東の拝殿 10
2006/09/26

オベル王室の婚礼は、祝詞で始まり、祝詞で終わる。
位の高い神司が王宮に集い、朗々たる声で小半時も祝詞を唱える。その後、ようやく新婦と新郎が杯を交わす段になった。
フレア姫が生まれたときに仕込まれた古酒が杯に満たされて、神司の手から王女に渡された。王女は優雅に杯に口をつけ、その手からデスモンドに杯が手渡された。酒は、花の香りがした。
それをデスモンドは、(フレア様の香りが移った)と思い、感激に震えながら飲み干した。

それから、王宮中が宴の席となった。この島では、新郎新婦はただ座っているのではない。酒を持って客の間を廻るのも、大切な役目だ。
最初こそフレア王女も一緒に回って挨拶をしてくれたが、やはり衣装が重かったらしい。
「ごめんなさい。私、ちょっと休んでくるわ」といった。
姫が席に戻るとすぐに女友達が集まり、華やかな笑い声があがった。どうやら退屈する間もなさそうだった。

酒宴の間にも、山海の珍味が山のように運ばれてくる。特別に頼んだ楽人たちも、威勢のいい三弦や太鼓の音を響かせている。客たちは食べて飲むのに忙しい。
さすがに今日ばかりは、デスモンドを捕まえて「三弦を弾け」と求める人はいなかった。それでも多少のからかいを受けながら、広い宴席を歩き回り、重要と思われる客には全て酒を注いだ。

客をもてなすという仕事も終わった。そろそろフレア姫のところに戻ろうかと思ったころ、王が一人でいるのに出くわした。

王は、ほんの少しまで多くの友人に取り巻かれて、にぎやかに笑っていたのに、その一瞬、たった一人だった。
さんざめく宴席で王は一人、深海にすむ魚のように孤独だった。だが誰もそれに気づいていない。皆、自分が楽しむことに忙しく、王の悲しみに気づかないのだ。

デスモンドはそっと歩み寄り、王の前に膝をついた。
「王、一杯いかがですか?」
リノ王は目の前に婿が来て、ようやく気づいたらしい。
「ああ、お前か」
デスモンドは微笑み、リノ王の杯に酒を注ごうとした。
「もうおれはしたたか酔ってるんだ。少しだけ、くれ」
「はい、少しだけ」
デスモンドは笑いながら、ほんの少しだけ酒を注いでやった。
王は杯を手に持ち、「本当にほんの少しだな」というと、ぐいと飲み干し、デスモンドを軽く睨んだ。目は酔っていて焦点は合わないが、もう寂しそうではなかった。

「お前みたいな軟弱者に、女王の夫が勤まるものか。お前なんか三弦でも弾いて、ベソかいて歌っていりゃいいんだ」
「そうですね。よかったら弾きましょうか?」
「手ぶらで言うな。その気もないくせに」
デスモンドは辺りを見回した。宴席の前のほうに、楽人が数人、にぎやかに演奏している。
「ちょっとお待ちを。あの方の三弦をお借りして来ます」

「ったく、こんなときまで、太鼓持ちをやらんでいい」
王はとうとう笑った。だが笑っているうちに目が真っ赤になってきた。

「王、私たちは、いつもおそばに居ます」
王はとうとう、両手を目じりに押し当てた。泣くまいとしているようだった。

「おれの娘を、大事にしてくれ」
「はい、私の命よりも」
「おれのことも、大事にしてくれな?」
婿は(この若さで、今から老後の心配だろうか?)と驚いたが、この国では年寄りを大事にするのは当然のことだ。だから婿は神妙に頷いた。
「もちろんです」
王は満足そうに頷いた。

「では、そろそろ寝所に行くか」
驚いたのは婿だった。なんと露骨なことだ。寝所に行けとは! しかし彼もかつてオルナンに看破されたように、この顔でむっつりなほうである。王にからかわれるまでもなく、頭の中は朝から姫との初夜のことで一杯なのだった。
あの赤い衣装もすばらしいが、その中身のほうがずっと興味があった。

デスモンドは浮かぶ妄想を振り払い、立ち上がった。寝所云々はさておき、フレアのことが気にかかっていた。一人で退屈しているかもしれない。
「王も姫様のところへ行きませんか。一緒に飲みましょう」

だが、後からがしっと腕をつかまれた。
「先に行って待っているから、適当に抜け出して寝所へ来い」

耳元で染め染めと口説く声は、恐ろしいくらいに低く、濁っていた。
「わ、私と姫のことを、認めてくれたのではないのですか?」
「お前を婿と認めたからこそ、言っている。王子の花嫁は、初夜は父王と過ごす。理不尽だが、それが王家の掟なんだ」
デスモンドは震えながら答えた。
「わけが、わかりません。王」
「初物は年長者が頂く。それを拒む嫁は、若く死ぬ。おれの妻もそうだった。お前には長く生きて欲しい」
王はいつのまにかデスモンドの手をとり、口走った。
「お前の手が好きだ」

風がさっと吹いて、デスモンドの長い裾を巻き上げた。婿は震えながら、王の手から逃げようとしたが、王は指を絡ませて放そうとしなかった。

「私は王子の嫁ではありません。王女の婿です」
「嫁も婿も同じことだ」
小役人はついに、「もとより、初物でもありません」と小さな声でつぶやいた。
「知っていた。小さなことは気にするな」
王の答えは簡潔で、有無を言わせない。

デスモンドはうつむいた。
「姫が悲しみます。姫が、かわいそうです」
胸が張り裂けそうなのは、デスモンド自身だった。生きるということは、戦があってもなくても修羅そのものだ。

「婚礼の夜にあなたと過ごして、明日の朝、どんな顔をして姫に会えばいいんですか」
「普通にしてりゃいいんだ」
姫を持ち出して、情に訴えようとしても無駄だった。王はこともなげに言い放った。
「あれを若後家にしたくないだろう。言って聞かせろ。なんとか言い含めてこい」
デスモンドは目に涙を溜めて、「では姫に言って聞かせてきます」と答えた。歩くにつれて頬に涙が溢れ、拭っても拭いきれない。


席に戻ると、姫はデスモンドの異変に直ぐに気づいた。
「どうしたの、大丈夫?」と小声でささやき、小さな手をデスモンドの額に当ててくる。
「気分が悪いの?」
デスモンドは涙をこぼしながら、フレアの手に自分の手を重ねた。
小さな手の、愛しい妻。いまさら思い知ることは、この世で本当に愛しているのは、フレアだけだということだった。
だが大切な妻をどうしたら守れるのか、早くも分からなかった。

口もとだけで微笑みながら、「すみません、泣き上戸なのです。お客様と、少し飲みすぎました」と言い訳するのも、大変苦しいことだった。


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