フェイン 1


電車はその朝も混んでいた。
昨夜、夜中まで残業をした男は、少しでも眠りたかったのだが、それもできそうにない。
片手でつり革を掴み、片手でかばんを持って、ぼんやりと窓の外の風景を見ていた。

クリーニングに出したため、ノリがかかりすぎたシャツ。慣れない手つきで、下手にアイロンをかけたため、筋が二本ついてしまったズボン……。
妻が見たら眉をひそめただろう。だが、彼女はもういない。男は、空っぽだった。
希望も夢も、もう何もない。
帰ってこない妻を一人待ち続けて、今日も昨日と同じ、砂を噛むような思いで仕事をして、誰もいないマンションへ帰るだけだ。

去った妻の香りの残る部屋を、なぜさっさと出て行かないのか、自分でもわからない。
同僚は「未練がましい。さっさと次の女を探せばいい」というのだが、それが出来れば苦労はしない。
男は、フェインという変わった名を持つ。2年前に結婚したが、直後に妻が失踪し、一人暮らしが長くなっている。あと数日で、また結婚記念日がやってくる。といっても、一緒に祝う相手はいない。

男はぼんやりと外を眺めていた。

「なにすンのよ、おっさん!」
突如、金切り声が男の耳を突いた。驚いて見下ろすと、真っ赤な髪をした、とげとげしい顔の女子高生がにらみ上げていた。

「この野郎、何しやがる!」
女子高生の隣には、これも赤い髪の高校生の男が立っている。
「な、なんのことだ」
「おれの女に触りやがったな!」
あっという間だった。男は、そのまま女と、その連れの男に引きずられて、駅長室に連れて行かれた。

駅長室の汚い机の前で、悪夢のような時間が始まった。
どうやら、痴漢の疑いを受けたらしい。ほどなくして警察官も呼ばれて、その場で尋問が始まった。
「お、おれは何もしていないのですが。……」
鉄道警察の巡査は、男の名詞を見てため息をついた。

「兄さん、すげえ大きなところに勤めてさ。しかも、その若さで開発部の課長だって?出世コースに乗ってるよなぁ。それになぁ、兄さんみたいなのなら、女には不自由しないだろうに、何を好き好んでこんなのを……」
そういいながら、若い女を見下ろす。明らかに不細工の部類に入るのだが、それを聞いて、連れの若い男は怒鳴り声を上げた。
「あぁん? まてこらぁ! ケ〜サツカンがそんなこと言っていいのかよ! このおっさん、おれの女の尻をいじくりやがったんだぜ! 落とし前つけてもらおうじゃねえか」
「そうよ、サイコーサイまで行くからね!」

そのときだった。
すっと音もなくドアが開いた。
次の瞬間、青年が彼らの前に立っていた。歩いていた、というより、ドアがあいた次の瞬間には、もうそこに立っていたのだ。考えれば異様だったが、青年のまとう雰囲気にはなんら異様なものはない。

これといって特徴のない、平凡な青年だ。服装も、ユニクロっぽいチノパンとシャツに、薄いベージュのジャケットを羽織っているだけだ。
髪は茶色っぽく、ふわりと長かったが、石膏像のように整いすぎて、印象の薄い顔だった。

あっけにとられる一同の前で、その若い男は、ゆっくりと口を開いた。

「その人は痴漢などしてませんよ。早く放して上げてください」
男にしては高い、細い声で、幾分歌うような調子で、そう言った。

若い女がものすごい顔をしてにらんだ。
「あんたなんか、いなかったじゃねえか」
青年は若い女を見下ろし、また歌うような声でさえずった。
「ぼくはその場に居ましたよ。あなたも見ましたよ。ケータイでお話してましたね? 」

そうして、男はにっこりと笑ったのだった。すると、冷たい石膏像にいきなり血が通った。

すると、若い女はぼんやりとした顔になった。しばらくして、哀れな勤め人に向かって、「あたしの勘違いだったみたい。悪いわね……」
そう言って、連れの男と二人、駅長室を出て行ったのだった。

鉄道警察の巡査も、咳払いをして立ち上がった。
「ま、そういうことだから。ご苦労さん」

(そういうことだから? それでしまいなのか?)
男は思わず気色ばんで立ち上がった。
(どういうことなのだ。身に覚えもない痴漢の疑いを掛けられて、駅長室に連れ込まれ、仕事は遅刻だ。どうしてくれるのだ! 説明しろ、説明を! 何でおればかりこんな目にあうのだ。 おれは、一生懸命やっているのに。妻にも一生懸命尽くしたのに!)
手近にあったパイプイスを掴んで、めちゃくちゃに振り回したい。この忌々しい駅長室をめちゃくちゃに壊したい。
先ほどの女子高生を追っていって、連れの男ともども殴り倒したい。男の鍛えた腕なら、彼らの首の骨でもへし折れるだろう。一撃だ。
それは、恐ろしい発作だった。何かが頭の中でぶちんと切れた。だめだ、やめろ、という理性の力は働かなかった。


そのとき誰かが、肩に柔らかく触れた。
「ねえ、気持ちわかるけど、会社に電話するほうが先じゃないですか? 持ってるんでしょ? 便利なケータイとやらを、ポケットに」
歌うような澄んだ声が、すぐ耳元でささやいた。声のほうに目をやると、茶色っぽい、優しい目がフェインを見つめていた。若者はまた微笑んだ。
歯磨きのCMに出てきそうな白い歯が、つやつやと色のいい唇から覗いた。
「短気はダメですよ、ね? フェインさん。ほら、会社に電話して」
「そうだな」
男は少し冷静になり、携帯電話を取り出して、会社の番号を押そうとして手を止めた。
「なぜおれの名前を知っているんだ?」
そう問い返したときには、もう青年の姿はなかった。
入ってきたときと同様に、掻き消えていた。ただ、天井の辺りから、灰色の大きな鳥の羽が数枚、ひらひらと舞い落ちてくるばかりだった。


フェイン 2

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