Missing 3
2007/01/20
夜明け前の出航だった。
スノウは、ガイエンの船が完全に外洋に出るまで、船室から一歩も出ることなく、また甲板から港を眺めることもしなかった。
ただ暗い船室で息を潜めていた。
さほど寒いはずもないのに、震えているのは、夜逃げのような異常な状況のせいだった。
誰にも行き先を告げずに出て来てしまった。
スノウの不在に友人たちが気づく前に、ラズリルに戻ってくる予定だった。
しかし、その目論見は初めから無理だったのだ。外洋に出たとたん濃い霧に包まれ、しかも風も凪いでしまった。
ラズリルも見えないし、行き先のガイエンも見えない。スノウは不安を押さえられずに、寒い甲板に出た。
しばらくそうしていると、ガイエンの騎士も、心配そうに近づいてきた。
「どうしました?」
裏通りで後をつけてきて、暗がりで声をかけてきた男である。重い外套を着たままだったが、裏通りでの異常に緊迫した様子はもうない。
この男を信用もしていないうちに、船に乗ってしまったわけだが、話をしてみると気さくで、感じのいい男ではあった。
歳は30ばかり、背が高く、外套の下から片手剣が突き出ていた。
装備と体格から推測して、スノウはこの男のことを(ガイエンの騎士)であると思った。言葉遣いや顔立ち、身のこなしから受ける印象は、没落した下級貴族といった風情だった。
「順調に行けば2日の船旅ですが、食糧は1か月分積んでおります。どうか船室にお戻りを。ここで居ても湿気で風邪を引くだけです」
「あなたは、落ち着いてるんですね」
騎士は目を細めて笑った。
「焦っても仕方がない。動けないときはじっとしているしかないですから」
騎士に促されて船室に戻ったものの、スノウの気持ちは沈んだままだった。
父の病気のこと、戻ってきてからのこと等、海の上で考えてもしかたのないことを、いつまでも気に病んでしまう。
しばらくして、ガイエンの騎士が二人分の夕飯を持って、スノウの船室にやってきた。
そして慣れた手つきで、スノウのために茶を入れてくれた。外套を脱いだ騎士は、ミドルポートの貴族が好むような、装飾の多い、豪華な絹の上着を着ていた。
スノウにカップを差し出すと、自分は椅子に座り、「来て頂けると思っていました」と言った。
スノウが黙っていると、男は、「自己紹介もしてませんでしたね。私のことは、ヴィンスとおよびください」と言った。
スノウは改めて、騎士の顔を見つめた。巻き毛の前髪に隠れているが、感じのいい顔立ちをしている。癖の強い金髪で、目は薄い青だった。
その麻糸をほぐしたように波打った髪を、後で束ねている。基本的に美男子であろうと思われた。
誰かに似ている気がするが、いろいろ考えても思い出せない。
どこか落ち着かなかった。
するとヴィンスは意外なことを口にした。
「実は、この船はミドルポート船を偽装しています。私もミドルポートの貴族を装っていました。旅券も偽造してね。私はもちろん平民ですが、役者になったつもりで貴族のフリをしていました」
「なぜそんなことを?」
「わが国はあの戦争以来、ラズリルと国交が断絶している。入港許可も下りないが、ミドルポートの船なら入れると聞いたので」
初めて裏通りで声をかけたときは、目深にケープを被り、非常に胡散臭かった。それでも信用したのは、父の手紙があったせいだった。
船に乗り込んとき、ヴィンスは手放しで喜んだ。
「よかった、これでヴィンセント様も生きる希望が」
そう叫び、ケープを跳ね飛ばすと、長身を折ってスノウの手をとった。が、このような感情の爆発は、このときだけだった。
スノウが言葉を交わすのはヴィンスただ一人だった。他の船員たちはほとんど口も利かない。ヴィンスも船員には全く口も利かない。スノウへの気さくな態度とは裏腹に、船員とは距離を置いているといった感じだった。
船は3日目に凪を脱して、それからは順調に半島を横切り、入り江に入って港に着いた。
そこからは、ヴィンスと二人、馬車を使っての旅となった。
ツノウマには乗れても、この馬車は骨身にこたえた。
車輪は木製で、石ころ道の衝撃をそのまま背骨に伝えてくる。
荒海を越える船の旅には慣れていても、このような衝撃にはスノウは不慣れだった。それに、船の揺れには平気でも、馬車の揺れには酔いそうになった。
緑の大地も、牧草地も美しかった。きれいに組まれた石垣や、鄙びた百姓家を車窓から眺めて、気を逸らそうとした。
旅の連れはそれを察したのだろう。
まだ日も高い時間に、「宿を取りましょう」と言い、街道から反れたところに馬車を止めた。かといって宿屋の前ではない。
