フェイン 2
2006-04-16


本社ロビーにたどり着いたときには、もう10時を回っていた。
IDタグを首から下げてエレベータで5階まで上がり、開発部のドアの前に立つと、下種な笑い声が聞こえてきて、フェインはしばし立ち止まった。

「女房に逃げられてさびしいんだろ、誰か相手してやれよ」
「あいつはやめとけ。新婚旅行で奥さん、ヤリ殺しかけたらしいぞ」
「強すぎて女のほうの体が持たないらしい」


フェインが入ると、笑い声はさっと止んだ。
いつものことで、いまさら神経を逆立てることもない。開発部の部長は海外に出張している。遅刻の詳細を報告すべき上司はいない。
フェインは黙って自分の席に行き、ノートPCの電源を抜いた。中には、今日の報告会で使うデータが入っている。昨日のうちにすべて整えておいたものだ。

「災難だったな、フェイン。いまどきの若い女は恐ろしいだろう」
同僚の男が、フェインに近寄って肩を叩いた。
「ああ、まったくだ」
フェインはおざなりに答え、PC一式とレーザーポインタを抱えて立ち上がった。
「上行ってる、電話があったら回してくれ」
「ああ、そうする。がんばれよ」
同僚は白々しい笑みを返してきた。


大会議室に入ると、備え付けの液晶プロジェクタにPCをつないだ。遮光カーテンを引いてパワーポイントを立ち上げると、スライドの映り具合を確かめていった。
今日は、新薬である「エイブロン」の副作用に関して、取締役の前で報告を行うことになっていた。

エイブロンというのは、フェインの会社が売り出そうとしている、精神病の治療薬だ。第3相臨床試験はすべて順調に終わり、医薬品としての許可を得る寸前までこぎつけていた。

エイブロンは、重度の精神病患者が普通に暮らせるようになるという、夢の薬だ。ブロックバスターになる可能性があった。
だが、ここまできて、ひとつ重大な問題があった。
フェインはそのことを記したスライドを、今日、重役たちの前で発表しようとしている。

長期投与による腎毒性があることは、動物試験の段階からわかっていたことだった。
臨床試験での副作用を記したスライドを見ると、フェインは寒気がしてくるのだ。

エイブロン投与中、理由を問わず死亡した患者は、全患者に対して3パーセント。そのほとんどは、持病のある患者だった。
問題は、1年以上投与すると、1割の患者が腎臓の病気になるということだった。
短期的にはすばらしい効果があるが、長期投与により腎臓病のリスクがある。黙って売り出したら、あとで問題になるのは明らかだった。

「怖い顔してますね」
いつのまにか、スライドの光の中に男が立っていた。その人物の白っぽいジャケットに、棒グラフが映し出される。青い光に照らされた、整った白い顔が微笑んでいる。

まじめそうな若い男だ。
だが、胸には社員証もぶら下げていないし、本社勤務にしては服装がくだけすぎていた。
「あの、見学者のかたですか?」
たまにいるのだ。見学に来て、トイレなどで群れからはぐれ、こんなところに紛れ込んでくる、うっかりものが。
だが顔をもう一度見直したとき、それが、フェインを駅長室でかばってくれた相手であることに気づいた。
「ああ、さっきのかたでしたか。先ほどは礼も言わず」
そう言いながらも、フェインは内心、警戒をしていた。
(こいつ、おれを追ってきたのか?)

すると男は、「お礼なんていいんですよ。あなたとお話をしたくてね」と言い、ジャケットを脱いだ。
すると、巨大な翼が天井辺りまで広がった。

フェインは叫び声を上げ、灯りのスイッチに突進した。明るくなった部屋の中、男はスクリーンの前で、相変わらず、ばかげた翼を広げて立っていた。
「そ、その被り物を脱ぎたまえ!」
「かぶりものって?」
「その変な、背中につけてる鳥の羽のことだっ」

若い男は「これですか?」と、バサバサと翼を動かせて見せた。強い風が起こり、フェインの書類が部屋中に散らばった。フェインはあまりのショックに、書類をかき集めるのも忘れていた。

