Missing 14
2007/06/02
冷たい刃物の先が、イリスの喉元に押し付けられた。
金髪が扇のように横に広がり、白い歯並びが、唇の間から覗いていた。
「スノウは……私の弟は……公爵のところへ連れて行かれた。公爵のところだ。意味が分かるか」
聞き取りにくい言葉を発したあと、男は突如、涙を流し始めた。白い顎から涙が伝って、バタバタと落ちる。
「お前を殺して首を持って行けば、戻してもらえるそうだ」
男は狂ったものの目で、イリスを見下ろしていた。
「お前のせいでフィンガーフートが味わった苦しみ、思い知るがいい。楽になど死なせない」
だがこの危機に際して、罰の紋章は何の反応も示さない。
「ヴィンス、止めろ!」
誰かが頭上で叫んだ。
ふいに体の上の重石がなくなる。どん、と床に何かが転がる音がした。
「放せ、邪魔をするな!」
ヒステリックな叫び声が響いた。
イリスは懸命に起き上がろうとした。ケネスかアカギが気がついて助けてくれたのだろうと思ったのだ。
起きることは出来なかったが、かろうじて首は回った。
そこに見たのは、見知らぬ黒髪の男だった。長身の、屈強そうなその男は、のた打ち回るヴィンスを、後から羽交い絞めにしていた。イリスは起き上がろうとしたが、体が痺れて足に力が入らなかった。
「放せ、ディル!」
ヴィンスが叫ぶ。
「頼む、落ち着いてくれ。おれが話をつけるから。そいつを斬ってもスノウは戻らない。お前の手を血で汚すな」
ヴィンスはけたたましく笑い、革靴の脚を床にぶつけた。
「話をつける? あんたに何が出来る。父親そっくりの臆病者が!」
その声は途中で途切れた。長い金髪と黒い髪が絡み合っているのが、否応なく目に入ってくる。イリスはとっさに顔を背けた。
金属の擦れ合う音が響いて、脱ぎ捨てられた服が、床を飛んでいった。
押し殺した息が次第に高くなる。イリスは手を上げて耳を塞いだ。
だが、大きな獣たちが床の上で交わる気配、恐ろしい振動は、耳だけでなく、床からも伝わってきて逃れようがない。
「ヴィンス。誇り高いヴィンス。気持ちを静めてくれ。どうしたら許してもらえるんだ!」
それに答える声は、人語となっていない、ただの嬌声だった。ふさいだ耳の奥まで入ってくる。
(あれは獣だ。人間ではない)
イリスは吐き気をこらえて、目を硬くつぶっていた。1時間にも2時間にも思えた。
ふと静かになり、イリスは恐る恐る目を開けた。
既に獣たちの交わりは終わっていた。
黒い髪の男が、スノウの従兄を抱きしめていた。かろうじて下半身は、脱ぎ捨てた服を掛けられている。静かになったのは、既に意識が無いからだった。
やがて黒髪の男が、イリスに向かって、早口に言った。
「お前はラズリルのイリスだな。おれはディルだ。スノウの従兄だ」
「どうしたらスノウを助けられるんだ?」
ディルは「わからん。とにかく公爵に会う。話をして、釈放してくれるように頼むつもりだ」
声には狼狽があらわで、息切れもしていた。
「ディルさん、といったか。おれたちは、協力できると思うんだが」
しかし男は首を振り、イリスの申し出を拒絶した。
「体が動くようになったら、早くこの家を出ろ。でないとヴィンスはお前を殺すぞ」
明らかに、ディルという男の、言うとおりにするしかなさそうだった。
1時間ほどして、ケネス、アカギ、そして赤毛の修道士が目を覚ました。イリスは、寝ぼけ眼の彼らを急きたてて、フィンガーフートの屋敷を出た。行くところはどこにもない。
イリスの話を聞いて、アカギやケネスはただ「ここまで来て」と肩を落としし、修道士は「ヴィンス殿がそんな恐ろしいことを」と衝撃を受けたようだった。
「貧しい人を救うための薬だと言っていたのに……私も何度か実験台になったんですよ。そんな、人殺しに使おうとするなんて」
「それ以前に、正気じゃないように見えましたよ」
すると、修道士はかえって救われたような顔をした。そのことが幸いしたか、修道士はあくまで親切だった。
「行くところがないでしょう。修道院に戻りましょうか。宿屋並みとは行きませんが、夜露はしのげます」
その親切に3人のラズリル人は頼るしかなかった。荷車に揺られながら、ガイエン貴族の言葉を思い出していた。
(公爵のところへ連れて行かれた)
それが何を意味するかはわからなかったが、壮年の男が泣くほどの事態とは、尋常ではない。
「公爵とはどんな方ですか」
夕食の時、イリスが尋ねると、赤毛の修道士はしばらく迷った末に、「やり手ですね。教養もあり、美丈夫でもあります。ただ、お若い頃から病んだ趣味をお持ちです。それでヴィンスは、スノウ様の身を案じて、心を痛めているのでしょう」と、言葉を濁した。イリスが「病んだ趣味とは何でしょうか」と問うと、修道士は困惑しつつ、さらに説明してくれた。
「公爵は、貴族の若者を集めて、後宮を作っているそうです。お好みは成人前の少年だそうで……ですから私は、ですからスノウ様には危険はない、と踏んでいるわけですよ。スノウ様は、成人はなさっているわけですから」
粗末な食事のあとでベッドにもぐりこむと、アカギは10分もしないうちに、気持ち良さそうな寝息を立てはじめた。
しばらくして、ケネスが「なあ、イリス」と遠慮がちに声をかけてきた。
「スノウが連れて行かれたのは、ごく最近のことだな。お前の命と引き換えに、釈放するというのが条件というのなら……おれたちがエディルナに来る時期を見計らって、連れて行かれたような感じだな。おれたちがここに来ることは……筒抜けだったってわけだ……今こうして泳がせていただいているが、出国しようとしたら思い切り邪魔をされるだろうな」
イリスは苦笑すると、左手をそっと持ち上げた。罰の紋章は皮手袋の下で眠っているように静かだ。公爵も、あのクレイと同類だろう。強くなりたいために、強い力を持つ紋章を欲する。そのために宿主の首を取ろうとするのだ。
「おれの首と引き換えなんて言っていたが、狙いはやっぱり、これかな」
「すまん、イリス」
「何故謝るんだ」
ケネスは少しためらうようだった。
「巻き込んでしまっただろう? お前は、オベルで静かに暮らしていたのに……」
「自分のものを取り返しにきただけだ」
そういうと、イリスは罰の紋章をそっとなでた。ケネスは黙って息を潜めていた。
「スノウはおれの半分だ。どうしても連れて帰る。だけど、命と引き換えるつもりはない。おれだって命は惜しいからな。あいつを助け出したら、今度こそ一緒にオベルに連れて行くつもりだ」
「なら安心だ。自分が死ねばなんて考えて、早まるなよ」
ケネスはそういうと、しばらくして静かな寝息を立て始めた。
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