一の鳥 (7)
2010/3/4
予言者イセレンの彷徨う。
記録をつけようとしても考えがまとまらない。
「闇の船よ来たれ。われは地を這う影なり」
祈りの言葉を口にしても、平穏は少しも得られなかった。
ゲンリーは一晩で大人びて、まっすぐに私のところへ向かってきた。
『おれは眠れなかった。あんたのことを考えて』
『鎖は、外せないのか』
かすれた声と、熱を帯びた暗い眼を思い出す。それはゲンリー・アイの声のように、私の心身を熱くする。
「外しても、どうにもならないんですよ、ゲンリー」
彼は一の鳥、来るべき狂王の時代に、強い翼でカルハイドを率いてくれる。
私は記録を諦め、織り人に電話をした。
「ゲンリーは、砦に来ると言ってくれました」とだけ報告し、勝手をしたことを詫びた。
織り人は「声がおかしい、どうかしたのか」と心配した。さすがに耳ざといが、相談したらよけいに紛糾しそうであるので、ただ「明日の朝に帰ります」とだけ告げて電話を切った。
ゲンリーには、正直に私のことを話すしかない。恋人にはなれないが、彼の痛みを分かち、孤独を癒す友人にはなれるはずだ。
そう思い、夕方前にゲンリーの嶋へ出向いていった。せめて夕食をご馳走しよう、レルの街には小さな食堂がいくつもある。
ゲンリーはまだ学校から帰っていなかった。
「帰るまで待っておいでよ」
家主殿は既に長年の知己のように私を扱い、熱いオルシュをいれてくれた。また家主は、ゲンリーが砦に行くことを喜び、借金の支払いは待つと言ってくれた。
「何年経ってもいい、いつか金ができたときに、返してくれればそれでいい、出世払いだ」
私が肩代わりすることは許してくれなかった。それはゲンリーの誇りを傷つけるというのだ。
家主の話では、ゲンリーは、学校が終わったらすぐに帰ってくるはずだった。そして夜は早く寝てしまい、出歩くことも一切ないと。
「恋人を連れてきたのは、あなたが最初かなあ」
家主は勝手に、そう決め付けた。私は笑って訂正した。
「違いますよ。私はただ、彼の才能を心から惜しむものです」
しかしその夕方、ゲンリーは戻らなかった。日が落ちた。嫌な予感は増すばかりであった。やがて、2歳ばかりの幼児を連れた若者がやってきた。子供は入るなり、「ゲーン!」と叫んで走り回り、ベッドに飛び乗った。
若者は「こら、やめなさい!」と子供を抱えあげて、私に丁寧に挨拶をした。
「オルムネルといいます。ゲンリーの親友のつもりです。砦の予言者様ですよね。あの、とても若い方なんですね。想像してたのと随分違ってて、なんというか」
彼は私の顔を見て、うれしそうに笑った。
「ごめんなさい。つい、うれしくて」
「あの、彼はまだ帰らないのです。どこへ行ったのか知りませんか?」
オルムネルは首をかしげた。
「おかしいな、とっくに帰ってるはずですが。あなたが居るから早く帰りたいって。あのバイト、そんなに気に入ったのかな……」
捕らわれの若者ゲンリーの、取りとめもなく嘆ける。
気づくと素裸で、足を広げて台に寝かされていた。台はとても固い板のようなもので、背中が冷たく、その上でがたがた震えていた。首は動いたが、手足は鎖のようなものでつながれていて、動かすとジャラジャラと鳴った。
手も足も、腹も痛かったが声も出ない。なぜ腹が痛いのだろう。
人間たちが見下ろしている。みな、顔がないように見えた。多分次に会うことがあってもわからないだろう。私は彼らの顔を、人と認識するのを拒否していた。だが部屋の無機物の細部ははっきりと見えた。
ともかく、一人が私の腕を掴み、ゴムベルトで縛って注射針を刺した。とても太い注射器で、赤い血が透明な注射液に入り、ゆらゆらと煙のように広がると、すぐに真っ赤になった。
痛みはなくなったかわりに、酷いことになった。何の刺激もなく私は勃起し、気持ちが悪くなるほど興奮し、勝手に達した。本当に惨めだった。
誰かが私の足の鎖を、滑車で巻き上げている。やがて直角以上になるまで脚が持ち上がり、目の前に自分の足が見えた。毛がまだらに剃られて、肌に血がにじんでいる。
足の指の毛に、汚物がついている。私のものだろうか、あんなところまで飛んでいったのか。
尻の下で音を立てて台が外れた。台は、ベッドというより手術台のようなもので、私は足を吊り下げられたまま、股間と尻をさらしものにされていた。誰かが妙な道具で、股間をまさぐってきて、どうしようもなくなって、また射精してしまった。彼らは、また聞いたこともないような声で笑った。
「出しても出しても、まだあんなに勃ってやがる! 半死人のくせになんて獣だ」
そのあと、何か冷たい、器具のようなものが、尻に押し込まれた。止めてくれと叫んだが、助けてくれるものはなく、また笑い声が上がっただけだった。
横のほうで、興奮した人間のあえぐ声が聞こえはじめた。
私の横に、厚いマットレスが敷いてあり、絡み合っていた。ああそうなのだ、これはケメルハウスで行われる、卑猥な見世物なのだ。そして私を笑っているのは、ケメルハウスの客だ。
