Missing 15 2008/7/12
ケネスを起こさないように部屋を出た。だが、廊下をいくらも歩かないうちに、小さな灯りが近づいてきた。
「どうしたんだ、イリス。腹でも減ったか」
聞き覚えのある声、うす灯りに赤毛の修道士が見えた。イリスは言い訳をしなかった。
「フィンガーフートの屋敷へ戻ります。橋の通行証を、お貸しいただきたい」
修道士の灯りが、かすかに揺れた。
「君が殺される。人殺しの手助けは出来ない」
「公爵に睨まれるようなことは、できないというわけですか」
「ただ逃げ込んできたら匿うことくらいは出来るが……」
イリスは剣を抜いた。鞘走りの音も聞こえているだろうし、ぎらつく剣も見えているはずだ。
「あなたがたに神様が大事なように、おれにはスノウが大事なんだ! 通行証をくれ!」
やがて修道士は、「通行証など無意味だろう、私がついていく。ただ命を粗末にしないと約束をしてくれ」答えた。
夜明けを待たずに二人は修道院を出た。ロバは足を痛めたとかで使えなかった。ひたすら歩き続けて、夜明けにはエディルナ川の黒々とした流れにたどり着いた。
スノウが閉じ込められた部屋は、重厚な調度に囲まれた古い部屋で、暖炉に蜘蛛の巣が張っていた。
(何故こんなことになったんだ)
ほんの少し前まで、フィンガーフートの屋敷の暖炉の前で、将来の帰国について話し合っていた。スノウ親子がラズリルに帰るとき、ヴィンスも連れて行くことを提案していた……。
「三人でラズリルに住もう。汚い家だけど眺めはいいんだ。贅沢はできないけど、親子みたいに助け合って、三人で暮らそう」
ヴィンスは「十分にお仕えすることができるでしょうか? 私はラズリルに住んだこともないのですが」と答えた。
「親子みたいに暮らすんだよ」
直後、荒々しい足音が階段を駆け上ってきた。ドアが乱暴に開かれ、武装した男たちがなだれ込んできて、真っ先にヴィンスを殴り倒した。そのあと、スノウとヴィンセントを取り囲んだ。丸腰の身では、両手を挙げて大人しくするしかなかった。家の前に止められた馬車に引きずり込まれても、大人しくしているしかなかった。
気がつくと、古びた石造りの建物の目の前だった。脅されて階段を上り、やがて、親子別々の部屋に放り込まれた。
数時間後、粗末な食事を与えられた。看守らしき男は「お前はえさだ」と笑った。
「そのうち群島から来た大きな魚が釣れる。そうしたらお前達は自由の身だ」
ひとりになって、スノウは言われたことを反芻していた。
群島の大きな魚を釣るための、自分がエサというのは、いったいどういうことなのか。そもそも『大きな魚』とは何のことか。
(人間?)
まさか、とスノウは思った。どこの人間が、スノウなどのために危険を冒す人間は、ラズリルにはいないだろう。
それより、父が気がかりだった。何かの人質にされたのなら、しばらくはここで耐えねばならないだろうと思っていたのが、そうはならなかった。
監禁は翌朝、唐突に終わったからだった。見張りが、「お前たちは用済みだから帰っていいそうだ」といい、監禁されていた部屋から連れ出され、馬車に乗せられた。父は既に乗っており、半時後にはフィンガーフートの館に戻っていた。
スノウが父をそっと抱え起こそうとしていると、馬車の戸がそっと開かれて、ヴィンスの顔が覗いた。
言葉もなく、口元を手で覆っている。思わずスノウも泣きそうになったが、人目があると思い、ぐっと堪えた。
その日、ディルに部屋に呼ばれた。ちょっとしたつまみと、酒が用意してあった。
「災難だったな……」労わりの言葉を掛けられるとも思っていなかった。
「災難も何も、結局、何もなかったですから、ご心配なく」
「とにかく、おれがいる間に、お前たちが戻ってよかったぞ。隣国の異教徒どもがまた怪しい動きを見せている。明日からまた前線だ」
スノウは赤いワインを口に含みながら、ところで、と切り出した。
「ぼくをえさにして、群島の大きな魚が釣れたそうですね。よかったじゃないですか……でも恨みますよ、言ってくれたらぼくも協力したのに」
従兄は、ぎょっとしてスノウを見た。
「クソ、誰がばらしたのだ」
酒で気が緩んだのか、従兄はあっけなかった。スノウのほうが驚いたほどだった。
「そ、それで……『彼』に何をさせる気ですか?」
「何をさせるって、あの無骨な男だ、ダンスなど踊れまい?」
まったくわからなかった。無骨に見える男。
(いったい、誰?)
「あの若いの一人で、クールークの要塞を焼き払ったというのは、本当か? 罰の紋章とはそれほどに強いのか?」
グラスの中のワインが、血に見えた。罰の紋章とはそれほどに強いのか、だって? 強いに決まっている!
(イリス)
頭の中がぐるぐる回る。胃がひっくり返りそうだった。
「罰の紋章の威力を教えてくれ。一発でどれくらい破壊できる? たとえば一度で、敵兵を何人くらい殺せるだろうか 」
スノウは、従兄を見つめた。整った顔立ちの、黒い髪の男。少し前まで従兄と思い、立ててきた。だが、他人だ、とスノウは思った。そしてガイエンは、他人ばかりの住む外国だ。
どうして懐かしいなどと思っていたのだろうとすら思った。
「イリスに会わせてもらえませんか。罰の紋章は命がけで打つものですから、ぼくがいれば彼も心強いでしょう……」
Missing 16
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