Missing 5

2007/02/04

「何としてもあの島を取り戻し……お前の手にと……」
父はそういって、またスノウの頭を撫でた。
「そんなことを考えなければ、もっと早く会えたのだな、スノウ」

しばらくして、スノウに辺りを見回す余裕が出たときに、小さなノックの音がして、ドアが開いた。
「ちょうどお薬が煎じ終えていたので、お持ちしました」
静かに現れたヴィンスは、片手に丸い盆を持っていた。
盆をベッド横の小さな卓に置き、病人をそっと起こして、背中にクッションをあてがう。
フィンガーフート伯は支えられながら薬湯を飲み干し、少し口の傍からこぼした。騎士は顔色も変えず、ハンカチでそれを拭き取った。
スノウは目を伏せた。父の余りにも衰えたさまに、ひどく胸を掻き乱された。
この状態を見れば、父を連れて戻るのは、もう無理だとしか思えなかった。


その後ヴィンスに促されて、当主の書斎へ向かった。
そこで伯父の息子、つまり従兄に会うことができた。従兄は黒髪の非常に大柄な男だった。
大またにスノウのところまで歩いてくると、「ディル・フィンガーフート」といい、さっと右手を差し出した。
スノウは戸惑いながら手を握り返した。
「父が、ご面倒をお掛けしています」
従兄は厳しい表情を緩めず、「ああ、全くだな」と言った。スノウは思わず肝をつぶしながらも、最低限の礼儀は尽くそうと試みた。
「伯父上にも、ご挨拶をと思ったのですが」
「父は急病で寝付いている。ヴィンセント殿よりさらに悪い。面会できる状態ではない」
「では、お加減が良くなったら、是非」

従兄は頷くでもなく、事務的な口調で捲くし立てた。
「先に言っておく。ラズリルを討伐する件だが、当家としては力添えは出来ない。とにかく、公爵殿下が全く乗り気ではない上に……」
スノウは慌てて手を振った。
「父にも話したのですが、私はそういう野心は持っていません。一人の住民として、平穏に生きていければそれで」
従兄は面白そうに、スノウを見下ろした。
「それがお前の望みなのか?」
「そうです。それと父を連れて帰り、島でのんびり療養させてあげられたら、と」
「帰るというのなら止めないが。無理をして船で死なせるより、亡くなるのを待って、ここで葬式まで出すほうが良くないか。お前ではまともな葬式も出せまい」
「ディル、それは言いすぎでしょう」
ヴィンスが驚いて、従兄を諌めようとしている。だが従兄が「弟の分際で口を挟むな!」と一喝したら、さっと退いてしまった。

葬式。この男は葬式だといった。父はまだ生きているのに!
だが従兄という男は、人の心を持たないかのように、さらにしゃべり続けた。
「好きなだけ居ればいい。たいしたもてなしは出来ないが、夜具はある」
スノウはカーペットの模様を見つめた。
「あの、スノウ様もお疲れですので、早めに夕食を取っていただきます。よろしいですか?」
ヴィンスの柔らかな声がするまで、時間が止まったままだった。
「連れて行け」
その口調は使用人に対するものだった。

廊下に出たとたん、ため息をついた。自分たち親子は、厄介者以外の何者でもない。いわゆる家名の名折れというやつだ。歓待されるほうがおかしいのだ。
しばらくして、ヴィンスはぽつりと呟いた。
「気にしないでくださいね。ディルも気苦労が多いのです」
ヴィンスはうつむき加減に歩きながら、「悪い人間ではないのです」と、自分に言い聞かせているようだった。

スノウに与えられた客用寝室は、派手さはないが居心地のいい部屋だった。壁面には小さな絵皿がたくさん掛かっている。木目込み細工のテーブルも、渋い色合いのカーテンも、古びてはいるがよく手入れされていた。だが、それらは全て、ラズリルの父の屋敷で使われていたものと、非常によく似ていた。
「ヴィンセント様が以前、交易で手に入れられたものです。これはとても良い物で、今の相場では大変な高値がつくらしいです。あなたの父上は大変な目利きですよ」
ヴィンスはテーブルの明かりを点し、立ち上がった。
「ゆっくり休んで、明日は笑って父上に会ってください。あなたは、ヴィンセント様の唯一つの希望なんですから」


