東の拝殿 8

2006/09/10
夜、小役人は一人で部屋に居た。
昼間感じた恐怖は、夜になってもデスモンドを苦しめていた。
王に反対されているときは、これほど不安ではなかった。晴れて結婚できる、その結婚を明日に控えた今、これはどういうわけなのか。
開いた窓の外に月が出ていた。
(ここから逃げ出せたら)
そんな卑怯なことまで考えてしまう。

気分が落ち着かないときは、部屋の片づけをするのに限る。そう決めて書棚の整理を始めたが、その手は直ぐに止まってしまった。
デスモンドは、王女の手習い帳を、書棚の一番高いところに大切に保管している。手に取ればページを繰らずには居られない。
デスモンドが薄く字を書いた上に、フレアが拙い線でなぞった跡。盛大にはみ出した、力強い字。
滑らかに線を書くことが出来るようにと、渦巻き模様も練習させた。手習いに飽きると、同じ練習帳に二人でお絵かきをした。
一つ一つの落描きを見ていると、そのときのことが鮮やかに思い出されていく。
王宮の庭で見つけた、巨大なカタツムリ。脱皮したセミの抜け殻の絵。ぎょろりとした目の、今より少し髪の多い、セツの似顔絵。相変わらずいかめしい、リノ王の顔。
背負ったフレア王女の重みも思い出されてくる。

少年だったデスモンドは、フレア王女を背負って歩き、何か見つければ、背中の王女に話しかけた。フレア王女はあまり言葉を話さない。王妃が死んで以来、発する言葉は非常に限られていた。
王女はちゃんと聞いていて、心の中で答えているのだが、それが声に出ない。言葉を発さなくなった王女に向けられる視線は、とても冷たいものだった。

(王も気の毒に)
(あんな虚けた子、とても王位なんか継げないだろう)
(人目につかないところに隠しておけばいいのに)
(ふらふら出歩いて、王女を見世物のように、あの書記のバカ息子は)

そんな陰口を聞くと、妹をけなされたようで辛かった。(王女は必ず言葉を取り戻す)と信じていたが、世界で二人きりのように孤独だった。
そんなときは、背中に王女を背負ったまま、巨木の木陰に逃げて行き、古い子守唄を歌った。歌うと慰められるので、むしろ自分のために歌っていた。

  おんぶしてあげようね。重くなんかないよ。
  この木みたいに大きく、強い人になっておくれ。
  大きな船に乗って、大きな海を渡り、
  いつか帰ってきたならば、姉やに話して聞かせてね……


感傷に浸っていると、小さなノックの音がして、いきなりセツが入ってきた。
「どうした? 辛気臭い顔をして」
デスモンドは慌てて、「ちょっと疲れただけです」と言い訳をしながら、顔の涙を拭った。

セツは手の中の酒瓶を振って見せた。
「古酒をガメてきてやったぞ。ツマミもな。飲み明かそう」
「せっかくですが、あまり飲みたい気分では……それにそろそろ寝ないと」
そういうそばから、セツは強引に部屋に入ってきて、酒の準備をし始めた。
「人の親切は受けるもんだぞ。どうせ眠れないんだろ」

そういいながら持参した杯を押し付けてきて、それに酒を注いでしまった。つまみはパパイヤと生姜の黒砂糖漬けに、豆腐の麹漬けとという、渋い取り合わせだった。
「ここまで来たら、覚悟を決めるんだな」

セツは、冗談めかしているが、目は真剣だった。
「花婿ってのは腰が引けてるんだ。もうちょっと自由でいたい、どこかに良い女が居るんじゃないか、逃げ出したい、ってね。だからラズリルあたりじゃ、前の晩はバカ騒ぎをして、花婿に散々飲ませてやるんだと。気がついたら結婚式の朝って寸法さ」
「セツ様」
「ラズリルの料理はオリーブ油塗れでひどいが、前夜飲んだくれるって風習は上出来だよ。オベルでも流行るべきだ」

「セツ様、私は……逃げたそうな顔をしていますか?」

上司は片方の頬だけで笑った。目つきの悪い顔が、また一段と人相悪く見えた。
「まあな。飲め。デスモンド」
そういうとセツは、はげ頭を叩いて見せた。
「おっと、これからは呼び捨てにはできんな。デスモンド様か?」
「ムズムズします。これからもデスモンドと呼んでください」
そうはいかない、とセツは笑いながら、「お前の父は、そりゃあ頭が良かったし、まあまあいい男だったよ。お前は相当に落ちるが、それで王女の心を射止めるとはな」と軽口を叩く。

