一の鳥 (5)

レルの若者ゲンリーの呟く。

いつ授業が始まりいつ終わったのか記憶がない。
目の前にあるのは絶望だけだ。私は何をしてしまったのだろう。ドセから目が覚めたらイセレンは、家主から一部始終を聞いて、そしてすぐにオセルホルドの砦に帰ってしまい、もう二度と来ないだろう……。

先生に当てられるまで気づかず、怒鳴られて、のろのろと前に出て行き、数式を解いた。先生にどこか悪いのかと言われ、級友に「ケメルだろ」とからかわれても、言い返す気力もなかった。
「ゲンリー、バイトきついのか?」
帰り際、隣の席のオルムネルに声を掛けられ、口に小さな飴玉を放り込まれた。甘い味が広がる。オルムネルは私を蔑まない、数少ない級友だ。あっさりとした小作りの顔で、目が下がっている。私より少し年が上で、もう子どもが居る。
「仕方ない。おれ、家主に借金があるから」
「そうか。相変わらず苦学生だな」

オルムネルはちょっと回りを見回して、小さな声で言った。
「紹介したい仕事があるんだ。お前はすごく嫌がるかもしれないけど、給料がいいから」
「工場か、工事現場かなにか?」
「ケメルハウスだよ。知り合いが、体格のいい男を探してるんだ。時給も弾むからって」
別に彼が失礼なわけではない。異常者は公衆ケメルハウスでの用心棒か、管理人になるのがコースだからだ。
「ドアマンの仕事か?」
オルムネルは首を振った。
「内勤といってた。フロアで客が羽目を外さないように、見張るんじゃないかな。ちょっとした事務もやるかもね、内勤だし」
私はうつむいた。オルムネルは私の困惑を見ないふりをして話を続ける。
「お前、工場で働くっていつも言うけど、いじめられるよ。学校よりもっとひどいよ、柄悪いよ。お前ってばいつもケメルだし、ウザがられるし、おまけに給料も良くないし。ケメルハウスなんて嫌だろうけど、気にするだけ損だ。将来そういう商売をやる練習にもなるだろ?」

オルムネルの親切心は疑いようがないものだったし、その意見は常識的なものだった。
おれたちは生殖能力も性欲もない、ってことになってるから、ケメルハウスでの仕事はうってつけだろうと、社会が認めている。
たとえそうでなくても、そういうことになっている。
「もしよかったら、明日の晩からでもどう? 連れて行くよ」
オルムネルは私の返事を辛抱強く待っている。
「ありがとう。ちょっと考えてみる」
私はセルムの古木の辻でオルムネルと分かれ、夕暮れの道を、自分の嶋へと帰っていった。

部屋に戻ると、イセレンはいなかった。放心してベッドを見つめていると、家主の足音が階段を下りてきた。
家主は片足が悪く、少し引きずるのだ。彼は開いたドアから顔を出し、「はやく手を洗っておいで、飯にしよう」と無愛想に言った。
その後ろで、赤い髪の若者が微笑んでいた。
「おかえり」
彼の赤い髪と白いシャツを見て、私は泣きそうになった。イセレンは帰っていなかった。私を待っていてくれたのだ。

家主の部屋はとても暖かく、テーブルには、食べかけの夕食が並んでいた。私たち3人は、あまりしゃべりもせずに食事を取った。だいたい家主が無口だし、イセレンは何か考え込んでいるようだった。
「このペスリ肉の煮込みはすばらしいですね。あの、ギジーミチをもう少しいただけますか?」と矛盾するような愛想を言った。彼は気を遣ったのだろう、家主の手料理を差し置いて、オルゴレインの家畜のエサをお代わりしたいのだから。家主は口元だけで微笑んだ。
「たくさんおあがり。あんたはドセ明けで滋養が必要だ」

