フェイン 3
2006-04-21
昼休みが終わる頃に、会議はようやく終わった。
カーテンを開けた会議室には、まぶしい春の光が降り注いでいる。
フェインは、役員が座った椅子を元通りに直して歩いていた。足がひどく重く、分厚いカーペットに足を取られて転びそうになった。
シャツの下の体はひどく汗ばんで、まだ手の震えが収まらない。フェインにとっては、悪夢のような会議だったのだ。
プレゼンの途中、ポインタを持つ手が震え始め、声が出なくなった。
見かねた同僚のランドが、かわりにプレゼンを行ってくれたのだが、その後も汗が滝のように吹き出て、常務に「きみ、大丈夫かね」と言われる始末だった。
(鳥人間なんて、変な幻を見たせいだ。おれはどうかしているんだ)
そのとき、いくぶん足を引きずって入ってきた男があった。開発部で同期の、ランドという男だった。
「ランドか。今日はすまなかった。」
「いや、おれはお前の作ってたノートを読んだだけだから。メシ、食いに行こうぜ」
「ああ……いい。先に行っててくれ。おれは後で、パンか何か買ってくる……」
ランドはフェインの答えも待たず、机の上のフェインの持ち物をさっさとまとめて、促した。
「パンでその図体が持つかよ。おれがおごるから」
ランドのタバコくさい車で5分ほど走ると、行きつけの定食屋に着いた。美味い店だが、ランチタイムのピークは過ぎていて、ちょうど空き始める時間だった。
てんぷら蕎麦の定食を頼んで、ウェイトレスがいなくなったとたん、ランドはいきなり言った。
「また結婚記念日だな。だから落ち込んでるんだ。PTSDってやつさ」
フェインは驚いて、飲みかけていた水をネクタイの上にこぼしてしまった。
ランドは咳払いをすると、「セレニスからは電話ぐらいあったのか? それとも離婚届でも送られてきたか」と言った。フェインは力なく首を振った。
「休みの日は、あいつの行きそうなところを探し回ってる。捜索願も出したけど……警察はまともにとりあってくれない。男がいるんだろうとか言われるだけだ」
ランドはため息をついた。
「お前たち、うまく行くと思ってたんだがな。何でこんなことになっちまったのかねぇ」
「う、うちはいいさ。お前のところはどう? 子供たちは元気か?」
ランドはそれを聞くと急に相好を崩した。
「ああ。もう3歳と1歳だ。写真見るか?」
ランドはそういいながら、御丁寧にもポケットアルバムを取り出した。そしてひとしきり子供の自慢話をした後、やっと乗せられたことに気づいたか、パタンとアルバムを閉じた、咳払いをした。
「おれのことはどうでもいい。おれはお前が心配なんだよ」
そういうと、手に持った水を、いきなりテーブルにぶちまけた。
「これが何かわかるか?」
「水だろ」
「違う、これはお前たちだ。一度ぶちまけた水を、コップに戻すことはできないんだ。覆水盆に帰らずというだろう? 友人として言わせてもらうが、これは現実だ、あきらめろ。逃げた女は帰ってこないし、帰ってきたって、どうせ碌なことはない」
フェインは不機嫌に黙り込んだ。
「ま、有給でも取って、ゆっくりしろ。ホントに潰れちまう前にな」
その夜、フェインは7時前に会社を後にした。まだ残って仕事をしているものも多かったが、誰も何も言わなかった。
ランドの忠告を受け入れて、帰社前に有給をウェブ申請をし、それは通っている。
(どうせ思い切り寝て終わりだろうが)
フェインは疲れ果て、ガードしたまでゆっくりと歩いていた。
気づいたときには、男たち数人に囲まれていた。数人、少なくとも5人はいた。
フェインはとっさに身構えたが、相手は大人数すぎた。抵抗しても、とても無理だと思えた。
「物盗りか。ポケットの中に財布がある、好きに持っていけばいいさ」
ただ今日はクレジットカードを持っていないし、財布の中にもたいした額は入っていない。
男たちは答えなかった。暴走族のおやじ狩りにしては、筋骨たくましく、隙がなさ過ぎた。皆マスクをつけており、顔の造作は一切不明だ。
その中の一人が、マスクごしに「フェイン・ルー・ルグスか?」と言った。口が不気味に動いた。
「なんでおれの名を知っている」
「……命により。死んでもらう」
誰かが低い声でいうと同時に、男たちはいっせいに飛び掛ってきた。何人かを殴りつけたが、フェインが抵抗できたのもわずかな間だった。
後ろから頭を殴りつけられたか、気が遠のいて、倒れふしてしまった。
倒れたところを、誰かの足が容赦なく蹴りつけて行く。胸の辺りで嫌な音がして、肋骨が折れたのがわかった。口の中に血の味が広がり、息ができなくなった。
「おれが何をした。なぜこんな目にあうんだ」
叫んだつもりだが、声にはならなかった。ただ、ごぼごぼと口から泡が出るだけだった。
男の一人が、フェインの手を思い切り踏みつけた。ぐしゃり、という嫌な音がした。叫び声をあげたが、腹をけられて声も出なくなった。
なぶり殺される、という言葉が頭に浮かんだ。
(おれは、死ぬのか?)
