Missing 20

棺の中のけが人を相手に、スノウは一人で水魔法を使った。イリスは水魔法を備えておらず、ディルは御者台に座ったままだった。下手な魔法は応急の手当てであり、痛みを和らげる以上のことは出来ない。
「無駄です、スノウ」
「傷を見せて」
スノウはヴィンスのコートの合わせ目に手を伸ばした。ヴィンスは首を振った。
「汚いから見ないでください」
「何を言ってるんだ」
瀕死の男は、聞き取れないほどの小さな声でささやいた。
「腕輪を外してください。ディルのものです。勝手に使ってしまった」
そういわれて袖口を見ると、蛇の絡みついた意匠の、銀の腕輪がみえた。古風なものだったが、何か禍々しい光を放つ、黒い宝石をはめ込んであった。
ずしりと重いそれを外してやると、ヴィンスは穏やかな顔になった。
「大勢殺した。あなたにはひどいことをした。ディルにも、……」
声は次第に聞き取れないほどになり、目もガラス玉のように空ろになっていく。また意識を失いかけている。
スノウは慌てて、声を張り上げた。
「自分で言うんだ。言いたいことはちゃんといわないとダメだ。ディルを呼んでくる」
ヴィンスは「私を捨てて、馬車を軽くして」と呟いた。次の瞬間、体のどこにそんな血があったのかというほど、大量の黒い血を吐き、空気を求めて、喉を掻きむしり苦しみ始めた。
「来てくれ、ディル!」
飛び込んできたディルが、ヴィンスの口から血を吸い出し、吐き捨てた。見開いた青い目から、血の色の涙が流れるのが見えた。
ディルは振り向きもせずに言った。
「出て行ってくれ」
外は嘘のように静かな朝だった。イリスが黙って、スノウの顔についた血を拭ってやると、二人とも押し黙ったままだった。一時間ほどすると、ディルが死人のような顔で出てきて、ひとこと「乗れ」と言った。
既に棺のふたは閉められていた。


追っ手がないまま、一行は日暮れすぎに修道院に転がり込んだ。逃げこめる場所というと、ここしかなかったからだった。
「フィンガーフート卿は、御無事だ。お前達が行ってすぐ連れてきた、お前達顔色悪いぞ」
ディルは心配するケネスを無表情にさえぎった。
「国境で苦戦しているのだろう、兵も戻っていない。夜明けに出発する」
「あんたも来るのか。何のために。後ろからおれたちを殺る気か?」
ケネスはそっけなく吐き捨てたが、ディルのつっけんどんさはそれ以上だった。
「ヴィンスに約束した、港までは連れて行く。そこからは知らん、自分たちでなんとかしろ」

スノウは与えられた寝台で、横になり仮眠を取ろうとした。しかし眠りは訪れなかった。寝返りを打ったときに、ポケットに硬いものが触れ、それがヴィンスに預かった腕輪ということに気づいたからだ。
(返さなきゃいけない。ディルはどこだろう)
そっと部屋を抜け出すと、回廊にかすかに薫香が漂っていた。スノウは香りに呼ばれるようにして回廊を歩き、石の階段を下りて、地下室に入った。
ひんやりと湿った臭いに混じって、香の匂いが濃くなった。灯りの中にディルが居て、棺に額をつけて項垂れていた。
死者の顔は清められ、表情は安らかだった。死に際の苦悶のあとは見えなかった。

ディルは、死人の髪を少しだけ切り取り、「戻って来れないかもしれないから、もらっていくぞ」と呟くと、ポケットに入れた。
「ヴィンスはどうしてこんな無茶をしたんですか」
「主君殺しは末代までの恥だ。公爵は罰の紋章で自滅させる計画だった。どうしてこんなことになったのか、おれにもわからん。気がついたらヴィンスが死んでいたのさ」
ディルは涙も流さず、空ろに笑った。
「公爵を罰したかった。お前たち全員死んでもかまいやしなかった。……ヴィンスが死んだら何の意味がある」
スノウは、黒い宝石の腕輪を握り締めた。激しい怒りが込み上げて、ディルの頭を断ち割りたいほどだったが、必死に堪えた。死人の前で狼藉ははばかられた。
「これをヴィンスから預かりました。あなたのことを気にかけていましたよ」
ディルはじっと腕輪を見つめて、押し黙っていた。


2009/12/2
Missing 21

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