一の鳥 (6)
2010/2/18
レルの若者ゲンリーの語る


明け方、雪が降り始めた。
食事の後、家主が私に、オルゴレイの餌、もとい国民食であるところの「ギジーミチ」の箱を押し付けた。
「これをイセレンにもっていっておやり」
不味い代物なので貰っても迷惑かもしれないが、会いにいく口実ができたのは幸いだ。走って宿の前に行くとイセレンが外に出て、降ってくる雪を見ていた。
ほっそりした姿、赤い髪、私を待っていたのかとも思い、ただ雪を見ていたのかとも思った。
「体調はどうだ」
ギジーミチの箱を渡しながら、ぶっきらぼうな言い方しか出来ない。
「一晩眠ったら、元通りですよ」
「おれは眠れなかった。あんたのことを考えてた」
イセレンは「それは」と黙り込んだ。困らせているのはあきらかだった。

外で待っていたせいで、イセレンの肩にも、艶々した赤い髪にも、うっすらと雪が積もっている。私は手で、その雪を払った。でもそれが精一杯だった。
昨夜のキスは、イセレンも少し魔が差した、ほんの出来心だったのかもしれない。もし問いただしたりして、『あれはエクーメン式の別れの挨拶ですよ』といわれてしまうのも悲しい。
予言者は夜と違って逃げ腰で、本来の目的に忠実だったからだ。
「急に言われて迷うのは当然ですね。何か聞きたいことはありませんか。砦の生活のこと、エクーメンのスクーリングのこと。私に答えられることは、何でもお答えします」

「その鎖は、もう外せないのか」
すると予言者は腕を首の後ろに回して、簡単に鎖を外して見せた。
「外せますよ。ほらね?」
私はそんなことを聞きたかったのではない。
鎖を外して、独身者の誓いを解き、私とケメルの誓いを結ぶことは、イセレンにどんな犠牲を強いることになるのか。
とても知りたかった。
しかし今の私は虫けらのような状態であり、イセレンを守ることも幸せにすることもできないだろう。

「卒業したら、砦に行くよ。あなたの役に立ちたい」
イセレンは特上の笑みを浮かべた。
「私だけでなく、ゲセンの役に立つ人物になってくださいね」
その微笑を見るためだけでもいい、私は砦に行くのである。
「お待ちしています。それまでどうか、危ないことはしないで下さい……」
イセレンは何度も繰り返した。
「身をつつしんで、危ないことはしないで。危険からは素早く逃げてください」

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午後の授業のあと、オルムネルが「一緒に帰ろう」と誘ってくれた。並んで歩く道すがら、私は砦に行く話をした。エクーメンのスクーリングの話はしなかった。ただ卒業したら数年間、ハンダラ砦に行くとだけ告げた。
オルムネルはひどくショックを受けていた。

「17歳で世捨て人? 童貞で砦に? それ、ひどくない? 童貞のまま砦に行ったら、ずっと童貞のままだよ」
「童貞って連呼しないでくれるかな、悲しくなるから」

「事実でしょ。だけど家主に借金してるってのは? 卒業してレルから出て行くんなら、それまでに借金は返さなきゃ。砦に行ったらお金儲けはできないよ!」
オルムネルは私のために、金の心配をし始めた。
「昨日言った、ケメルハウスの下働きだけど、やってみない? 今日だけ下見に行って、あんたがイヤだったら断ればいいから」
断る理由もないと思った。金がないのは本当だ。朝のゴミ収集だけでは、分割して払っている学費と今月の家賃を払うだけで手一杯だった。
私たちはオルムネルの知り合いが経営する『新しいケメルハウス』に出向いていった。

そこはレルの街の外れにある、新しい嶋の一角にあった。私の住む嶋、共同住宅よりかなり新しい。赤いモルタルがまだ鮮やかだった。
ケメルハウスに入ること自体初めてだった。内装はけして贅沢ではなかったが、落ち着いた雰囲気があった。
「立派な店。私の行くケメルハウスとは大違い。今月からここにしようかな……」
入り口でオルムネルがささやいた。
経営者はサルムという、少し顔色の良くない、30ばかりの人物だった。私のような性的異常者ではない、ごく普通の人だった。
どういういきさつでオルムネルと知り合いなのかは聞かなかった。

「マジメそうな子だね。どう、今日から働いてみる?」
オルムネルは『そうしたらいいよ」というように頷いている。でも今日は早く帰りたい。まだイセレンが街にいる。もしイセレンが嶋に来て私を待っていたら、遅くなった理由を説明しないといけない。ケメルハウスで下働きをしていた、などといいたくない。

「今日は早く帰らなければならないんです。家主に何もいっていないので。それに今日は、客が来るかもしれないので……」と答えた。
サルムは「君は箱入りか」と苦笑したが、「フロアの掃除でもしていくかい? 時給は払うよ」と言ってくれた。

「じゃあ、子供を迎えに行かなきゃだから。サルム、よろしくね! ゲンリー、また明日ね!」
オルムネルが元気に帰っていった後、サルムに指示されたとおり掃除をした。テーブルとソファを拭き、フロアに箒をかけ、モップで床をこすった。室内はさほど汚れてもおらず、一時間ほどもかからなかった。
気がつくとサルムが後ろにいて、腕組みをして、私の様子を見ている。
「もう終わりますが、あとはどこを掃除すれば……」
「いや、掃除はもういい。休憩にしよう」

今掃除したばかりのテーブルに、熱いオルシュと、小さく切ったブレッドアップルを出してくれた。甘い味をつけた、木の実のペーストが塗りたくってある。
「店はここだけですか?」
私は茶を飲みながら、辺りを見回した。今掃除したところは、小奇麗な食堂である。
「いや、ここは相手を物色する場所、客が寝るところは別さ。ほら、奥の部屋がそうだ。中に入ると分かれてる、個室もあるし大部屋もある」
サルムは音を立てて茶をすすりながら答え、私を見つめた。
「君はマジメで、頭がいい、ケンカも強い。感心な苦学生だって、オルムネルが言ってたよ」
「そうですか」
「いい体をしてるって」
「え?」
「彼は私を信じきってるから、恨むんじゃないよ」
サルムは笑った。笑い顔が、変な感じに歪んで見える。お茶を飲もうと思い、手を見ると、カップがない。何かが足元に転がり、掃除した床に茶が零れている。

大変だ、割ったら弁償しなくてはならない。私はカップを拾おうと屈み、前のめりに倒れこんだ。
(イセレンのことを考えて、一晩考えて)
眠らないまま張り切って授業も受けた。睡眠不足のせいなのか? でもさっきまでは体調は悪くなかった、それなのに気分も悪く、天井がひどく回っている。立ち上がることができない。
(気分が悪いので帰ります)
そういいたいのに、ちゃんと言葉を発音することができなかった。本当に立ち上がれない。

「よく見たらやっぱり17歳だねえ」
サルムは私の顔を覗き込み、顔を手で持ち上げた。
「君のようなオスがいいって物好きもいるからね……」

頭の中で、イセレンの澄んだ優しい声が、必死の警告がこだまする。逃げるのだ。何のために彼はケメルを押して私に会いに来た!
(身をつつしんで、危ないことはしないで。危険からは素早く逃げてください)
私は逃げなければ、ここから逃げなければ。


一の鳥7