夜は、静かだった。石畳を踏む夜警の足音が近づいては、遠ざかっていく。時折犬の遠吠えが聞こえたが、それも直ぐに止んだ。ラズリルよりかなり寒く、ベッドの中まで寒気が入ってくる。
スノウはなかなか眠れずにいた。居心地の悪さだけではない、何か胸騒ぎがして、腎臓まで痛くなりそうだった。
(お父様はぐっすり眠っているだろうか)
気になると、珍しく目が冴えてならない。しばらくしてついに置きだしてしまった。ドアの外で気配を伺うだけでもと思ったのだ。
暗がりを、手に持った暗い明かりを頼りに歩いた。
(確かこのあたり)
父の病室だと思った部屋から、かすかに灯りが漏れている。
(あれだ)
外に立つと、中から何かが擦れ合う音が聞こえてきた。コリコリと何かを引っ掻くような音だった。ドアの前に立つと、その音は止んだ。

「誰かいるのか?」
小さな声がして、ドアが開いた。白い手ぬぐいを頭に巻いた、職人のような姿のヴィンスが立っていた。
「こ、ここは父の部屋かと思って」
「ヴィンセント様の部屋は、もう一つ向こうなんですが」
ヴィンスの呆れ顔は、やがて微笑みに変わった。
「さっき覗いたら、よくお眠りでしたよ。何も心配することはない。何かあれば私が駆けつけますから」
「……すみません」
「中に入りますか? 今、薬を合わせているところです」

ためらっていると、「風邪を引きますよ」と手を引っ張られて、中へ入らざるを得なくなった。
ヴィンスの部屋というところは、使用人の部屋のように粗末で、殺風景だった。ただ、そこは薬草の香りで満ちていた。棚にいろいろな薬草や種の便が並び、また、薬方に関すると思しき本も、粗末な棚に並んでいた。がたがたする椅子にスノウを座らせると、ヴィンスはまた仕事に戻った。机の上の乳鉢に薬草を計って入れている。目分量などではないらしい。
「もう直ぐ終わりますから」
「それは父のための薬?」
「そうですよ。多くの修道士が自分の体で試してきた、ガイエンの国より古い処方です」

ヴィンスはそういうと、調合し終えた薬を、油紙で注意深く包んだ。そうしておいて、無造作な手つきで、被っていた手ぬぐいを取った。長い巻き毛がふわりと顔に掛かった。柔和な顔立ちに、非常に強固な表情が浮かんでいた。
「ヴィンセント様は少しずつ良くなっているんです。死ぬのを待つだけなんて、私は認めません」

ここに来て、自分の親戚に会うことが出来た。だが、ディルという男は、従兄というには余りにも他人だった。むしろこの親切なヴィンスのほうがよほど「従兄」という感じがする。
ややあって、男は「チョコレートを淹れましょう」と言い出し、実際に黒い板を削り始めた。甘い香りが部屋に広がった。この男の手早いことは、まるで熟練の主婦か、職人のようである。

「あの、ヴィンス。あなたはぼくの従兄なのですか?」
「え?」
「さっき、従兄があなたのことを弟、と呼んでいたような」
ヴィンスは少しためらった末、「私は養子なのですが、続き柄はそうなりますね」と言った。
「だけどディルが居るのに養子ですか?」
ヴィンスはチョコレートに湯を入れてかき混ぜながら、言葉を選ぶようだった。
「ディルが居るから、ディルを守るために、です。その役目も果たし終えましたので、修道院に入り修行していたのですが。ヴィンセント様が帰国されたので、この家に戻ってきてしまいました」
「ディルを守る?」
あんな強気な従兄が、誰かに守られる必要があるのか。それは何から守らなければならなかったのだろう?
だが、ヴィンスはそれ以上の質問は受け付けないようだった。人懐こい微笑を浮かべ、「さあできた。これでも飲んでお休みなさい」と、熱いチョコレートのカップを差し出してきたのだった。

Missing 6

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