(助けてくれ)
(死にたくない!)
ふいに、男たちの怒号が聞こえ、フェインに加えられる暴力が途切れた。
誰かの強い腕に抱き起こされた、と思った瞬間、フェインの体は、勢いよく宙に飛び上がっていた。下界で暗殺者たちが怒鳴っていたが、それもすぐに聞こえなくなった。ただ、頭上で、大きな鳥が羽ばたくような音がするだけだ。
「フェイン、気をしっかり持って」
切迫した男の声が聞こえてきた。
「……痛い」
「痛いですよね。でも少しだけ我慢してください、このままあなたの家まで飛びますから!」
フェインは目を薄く開けた。足元には、まばゆい夜景が広がっている。そして、彼を抱えて飛んでいるのは、会議室にユニクロのジャケットを忘れていった、あの鳥人間だった。
冷たい風が頬を打ち、これが夢でないことを物語っている。
「……ラ、ビエ……?」
名を呼んだとたん、胸に激痛が走った。
「しゃべらないで!」
ラビエルは、ぴしりと言った。駅で、また、会議室で会ったときの、おとなしそうな若者とは別人のようだった。
「痛いだろうけど、部屋に着いたらぼくが治してあげますから。少しの我慢です」
治す。折れた肋骨を治すというのか?
だがこの天使なら出来そうな気がした。
「……お、重い、だろ? すまな……」
「何の。天界では二番目に力自慢なんですよ。一番目はミカエル様、次はぼく」
ラビエルは笑った。その翼は、純白というより、灰色だった。昔見た、湿地帯で群れ飛ぶ真鶴の翼のようだ。
強い、巨大な翼が、風を切って滑空しながらフェインを運んでいく。
(お前は本当に天使なのか? 鳥人間。)
そうつぶやいて、フェインは目を閉じた。
目覚めたとき、フェインは自分の寝床にいた。驚いて起き上がると、かすかにわき腹に痛みがあった。
だが、それだけだった。
肋骨を折られ、血反吐を吐いて死に掛けていたはずだった。しかしその痛みが消えうせている。
ただ、ベッドのシーツは血で汚れていた。
フェインは自分の手を見つめた。
(指をつぶされたと思ったが)
どこもなんともなかった。ただ、爪の中に血が残っていた。病院にも行かずにここまで治っているのは、尋常ではない。
「自分が治す」と言い切った、あの鳥人間の仕業としか思えなかった。
(ラビエル?)
フェインはふらつきながら立ち上がると、羽根の生えた男を捜した。
「ラビエル!」
すると、浴室のほうで水の音がした。浴室の前には血に染まった服が脱ぎ捨ててあって、その上には小さな剣と、大きな白い羽根のついた首飾りを乗せてあった。
浴室の中から、楽しそうな歌声が聞こえてきた。
しかも、中で盛大に水音を立てている。すりガラスのドアにも、水が飛び散ってくるのがわかる。
フェインは、ラビエルが水浴びをしているさまを想像した。嬉々として羽根をばしゃばしゃやっているのだろうか、鳥のように?
