Missing 19
天幕に入ると公爵は、地図に目を落としている顔をあげようともせずに呟いた。
「キリがない。押し返してもまた攻めてくる。それもこの数年はよほどひどくなっている。エディルナを通過して海へ出たいのだ」
「都ごと焼いて、退治すべきです」
公爵は目を細めた。

「坊主をしているより楽しそうだな」
「ええ、道を誤ったと後悔しています」
「ときに、あの群島の若者だが、紋章を外すことはやはり無理か」
「ええ、殺さない限り。そしておそらく、殺した人間に宿るのだと思われます。お許しがあれば私がその役、引き受けます」
唐突な申し出に、公爵は眉を上げて見せた。
「あれを宿せば、命を削られるといっていたではないか」
「命は捨て所というものがございます。私を道具としてお使いください。都を焼くまでは何としてでも持ちこたえましょう」
ヴィンスは、わざとらしく聞こえぬよう、勤めて淡々と説いた。
「どうせ戦になれば、いつ死ぬかもわからぬ身です」
公爵は地図を無意識のように指で叩いていた。
「かんたんに命を捨てるやつだな」
「ええ。閣下のためには惜しくもない命ですが、一つだけお願いがございます」
「何だ、言ってみろ。何なりとくれてやろう」
「尊いお手に口付けをさせて下さい。臣下として私に祝福を下さい」
公爵は、微笑んだ。
「許す。近う寄れ」
そして、手袋を外し、骨ばった手を差し伸べてきた。ヴィンスはその手を両手で包み、唇を押し付けた。




イリスの怪我はかなりひどかった。
応急手当は、ディルが行ってくれたが、傷はまだ痛むはずだが、イリスは痛いともなんとも言わず、ただ耐えている。
スノウは、水の紋章を封じた手を、イリスの上にかざし、詠唱を始めた。
ヴィンスに妙な術をかけられたせいか、舌が痺れてあまり声も出なかったが、詠唱を終えると、イリスの体を、青白い光が柔らかく包んだ。
青ざめていた怪我人の顔色が少し赤らんだ頃、夜は既に更けて、遠くで酔った兵士の騒ぐ声が聞こえていた。

「ここはいい、お前たちはむこうで飲んで来い」
外でまたディルの声がして、静かに天幕の覆いが開いた。入ってきたディルはスノウに剣を押し付けた。
「ラズリルに送ってやる。乗り物も用意をした。来い」
連れて行かれた先には、屈強そうな馬に引かれた荷車があった。荷台には、細長い木棺が3基、積み上げられている。
スノウとイリスは、棺の隙間に体を滑り込ませた。ディルも乗り込んできて、2人とは少し離れたところに、木棺を支えるように座り、棺のフタを少しあけた。
新しい血の匂いがあたりに漂った。スノウはかすかに眉をよせた。
「さっきの戦闘で亡くなったんですか」
「そうだ」
ディルはどこか上の空だった。答えもそこそこに、口の中で詠唱をすると、何を思ったかいちばん上の棺の中に手を突っ込んだ。青い光が雫のように棺を覆った。
(優しさの雫?)
スノウは首をかしげた。
「戦死者と思いましたが、ひょっとしてまだ生きているんですか?」
「ああ。だが時間の問題だ」
ディルはやはり空ろだった。やがて、「止まれ」と御者役の兵士に命じた。ディルはものも言わずに、兵士を殴りつけ、馬車からつき落とした。落とされた兵士は、打ち所が悪かったのか、道に倒れて起き上がらない。

狂気の勢いで、馬にムチをくれて全力疾走させながら怒鳴った。
「棺を捨てろ!」
「え……」
「少しでも軽くしてくれ! ヴィンスのは捨てるな!」
「何だって」
スノウはあわてて、いちばん上の棺を開けた。月の光の中で、細面の男が見えた。見覚えがありすぎる、ふわふわした金髪の、白い顔。
とっさに蓋を閉じようとする。ディルがヒステリックに叫んだ。
「蓋は開けておけ、ヴィンスが窒息する! 他のは捨てろ!」

スノウは渾身の力を込めて、ヴィンスの棺を下に下ろすと、他の棺に手を掛けた。
「とっととやるんだ、役立たずが!」
ディルに怒鳴られて、棺を次々に投げ捨てた。棺の中から、焼け焦げた戦死者が転がり落ちる。ひどい有様だったが、その後明らかに馬車の速度は上がった。軽くなった分、速くなったのだ。
「ディルに優しさの雫ぐらいかけてやってくれ、スノウ」
背中越しにディルが言った。スノウは慌てて、詠唱を始めた。ヴィンスはそれに気づいたのか、薄く目を開けた。

「……無駄です……」
そういうだけで、咳き込んだ。喀血したらしく、血の匂いが鼻をついた。
「何でこんなことになったんだ、ヴィンス」
施術の合間に問いかける。ヴィンスは何かをしゃべろうとするが、もう声がうまく発せられないようだった。息の音に混じって嫌な雑音がする。しまいには何も言わないでも喀血する有様だった。
「頼むから、もうしゃべらせるな!」
ディルの声は悲鳴に近かった。
「ちくしょう!」
それから、朝方まで馬車を走らせる間、わかったのは、ヴィンスが公爵を暗殺して、自分も致命傷を負った、ということだけだった。


2009/5/7
NEXT
幻水4小説トップ
Index