何を言われても、デスモンドはため息しか出ない。少し酒が入ると、もう少し本音が出た。
「やっぱり間違ってますよね」
「あん?」
「王女にはどこかに、私よりももっと相応しい人がいるはずなのに」
「まったく、その通りだ。お前、分かってるじゃないか!」
思わずデスモンドはむせそうになる。
「セツ様、フォローになってないですよ」
「フォローして欲しかったのかい?」

セツは真っ赤な豆腐を旨そうに舐めながら、すでに出来上がりかけている。
「もう前を向いて走るしかあるまい。古い思い出に浸ってる場合じゃなかろう?」
そういうと、ベッドの上の古い練習帳を指差した。
「いつまでも姫の守姉さんでもないだろう」

デスモンドは目を伏せた。セツにはお見通しなのだ。もしかしたらセツなら、相談に乗ってくれるかもしれない。デスモンドはとうとう、本音を打ち明けることにした。
「怖くてたまらないんです。私なんかじゃ、フレアさまを守れないんじゃないか、不幸にするんじゃないか、って。結婚できるとなったら急に怖くなって」
練習帳をそっと胸に抱きしめて、繰り返した。
「大事な人ですから」
セツは「うむ」と唸り、頭を引っ掻いていたが、しばらくして、「そうか!」と言い出した。
「お前、もしかして、怖いんだな」
「だから、さっきからそう言ってるじゃないですか」
デスモンドはつい、いらいらと口返事をしていた。
酔っ払いに相談なんかするものじゃない。すると、セツが酒瓶を片手に這い寄ってきた。
その目は恐ろしく据わっていた。
「要するに、あれだ。初夜にちゃんとできるかな、出来なかったらどうしよう、とか、そういうことだろう、お前の悩みってのは!」
デスモンドは驚いて、杯を膝の上に落としてしまった。

「図星か。さてはお前、いい年をして童貞だったか!」
「お、お顔が近すぎます」
間近に見るセツの目は、異様に血走っていた。悪い酒らしい。
「はぐらかすのが怪しい。お前は顔に似合わずマセガキで、商売女と駆け落ちしかけたが、あの時はまだ童貞だったんだな!」
デスモンドは辺りを見回し、「セツ様、お声が大きい」とセツを制しようとした。だがセツは、いよいよ絶好調だった。

「童貞で30歳で、それで純潔を奪われるとは、哀れなことだ。なんなら、これからでもなじみの女のところに連れて行くぞ。年増だが、いいやつでな。手取り足取り教えてくれるわい」
「いえ、ご遠慮します」

デスモンドは次第に否定する気力を失っていた。変なことを言われた気がするが、問い返すのが恐ろしかった。
「そういう心配事ではないんです。残念ながら童貞でもないし。一応だけど」
「そうか?」
セツはさらに考え込んだ。
「わかった。お前は、玄人の女ばかり相手にしてきたんだ。処女を相手にしたことがないから、怖いんだろう!」
「…………!」
「そういうことなら、何とかなるぞ。要は急がないことだ。お前の三弦を扱うように、優しく、優し〜く……いたせばいいのだ。わかったか?」

ついにデスモンドは立ち上がった。忍耐も限界というものだ。
「セツ様、あんまりです。不敬です。王女に失礼ですよ!」
「お? お前は、フレア王女は既に処女ではないというのか?」
「違うんです、そんなことを論じること自体、不敬だと言ってるんです!」
いつもと違って、激しい口調のデスモンドに驚いたのだろう。セツは困ったように笑うと、機嫌を取るように豆腐を勧めてきた。
「まあ、これでも食え。元気になるぞ。それにな、もう気にするな。素人童貞なんて、いくらでもおるわい」
その後は馬鹿笑いである。

デスモンドは頭を抱えた。このおやじを、部屋に入れるのではなかった。リノとは別の意味で凶悪である。どうしたらいいのか。だがあまり「素人童貞」と連呼されると、本当にそれが自分の悩みだったような気がしてくる。
「飲みましょう、セツ様」
「お?」
「もう、何でもいいから飲みましょう! 付き合ってくださいよ」
「何とかなります! ええ! もう心配してもしかたない」
「その意気だ、がんばれ、書記の息子!」


その後互いに杯を重ねあい、酒瓶が空になったところで、意識が途切れてしまった。
気がついた朝だった。隣には、膨れ上がった腹をはだけたセツが寝ている。自分は下着だけの姿だった。まさかとは思いながら、自分の体を確かめずにいられない。
(何にもされてない。何もしてない。よかった)
デスモンドはほっとしたが、同時に物悲しくもあった。
(私の人生っていったい)

やがてデスモンドはため息をついて、立ち上がった。
二日酔いの顔で婚礼である。今となっては、儀式のあとも、顔を隠していたい心境だった。


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