
男は、それはうらやましいなと笑った。
「では、北クールークの恐ろしい冬は想像つくまい。冬はほとんどお日様を見ない、憂鬱なものだ。だからいつまでも群島を欲しがり続ける」
副長は窓の外に目をやった。
「ジェットを、村につれて帰ろうと思ったよ。やせた畑でも耕して、ライ麦でも作ろう、羊を追って暮らそう。もとの暮らしに戻るだけではないか。だがジェットは、いやだといった。帰っても居場所がないだの、お前なんか片足がないくせに、野良仕事なんてできるものか、寒さで傷が痛んで死ぬぞ、などと文句をつけてな。とにかく、私たちはどこへも行けなかった。これで彼の気が済むなら、どこまでもついていくだけだ」
スノウは非常に困ってしまった。
鈍いスノウだが、これは愚痴ではなくて、のろけ話だと気づいたからだ。この男が船長を愛しているのなら、この状況は許せないに違いない。
「とはいえ、お前はこのままでは死ぬしかない。船長にこれ以上、むごい振る舞いをさせたくないからな」
副長は立ち上がった。
「二人とも、船を下りられるように船長に頼んでおくよ。お前はラズリルのものだが、いきさつがある。ラズリルには帰れなくても、クールークに行くことはできるはずだ。居心地は悪いだろうがな。それにその娘は、クールーク人だ。売り飛ばすことはできぬ」
その晩、船長はいつものように乱暴だった。
スノウを殴りつけ、いつものように縛り上げて、首輪までつけた。
「いいざまだ、売国奴」
船長の手には、得体の知れない鉄製の道具が握られている。
スノウは震え上がった。こんなものを使われたら死んでしまう。
「やめてください……副長が……ティムさんが、悲しみますよっ」
船長は「だまれ、あいつの名を呼ぶと、こいつで口を裂くぞ」と叫んだ。スノウはさらに殴りつけられ、目隠しをされた。口には何か布のようなものを噛まされた。
それから、船長が冷たいものを突っ込んできた。その冷たいものは容赦なく広がり、次の瞬間、裂けた、と思った。
不用意に副長の名を出して、船長を激怒させてしまったのだ。
水魔法を唱えようとしても、手を縛られた上、口をふさがれては無理だった。
(ぼくを殺す気だ。こいつは本気だ……)
ふいに、恐ろしい暗闇が訪れた。
誰かがスノウの足に触れている。
軽く頬を叩かれ、名前を呼ばれた。
「聞こえるか」
スノウは小さくうなずいた。
「意識はあるようだな」
薄く目を開けると、灯りを持った黒いひげの男が見えた。汚れた白衣を着ており、一見して船医だとわかった。
ラズリルの顔も見えた。
若者は「モナが呼びに来た」と言い、「なんで大声で助けを呼ばないんだ!」と怒った。
「さてと、中には何も入っていない。とりあえず縫って出血を止めるぞ。おいラズリル、足を押さえてくれ」
スノウはそのときにようやく、自分の恥ずかしい姿に気づいた。全裸で、しかも両脚を広げられ、恥ずかしい部分を覗き込まれているのだ。
「な、なに……やめてくれ」
「傷口を縫うんだよ。じっとしてろよ」
船医は麻酔も使わなかった。スノウは目を固くつぶり、柵を掴んで耐えた。
ラズリルはスノウを押さえつけながら、「ちくしょう、あいつめ。地獄に落ちろ!」と罵り、それを聞いた船医に厳しくたしなめられていた。
それから何日か、熱にうなされた。
ときおり枕もとにラズリルが来てくれた。当時スノウにはありがたみはわからなかったが、これは非常に幸運なことだった。
病気になった水夫などは船底の暗い片隅に放置され、手遅れになってから病院に放り込まれるのが常だったからだ。
「先生。熱が下がらないぞ。ここ数日、水を飲ませるのがやっとなんだよ」
「傷は順調に治っている。過労で弱っているのだ」
ラズリルと船医が枕元で話すのを、夢うつつに聞いていた。
それでも、4日目には起き上がることができるようにはなった。状況は悪くなるばかりだったが、スノウはまだ生きていた。
つづく(海の棺5.最終章)
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