東の拝殿 7
2006/09/19
航海を終えた哨戒船が、港の外で帆を整え、入港の順番を待っている。デスモンドは、この船の責任者から報告を受けるために、港に出向いてきていた。
船は、緑の帆の色も鮮やかだった。これはフレア姫が哨戒に使っていたものと別の、新しい船である。木の香りもすがすがしいことだろう。
この船を設計したのが、船大工のトーブである。
王女が結婚するという知らせは、すでに島に行き渡っている。だが、姫の相手が誰かということは伏せられていた。
おかげで、知り合いの商人がよくせっついてきていた。
「デスモンドさん、王女の婿さんは誰なんですか? もう明日なんだから、ちょこっとだけ教えてくださいよ。誰にも言いませんから」
デスモンドは「明日になればわかりますよ」と澄まして答えた。後で恨まれるかもしれない。
人が悪いわけではない。風習だから従っているに過ぎないのだが、デスモンドにとってはありがたかった。フレアの相手が自分だと知れた日には、まともに外を歩けなかっただろう。
王と結婚する人間は、婚礼の日まで、それが誰であるか明かされることはない。フレア王女は王位を継ぐ人間なので、その王女と結婚するデスモンドも、決められた風習を踏む。
すなわち婚礼の朝、顔に布で隠した姿で、浜まで降りて行く。
神に仕える女の手により、海の水を足元、手、頭に注がれて、王族の相手として相応しく清められる。その後、王宮へ上る石畳を歩く。それでようやく、正体が知れるというわけだ。
今のリノ王が王妃を娶ったとき、デスモンドは沿道で行列を見守った。海での儀式を終えて、石畳を歩いてくる王妃は、輝くように美しかった。
小麦色の肌、慈悲深い微笑み、豊かな髪、すらりとして豊かな姿……。少年だったデスモンドは、手に持った花を撒くのも忘れていた。リノ王も王妃と歩いていたが、王妃ほど注目を集めなかったのではないか。
デスモンド自身、リノ王がどんな姿だったかを覚えていない。それほど王妃が目立ったということだろう。
(婚礼ってのは、男はせいぜい添え物だってことだ)
「デスモンド殿!」
野太い声に振り返ると、ずんぐりした男が居た。船大工トーブである。
相変わらずいかつい顔をしているが、幾分、顔の肉が落ちたように見えた。
「まずは、王女様のご結婚おめでとうございます」
船大工は、そういって深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます」
デスモンドは思わず赤面し、口の中で礼を述べた。
「そして、格別のご配慮を感謝いたします……我々ごときのことを、気に留めて頂き……」
船大工はそこまで言うと、懐から書き付けを取り出し、大切そうに広げてみせる。オベル王の名の下に発行された、罪人の赦免状だった。
「ああ、ハルトの赦免状ですね。やっと届いたんですか?」
「今朝、王宮の使いの方に頂きました」
船大工は顔を引き締めた。
「これでハルトは帰って来られる! ありがとうございます!」
デスモンドは、手放しで喜ぶ船大工の笑顔に釣られて、つい微笑んだ。
「恩赦のことなら、お気になさいませんよう。古くからの風習に従ったまでですから」
「しかし、ハルトが恩赦に選ばれる際に、あなたからのお口添えがあったとお聞きしました」
「名前を言っただけですよ。口ぞえも何も」
トーブはうつむいた。
「それでも、あなたは私たちの命を救ってくれた」と言うと、手ぬぐいで顔を拭った。
渋い色の袖が、強い風に翻った。
デスモンドは「言わずもがなのことですが」と前置きをして、王を弁護するのも忘れなかった。とにかくこの船大工を、引き止めておく必要がある。
「トーブ、どうか王を恨まないでください。ハルトを追放したのは、それだけあなたの腕と、将来性を買ってるからなんです。短気を起こして、よその国に行ったりしてはだめですよ」
船大工は「肝に銘じます」と深く頷き、デスモンドの手をとり、頭の上に伏し拝んだ。
「あなたに、幾久しく幸せがありますように」
デスモンドは妙に面映く、「あなた方にも」と答えると、そっとその手を引き抜いた。
「ほら、船が着きますよ。早く行ってあげてください」
船大工はあわてて赦免状をしまいこみ、必死の目つきで船を見守っている。
船が接岸した。
猪のようないかつい体格のトーブは、驚くべき素早さを示した。船梯子から誰も下りぬうちに、船長の許しもあればこそ、すごい勢いで駆け上がっていく。
甲板が騒がしくなり、怒鳴りあう声が聞こえたが、すぐにそれも静かになった。
やがて姿を現した船大工は、背中に小さな荷物を背負って梯子を降りてきた。それに続いて航海士が降りてくる。その時のハルトは髪を結わず、肩に乱れるに任せていた。髪を構う気力がなかったのだろう。
二人ともやつれて疲れていたが、それでも十分幸せそうだった。無表情なハルトですら、顔を紅潮させ、笑顔らしきものを浮かべている。
デスモンドのところまで来ると、船大工は深く頭を下げ、またハルトに促して、一礼させた。
「お幸せに。今後は用心してくださいよ」
デスモンドの言葉に二人は頷き、急いで立ち去っていった。
実に、何を幸せと感じるかは人それぞれで、余人に推し量ることは出来ない。
「幾久しく幸せがありますように、か」
デスモンドは手をかざして、空に上る雲を眺めた。
自分の幸せというのは、実はあまり考えていない。フレア王女が幸せであることが全てだった。
王は激怒したが、東の拝殿での一件で気がすんだらしく、最後は結婚を許してくれた。
明日は海の神の祝福を受けて、この石畳を歩いて王宮に登り、婚礼を挙げてフレア王女と夫婦になる。
(姫様と夫婦に)
得体の知れない不安は、前から感じていた。今、その不安は恐怖となって押し寄せてくる。
(本当に私なんかでいいのか)
(いいわけがない)
(欲しいと思うこと自体、間違っている)
不吉なメッセージが心の底から吐き出され、止めようがない。心臓の鼓動が早くなり、息も苦しくなって冷や汗が出る。だが仕事はしなければならない。
デスモンドは震える足を踏みしめて、哨戒船の責任者から報告を受けるために、甲板に上っていった。
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