「嫌なら、見えないようにはできますけど、できたら、慣れてほしいな」
「何者だ、君は」
「ぼくの名前は、ラビエルです。下っ端だけど、天使やってます。」
「て、てん、てん……」
「一月一日生まれ、性別男。貴方との相性は最高ですね。よろしく、勇者フェイン」

フェインは内線電話に飛びつき、警備員を呼ぼうとしたが、とっさのことで番号が思い出せない。
「信じてくれないんですね」
ラビエルと名乗った若者は、翼をひっぱり手で弄びながら、悲しそうな顔をした。
「信じられませんか? なら、触ってみてください」
そう言って、翼をフェインの顔の前にそっと差し出した。
「うっ」
「引っ張ってもいいですよ。どうぞ」
フェインは恐る恐る、灰色の翼に手を触れてみた。それは、若者の呼吸と合わせるように小さく上下していた。

思い切り引っ張ってみると、若者はよろけて痛そうに顔をしかめた。
さらに、後ろに回って翼を調べた。ピンク色の綿シャツの背中には、たてに2本、大きな穴が開けられていた。その穴から翼が突き出している。
そして翼の根元は、細かい羽毛が生えていて、薄い皮膚の下に血管が通っているのすら見えた。
恐ろしいことに、作り物には見えなかった。

「納得できました?」
「ああ。気の毒に、生まれつきそうなのか? それとも、何かの研究の犠牲者か」
若者は傷ついた顔になった。

「いろいろ説明したいけど、時間がない。フェイン、勇者となってこの世を堕天使から救ってください。武器とか防具とか、必要なものはすべてこちらで揃えます。大怪我をしないように、全力でぼくが援護します」

若者は、翼を広げたままフェインの前にひざまづいて、うやうやしく手を組み合わせた。
「勇者フェイン、この世を救ってください」
見た目は、あきらかに名画に登場する天使そのものだった。
フェインは唐突に、ある絵を思い出した。
新婚旅行でセレニスと眺めた「受胎告知」の壁画だ。

旅の宿でセレニスと抱き合った、熱い情熱の瞬間。
直後に止まったセレニスの心臓。
人工呼吸、心臓マッサージ。現地の救急病院に担ぎ込んで、奇跡的に助かった。
「セレニス、よかった」
その直後、妻から往復ビンタを食らって、口を極めて罵られたのだ。
「私の体にさわるな、このケダモノ、汚らわしい!」
フェインを、花瓶やら何やらで半殺しにするまで痛めつけて、ぺっとつばを吐きかけ、病室から出て行った妻……。


勝手に笑いが込み上げてきた。笑いすぎて、涙が止まらなくなった。人はこういうときに発狂するのかもしれない。

「おれもついに頭に来たみたいだ。エイブロン、効くかなぁ。自分で開発して自分で飲んでりゃ世話ねえな!」
「違います、勇者フェイン。あなたは正気です、しっかりしてください」
若者に肩を捕まれ、ゆすぶられた。フェインは笑いながら、だが嗚咽しながら、ポケットからハンカチを出して涙を拭った。

「君が何を求めているのか、よくわからないが、もうすぐ大事な会議がある。出て行ってくれないか?」
「わかりました」

ラビエルもあわてていたらしい。
大男の涙を見て、驚いたのだろう。
ジャケットをそのまま床に放置して、窓のほうに歩み寄った。そしてカーテンを開けると、窓を開け放った。

「おい、ちょっとまて、そこから出るな、ここは9階!」
若者は「それじゃ、また」と言うと、窓枠を蹴った。
「うわぁああ!」

フェインは両手で顔を押さえた。数秒後、窓際に駆け寄り、下を見た。
だが何も見えない。落ちていったのなら、下に何か騒ぎが起こっているはずだが、駐車場には何の異変もない。
「まさか、本当に天使?」
空を見上げた。だが青い空には鳥の姿もなく、ましてや天使など飛んではいなかった。


フェイン3

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