東の拝殿 9
2006/09/24
婚礼の朝、デスモンドは濃紺の結婚衣裳を身につけ、編み籠を被って王宮を出た。
その籠は肩先で支えられるほどの幅で、編み目の隙間から、かろうじて足元が見える。
あまり密に編まれていないため、風通しは良い。顔を隠すといっても、よく見れば顔かたちは見えるのだろう。
だが、沿道の窓はぴたりと閉められ、歩いているものもいなかった。
そういえば、とデスモンドは思い出した。亡き王妃が輿入れしたときも、戻ってくるまで家で息を潜めていた。外に出て行って王妃の顔を覗こうとすると、罰が下るというのだった。
何度かつまづきそうになりながら、ようやく海まで下りると、既に白い服を来た女たちが待っていた。彼女たちは神司と呼ばれ、さまざまな祭りのときに必ず出てきて、島人の幸を寿ぐ。
神に仕えているとはいえ、独身を通しているわけではない。女たちは普段は普通の主婦だったり、店の女主人だったりする。子供が何人もいる、いや、孫までいる神司も少なくない。
デスモンドの前に立った神司は、落ち着き払った中年の女だった。彼女は少し甲高い、厳かな声で命じた。
「被り物をお取りになり、跪いて、頭を低くしてください」
言われたとおりにすると、神司は素焼きのつぼを捧げ持ち、それを高く差し上げた。
デスモンドは深く頭を垂れた。
頭と手と足に、ほんの少し水を垂らすだけとだと聞いていた。
しかしやってきたのは、ほんの少しだけではなかった。あっと驚く間もあらばこそ、素焼きのつぼに満たされた水を、一気に頭の上にぶちまけられたのだ。
覚悟する時間もない。何が起こったのか、しばらくわからなかった。
背中まで塩水が入ってくる。頭から腹部まで、塩水でびしょぬれである。強烈な塩味が口の中に入ってきたが、デスモンドはいっそう深く頭を垂れた。
(私の罪穢れを戒めるためだろう。ありがたいことだ)
そう思い込んだのはつかの間だった。
「立ち上がり、お手を前に」
神司の声が震えていた。デスモンドがそっと見上げると、彼女が手に持った素焼きのつぼが、ひどく震えている。顔はひきつり、口を真一文字に結んでいる。
(手元が狂ってしまったんだ)
神司でも焦るんだと少し驚いたが、腹は立たなかった。
(二日酔いには丁度いいさ)
それから手と足先を清めてもらい、立ち去り際に頭を下げると、神司は小さな声で「申し訳ありません」と詫びた。
デスモンドは「ありがとうございます」と微笑み、王宮へ向かって歩き始めた。足元には、ばたばたと水滴が落ちているのが、われながら可笑しい。
浜から少し上がったところでフレアと、リノ王たちに出迎えられた。二人とも正装し、王者の風格を漂わせている。
フレアは母譲りの婚礼衣装、リノ王は例の、露出の多い衣装である。
特にフレアは、朝日そのもののような輝かしさだった。
金髪を高く結い上げ、額には珊瑚やヒスイをちりばめた、王家伝来の髪飾りが揺れている。
姫のまとう衣装は、赤地に金糸を織り込んだ絹もので、引きずるほどに長いが、王女はそれをまとめて手に持ち、軽快な足取りで歩いてくる。
その裾が風に翻ると、真珠色の脚と編み上げサンダルが見えた。そのサンダルのヒモにまで、赤い珊瑚を無数に通している。
(亡き王妃様よりもきれいです、姫様)
デスモンドは心の中でつぶやいた。王女の美しさに涙が出そうだった。
フレアはデスモンドのところに来ると、くすくすと笑い出した。
「また派手に掛けられたのね!」
「はい、それはもう念入りに」
すると王が、少しわざとらしく高い声で笑いながら、デスモンドの肩に手を回してきて、酒臭い息を首にかけてくる。
姫の前なのにと、デスモンドは大いに逃げ腰である。
「水もしたたるいい男じゃないか」
その笑い方が何かわざとらしい。デスモンドは作り笑いをして、そっと尻に回そうとする手を、さりげなく外した。
デスモンドも二日酔いだが、王は二日酔いではなくて、今まさに「酔っている」のだった。酔っているのだから、場所柄もわきまえず「お戯れをなさる」わけだった。
「しかし花婿が濡れ鼠とは幸先が悪いな。神司の手がちょっぴり滑ったばっかりに」
ここでようやく、鈍いデスモンドも気がついた。あの神司は、うっかり手を滑らせたのではない。王に命じられての行動だったのだ。
デスモンドはふっと息を吐いた。
(王も子供っぽい意地悪をなさる)
デスモンドは、水の滴る髪を両手で上げ、額をあらわにした。
「濡れ鼠、大いに結構。私の汚れを洗い流すには、これくらいで丁度いいのです」
自分で思うほど冷静ではない男だった。
王は不快そうに目を細めた。
「心がけ悪く、心身に穢れを積んでおりましたが、おかげさまで……これで清められました」
線引きしなければならない。しかもそれは今、はっきりさせないといけない。
(あなたの触れたあとも、清められたということです)
それは確かに伝わったようだ。王は恐ろしい目でにらみつけてきた。蛙をにらむ大蛇といった恐ろしさである。
(貴様、何様のつもりだ)
王が目で威嚇してくるのを、デスモンドも懸命に見つめ返した。
(何様でもありません。私は臣下です。今までどおり忠誠を尽くします……ですが、体はフレア様のものです)
フレア姫はにらみ合う二人を不思議そうに見ていたが、すぐに気を取り直して、二人を促した。
「さあ。お父さん、デスモンド、行きましょう。皆が待っているわ」
すると王は、「さあ行こうか」といいながら、フレアとデスモンドの間に割って入ってきた。
「3人で腕を組んで歩くというのはどうだ」
姫は「お父さん、しきたりじゃ違うでしょ?」ときっぱり断り、デスモンドの腕を取った。
「王様はお先にどうぞ。私たちは後から歩いていきます」
王は憮然として、肩をそびやかして歩き始めた。広い背中が朝日に輝いている。露出の多い伝統衣装が、非常に良く似合う。
いつもは漁師然としたいでたちだが、たまに正装すると見違える。
「リノさまバンザイ!」
大変な人気である。花も王に掛けられて、まるでパレードの主役のようだ。
その後を、フレア姫と腕を組んだデスモンドが歩いていくと、非常に微妙などよめきが起こった。
「誰だありゃ」
「あれはデスモンドだよねぇ」
そのような声も聞こえた。
「書記の息子の。姫の守り役のさぁ……」
「あれが婿さんか!」
だが、心配したようなブーイングは起きなかった。
「あれでいいんじゃないか?」
王女が微笑を浮かべて手を振ると、大歓声が起きる。
興奮した人々は、王女に花を投げ、ついでにというか、デスモンドにも花を投げてくれた。
婚礼が始まって終わると、全ては平和に収まるはずだった。
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