「あれ?」
中で声がして、曇りガラスのドアがぱっと開いて、ラビエルが上半身だけ覗かせた。
この鳥男にも、人並みの慎みはあるらしかった。
彼は、水を含んでぺったりと額に張り付いた髪を、片手で掻き揚げながら言った。
「フェイン、起きたりして大丈夫ですか?」
「ああ、もうそんなに痛くない」
ラビエルは、「よかった」と言い、ぶるっと翼を振るわせて水滴を飛び散らせた。その様子はやはり、天使というより大きな鳥だった。
風呂から上がったラビエルは、セレニスのバスローブを着用していた。片付ける気になれず、洗面所につるしっぱなしにしていたものだった。
「これ、お借りしました。血だらけの服で、天界に帰るわけには行かないんで」
ラビエルはそう言い訳をした。
「何でも使ってくれ。……向こうにロッカーがあるから、好きな服を選んで着ていいぞ」
女物のバスローブはこの若者には短すぎ、太ももまであらわにめくれ上がっている。
男の生白い脚につるつるした膝など、見たいものではない。むしろ服を着てほしいという意味でいったのだが、ラビエルは「お気遣いなく、これで十分です」と答えた。
フェインは妙に目のやり場に困り、目のやり場に困る自分に困惑していた。
「ふ、風呂は好きか?」
間抜けな問いだが、ラビエルは微笑んだ。
「ええ! 大好きです。なんだかうきうきしますよね」
「水浴び大好きか。やっぱり鳥だな」
「鳥じゃないですってば。天使ですよ、天使」
フェインはなんだか可笑しくて、少し笑った。笑ったのは、本当に何年ぶりだっただろう。
ラビエルは、フェインと同じくらいか、少し年下に見えた。
背中に羽根が生えているのと、足にも腕にも体毛が全くないのを除けば、人間の若者にしか見えなかった。
フェインを抱え上げて飛び上がるなどという力持ちには、とても見えない。
胸元には、先ほどの小さな剣と、白い羽根をぶら下げてある。それを見つめながら、フェインは唐突に思った。
(天使の生殖器ってどんなんだ。一応あるのか、それとも無いのか)
ラビエルはふと真剣なまなざしでフェインを見つめ、きちんと脚をそろえなおした。フェインは思わず身構えたが、ラビエルの口をついて出たのは、至ってまじめな問いだった。
「フェイン、昼間の話、考えていただけたでしょうか?」
まるで若い営業マンのような、礼儀正しさだ。
「昼間の?」
「この世界は、堕天使に狙われています。勇者となって、この世界を混乱から救ってください。この世を救うのはあなたしかいません、フェイン」
フェインは苦笑した。
「そうだな。きみは命の恩人だ。断るわけにはいかないな」
「それでは……」
「引き受けよう。といっても、おれは何をすればいいんだ?」
ラビエルの顔が文字通り、ぱっと輝いた。薄暗い部屋が明るくなり、沈んでいたフェインの気持ちまで明るくなったほどの、圧倒的な力だ。
(これが天使か)
フェインも認めざるをえなかった。天使は、髪を覆っていたタオルを取り、飛んできてフェインの手を握り締め、その勢いでフェインを抱きしめ、両頬にキスまでしてきた。
よほどうれしかったのか、翼でぱたぱたとフェインの肩を叩きさえする。
普通、男にそんなことをされたらぞっとするだろうが、不思議にラビエルは嫌悪を感じさせなかった。
「ありがとう、ありがとう。もう、みんなに断られてどうしようかと思ってたんです!」
「み、みんな? 他にもいるのか」
「あなたが記念すべき最初の勇者様です。でも一人じゃとても無理、回りきれません」
そのとき、何か虫のようなものが現れ、ラビエルの周りを飛び回った。
「天使さまぁ。天界に帰らないとAPがなくなっちゃいますぅ」
「ああ、ごめん。アクイラ」
ラビエルは優しいしぐさで、その小さな生き物を両手で救い上げ、肩に乗せた。それは、トンボのような羽根の生えた、小さな女の子に見えた。
「この子はアクイラ。ぼくの手伝いをしてくれてる妖精さんです。」
いったん肩に乗ったその生き物は、そっと天使の髪の陰に隠れた。
「アクイラですぅ。勇者さま、よろしくお願いしますぅ」
天使ならば妖精の一匹や二匹、連れていておかしくはないのだろう。フェインには、もはや驚いてみせる気力もなかった。
「それでは、フェイン。また来ます。どうかゆっくり休んで、体を治してくださいね」
ラビエルはにっこりと微笑み、一瞬にして視界から消えたのだった。
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