ギジーミチはオルゴレインの食べ物だ。家主は亡命オルゴレイン人で、祖国は捨てても食べ物は懐かしいらしく、よく食べている。
カルハイド人はこれを「濃縮食糧」と呼んでいる。アルファ化した澱粉、たんぱく質、脂肪やビタミンその他を配合したもので、食べているうちにバラバラと崩れるパンみたいなもので、かなり不味いものだ。
イセレンは素直にギジーミチの入ったボウルを受け取り、湯を入れて、スプーンですくった。

食事が済むと、家主は泊まっていくように勧めたが、イセレンは「宿に戻って、織り人に定期連絡をしなければいけません」
家主は宿の名を聞くと、「旧市街か。もうウンの塔に近い、けっこう距離があるな。ゲンリー、宿までお送りしなさい」と私に言いつけた。
嶋の階段を下りると、予言者は部屋の明かりを見上げ、家主の窓に向かって頭を下げた。

「いろいろ迷惑をかけてしまいましたね。」
「いや、別に」
「家主さん、オルゴレインの人なんですね」
「ああ、亡命者なんだ」
「いい方ですね」
私たちの会話は短く、ぎこちなく、全然続かなかった。
「あんたに酷いことをしようとした。本当にすまなかった」
予言者は茫洋と私を見つめ、ただ「ヌスス。何も起こらなかったのだから。それにきっと、あなたのせいばかりではない」と言った。

サンゲン期を脱しきれていないイセレンは、幾分足取りがゆっくりで、吐く息が白かった。旧市街へ続く小道は迷路のようだ。
イセレンに負担はかけたくない。でも、もう少し二人で歩きたい。もう少しだけ。
「初代エクーメン使節、ゲンリー・アイを知ってますね」
「もちろん」
私の名は、ゲンリー・アイにちなんで付けられた。知らぬわけがない。

「私は10年くらい前に、ゲンリー・アイと会話したことがあります」
「記録映像を見たんですか?」
「いいえ、実際に会話をしたんです。アンシブルを通して。彼の姿も見ました」
予言者はいたって真顔で、どうも正気だった。宇宙に行こうといったり、私を「一の鳥」と呼んだり、彼の言うことはとてもわかりにくい。
「ゲンリー・アイは100年前にゲセンを去り、行方不明となったはずです」
「ええ、彼は行方不明で、宇宙船で漂流していました。ただ一人生き残って、死を待っていたんです。他の通信機器がダメだったのに、このアンシブルだけが生きていて、私たちをつないでくれました。それから、私はホルデン島の今の使節に連絡して……ゲンリーはオルールに帰り着くことができた」

歩道に出て遊んでいる子供が、くりっとした黒い目で、イセレンをじっと見つめている。イセレンは微笑み、手袋をしない手で、子供の頬を撫でた。その手で私をも撫でてほしかった。

「機械オタクの学生なら、眠っているアンシブルを見たら、目覚めさせたいと思うのが当然です。じっとなんてしていられなかった。壊れてるのなら、なぜ誰も直さないのだろう。なぜこんな素晴らしいものを、誰も役立てようと思わないのだろう」
古木を撫でていた手はやがて、私の手に触れた。イセレンの手は滑らかで優しく、体温は私よりも高かった。多分、彼は危険なことをしている。今イセレンは明らかにケメルに入っていて、まなざしに、誘うような表情が揺らめいていた。
私が食いついたらどうするのだろう。

「ケメルの日も、どんな嵐の日も、アンシブルと格闘して、そしてある日、交信に成功したのです。彼の姿は今でも目に焼きついています。寂しげで知恵に満ち、堂々としていて……世界をも背負えそうな広い肩をしていた。あなたと同じです。どうしても引き寄せられる」
そういいながらイセレンは私を引き寄せ、耳元で甘くささやいた。
「こんなに生きているのに、半分死んでるなんて、誰が決めたんでしょうね」
そして動けないでいる私の頬にキスをして、「おやすみ」といって離れていった。

2010/2/10

一の鳥6