私の不幸を楽しみながら、勝手に興奮して、勝手にケメルに入って盛り上がっているんだ。
なんて変態どもだ。こんな腐った空気を吸いながら死にたくない。多分私はここで死ぬか、廃人になってしまうのだ。
「おれは獣じゃない……」
彼らはくすくす笑った。
「半死人が泣いてるぞ」
ドアが開き、周りの人間達は振り返った。誰かが飛び込んできて、甲高い声で叫んだ。
「上の階が火事です、早く逃げて! もうすぐそこまで火が!」
一瞬、私を取り囲んでいた人間どもは悲鳴を上げて、持っていた器具やら荷物を放り出して、いっせいに部屋から飛び出していった。
叫んだ人は、ドアを閉めて鍵をかけてしまった。そいつはものも言わず、野生のペスリのように素早く床に伏せ、立ち上がったときにはもう鍵を持っていて、私のところに走ってきた。手ぬぐいを外すと、赤い髪が炎のように広がった。イセレンだった。
愛しいその姿を私は、自分の広げた股座越しに拝んだ。ケツの穴に変な器具を入れられて、股間の毛を剃られて、汚物と精液にまみれた姿で。
一番見られたくない相手だ。
こんな姿を見られて生きていけない。消えてなくなりたかった。
「もう死にたい」
彼は私に覆いかぶさり、口付けをした。彼の舌で私の口の中に、何か小さな、甘いものが押し込まれた。
「噛んで飲み込んで、頭がはっきりするから」
そういって彼は、私の鎖を外してくれた。
「大丈夫、手も動く、足も動く。さあ逃げよう!」
魔法か、強い暗示みたいなものだった。死にたいなんて気持ちはなくなった。
イセレンは、客の捨てていったコートを私にかけてから、ドアの前に飾り棚を移動して、バリケードを作った。飾り棚は小さなものではない、私の背丈くらいの大きなものだった。重そうな本やら酒瓶やら、いっぱい入っているものだった。それを軽々と引きずっていき、ドアにしっかりと押し付けた。なんて力だ。
「ドセの力ですよ。前もやったでしょう?」
イセレンは、さっとカーテンを開けると、「鉄格子がある」と叫んだ。それから、私が縛られていた鉄のベッドを持ち上げ、窓に向かって投げつけた。
この世の終わりのような音がして、鉄格子ごと窓がなくなり、大穴が開いていた。
外からドアを叩く音が、強くなっていた。誰かが怒鳴っている。体当たりをする音も聞こえてきた。私は飾り棚を押さえていた。
その間にイセレンは、客が寝ていたマットレスを次々と、まるでクッションを投げるように、窓であった穴から放り投げた。
「さあ飛び降りて、ゲンリー!」
イセレンは私の手を掴んで、窓であった大穴の前に押し出した。すっかり腑抜けになった私はためらった。すると彼は、私をかかえてマットレスの上に飛び降りた。ほとんど獣じみた強さだった。それだけではない、イセレンは私を背負って逃げようとまでしたが、私は背が高すぎたし、それはイヤだった。彼は私の手を引いて、逃げた。
何か光るものが掠めたが、幸い直撃はしなかった。窓から撃ってきたらしい。私たちは逃げた。もう誰もついては来なかった。その代わり、騒ぎに気づいていても、誰も助けに出てきてはくれなかった。
この世にただ二人だった。その途中、イセレンはまた具合が悪くなった。ドセが切れるのはいつも突然で、自分でもどうしようもないらしい。彼は震える声で言った。
「私の宿が少しでも近い、そちらへ行きましょう」
それからはイセレンを背負って歩いた。
宿のベッドに下ろしたとき、イセレンはほとんどショック状態だった。
サンゲン期に落ちていくイセレンを見るのは二度目。今度は全然様子が違っていた。唇が青く、とても苦しんでいた。
「自然なことです。誰も超人になることはできない。振るった力の分、揺り返しも大きいのです」
イセレンは私を安心させようとしたが、笑顔がひきつり、震えが止まらない。自分が異常な状態であると知っていて、怖いはずなのに、それを見守る私のことを案じていた。
「ゲンリー。私を怖がらないで」
宿の管理人に助けを求めれば、私は追い出される。医者なんて一人も知らない。ただイセレンを抱きしめて、一緒に寝るという知恵しかなかった。
レルは要塞のような街だが、宿にも貧乏人の家にも暖炉はめったに燃えていない。暖炉もオルシュもないところ、人は住まないという、その先があって、「レルの貧民は肌で温めあって生き延びる。」
私はレルの貧民の知恵に従い、イセレンを自分の体で温めた。彼ははじめから鎖をしていなかった。
肌を合わせていても彼を汚さないし、けして傷つけるようなことはしないと、信じていた。しかしイセレンは、遠いものを見つめるような、全てを許すような優しい目で私を見上げていた。
「おれは汚いんだから見なくていい、目をつぶっていてくれ」
頼むから。でないと自分を抑えきれない気がする。
彼は弱々しく微笑み、「とても温かい」と呟いた。
一の鳥8