「ここは修道院ですよ。一晩とめてもらおうと思います。最近は宿屋も物騒なのでね」
そして「前にここに世話になっていたので、顔が利くんです」と付け加えた。
「あなたは、修道士だったんですか?」
「それを目指して修行していました。昔のことです」
鉄扉を叩いた。やがて顔を見せたのは、陰鬱な顔をした老いた番人だった。
ヴィンスが二言三言話すと、重い音を立てて扉が開いた。
「いつもすまない」
ヴィンスは老人に礼を言うと、スノウの先に立って歩いた。
石造りの僧院の、迷路のような回廊をぐるぐる回り、ようやく部屋にたどり着いた。中は非常に清潔だった。
「坊主は肉抜きなので、若いあなたには物足りないかもしれないが、メシは案外いけますよ」
旅の連れはそういうと、戸惑ったように「汚い言葉遣いをしてしまいました。申し訳ありません」と頭を下げた。これにはスノウのほうが驚いた。汚い言葉を使われたなどとは思わなかったからである。
「ぼくに気を遣っているのなら、今みたいに普通にしていてくれたほうが、うれしいです。父の考えはともかく、ぼくはもう貴族ではない、ラズリルの一市民ですから」
そういいながら、スノウはこうも思った。
(ああいってるけど彼の場合、平民らしいものの言い方のほうが、不自然だ)
だが、詮索する必要もないことだった。
僧院で静かな夜を過ごした翌朝、足元の寒さで目が覚めた。
窓の外を見ると、細やかな雨が降っている。その雨も、出発する頃には止んでいた。
南ガイエンはやはり、群島よりは寒かった。ただ雨が多いらしく、豊かな緑が広がっている。
なだらかな丘が連なる、豊かな緑の大地である。
厚い雲の間から、時折光が差す。
朝食のとき、かなり勇気を出して聞いてみた。
「父の様子を教えてくれますか? 本当はどうなんですか?」
すると、ヴィンスは遠慮がちに答えた。
「一時は重態だったのですが、何とか持ち直して、少しずつですが回復しています。でも長い間には気力も萎えてこられたようで、最近は……。あなたの顔を見ると、生きる励みになると思い、どうしてもお連れしたかった。探せるかと心配だったが、すぐわかりました」
優しい目でスノウを見る。このとき、ヴィンスは髪を束ねていなかった。
スノウは、はっとした。
(思い出した!)
クールーク皇国の、あの恐ろしい敵将と似ているのだ。
(イスカス!)
何人もかかって、血みどろになってやっと止めを刺した。死んだと思ったら、魚の化け物となって刃向かってきた。硬い魚の皮には、スノウブレードの刃も通らなかった。あの血の匂いの生臭かったこと。
「どうなさいました。お疲れですか?」
ヴィンスはスノウの顔を覗き込んでくる。優しい目をしている。ぎらぎらした野心などは全く感じられない。
あの人でなしとは、全く似て非なるものだ。何故似ているなどと思ったのか。
「い、いや。少し、ぼくの知っていた人に似ていると思って。でもよく見たら全然似てない」
男は困惑したように顔を曇らせ、「それは誰でしょう?」と問い返してきた。
いえるはずがない。クールークの狂った司令官にそっくりですと言われて、誰が喜ぶだろうか。しかもその男は、スノウが斬りつけ、イリスが止めを刺したのだ。
「あなたは全然知らない人です」
ヴィンスはそれを聞くと、ほっとしたかのように微笑んだ。
「似ているといえば、スノウ様はご両親の両方に似ていらっしゃる」
スノウは妙に気恥ずかしく、「親子ですから」と答えた。
「それと、よく見ると今でも、小さな頃の面影が残っています」
「ぼくが子供の頃を御存知なんですか」
「ええ。お里帰りなさったときにお会いしましたよ。カタツムリを見せて差し上げたんですが、覚えていらっしゃらないので?」
勿論、全く記憶にない。
自分はヴィンスのことを何も覚えていない。全くの初対面だと思っていた。ただ相手は自分のことを覚えている。少し居心地が悪かった。
「久しぶりの故郷は懐かしいでしょう?」
確かに、美しい緑の大地だった。乾いたクールークとは違って水も豊かだし、ラズリルよりずっと雄大な大地は、気持ちをゆったりとさせる。
だが、故郷という気はしない。故郷はラズリルと、ラズリルの海だけだ。
修道院を辞した後、二人は快調に馬車で飛ばしていた。ひんやりした風にのって、何処からか藁を焼く匂いが漂ってくる。
やがて、河に差し掛かった。
「この河を越えると、もうエディルナ市内ですよ」
水の流れが極めて速い河が、どうどうと音を立てて流れていた。
そのまっすぐな流れの上を、細い橋が一本架かっていた。
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