Missing 8
公爵の白い離宮は、冬枯れの丘に背後を守られて、静かにたたずんでいた。
館の前には湖がある。落ち葉を多く含む水は濃く暗く、館の影をくっきりと映すさまは、湖底にもう一つ館が存在するかのように見えた。
馬止めで馬車を降り、細い館の正面から入る。
内部は、荘園館のような、素朴なしつらえとなっていた。床も階段も、階段の手すりに至るまで木製で、それらは全て磨きこまれて、深い艶を帯びていた。
また、上等の薪の匂いに混じって、薫香のような慕わしい香りもしていた。
「居心地よさそうなお屋敷ですね」
スノウが言うと、ディルは低い声で、「なら、ここに住みたいと公爵に頼むか? 愉快な目に遭えるだろうよ」と言った。スノウは気まずく口をつぐむしかなかった。
(何故か知らないけど、この従兄に憎まれているようだ。何故だろう……)
公爵の謁見を待つために通された部屋で、従兄は奇妙な警告を与えてくれた。
「おれが何を言っても、適当にあわせて頷いているんだぞ」
まもなく公爵の部屋に呼ばれた。スノウは、重々しく響く木の床を踏んで、ディルに続いて部屋に入っていった。
非常に背の高い男が、暖炉を背に立っている。年は50くらい、豊かな巻き毛の金髪だが、眉も、髭も黒い。金髪のカツラであるのは明白だった。
「公爵殿下にはご機嫌麗しく。本日は私の不肖の従弟、スノウ・フィンガーフートをお連れしました。ラズリル育ちの田舎ものゆえ、失礼があればお許しを」
ディルが優雅に体を屈め、口上を述べた。スノウはそれを、呆然と眺めた。粗野な従兄が、端正な貴族の青年に見える。実に、不思議な光景だった。
公爵は「大儀」と答えた。そして、自己紹介もせずに、スノウを見た。
いや、見るなどという生易しいものではない。まさに値踏をするように、舐めるような目つきで、上から下まで見回したのだった。
好きなだけ眺め回すと、手に持っていた鉄の扇子で、スノウの顔を持ち上げさせた。
「ヴィンスに似ているな。歳はいくつだ?」
スノウが答える前に、ディルが晴れやかな口調で、「30になったばかりでございます」と答えていた。
公爵はかすかに眉をひそめ、探る目でスノウを見た。
手に汗がじっとりと滲んできた。あまり気持ちのいい視線ではない。
「ヴィンスやディルと年が変わらぬわりには、若く見えるが。本当に30歳か?」
スノウはアゴを持ち上げられたまま、「はい、閣下」と答えていた。
調子を合わせるのだ。でないと、「愉快な」目に遭うことになる。5年くらいサバを読むくらい、なんでもない。
そう思うと、すらすらと嘘がつけた。
「誕生祝いを故国でできたのは、望外の喜びでございました」
「ほう」
公爵はしばらくの間、鉄の扇子の先でスノウの喉元を撫で回していたが、やがて扇子を引っ込めた。年を聞いて、興味を失ったかのようだった。
「ディルよ、ヴィンスはどうしている?」
「わが愚弟なら、おかげさまで息災です」
「久しぶりに、あれのハープを聴きたいものだな。聞けなくなって久しいが、未だにあの音色が恋しいことがある。折りがあれば呼ぶやも知れぬ」
すると、またディルは微笑んだ。
「演奏の腕が落ちぬよう、修練をしておくようにと伝えます」
公爵は黒い鉄扇を唇に当てて、しばし考え込んだ。
「そなたの弟自身もまた、得がたい楽器であった。あれは実に美味だった……育ちすぎたのは残念だったが、仕方のないことだ」
これにもディルは顔色も変えない。濃い、黒いまつげを慎ましく伏せて、また優雅に一礼し、「お優しきお言葉、愚弟もさぞ喜びましょう」と答えた。
公爵との謁見は、それで終わりだった。短い謁見だったが、もうたくさんだという思いだった。
ディルが言った「愉快な目」という意味も、悟らざるを得なかった。
思い足音を立てて、来たのと同じ長い回廊を歩いていく。外に出るまで、二人は一言も口を利かなかった。
ディルの纏っていた、優雅な雰囲気は、外へ出ると消え去った。むっつりと黙り込み、ただ前を睨んでいる。非常に不機嫌だった。
走り出してしばらくすると、ディルは「さっき公爵が言ったことは、ヴィンスには言わないでほしい」と呟いた。
「言いません。何だか変な感じがしたし……」
控えめに言っても、公爵からは、よい印象は受けなかった。
「その、変わった方ですね。公爵様って」
変わっている。それだけではなく、視線が交わるだけで背中が寒くなるような、何かがあった。
「お前も気づいただろうが、公爵は男色家だ。それも貴族の子弟でなければならぬ。あの館には、何人もの子供が閉じ込められている」
「ディル……」
「公爵の気に入るような、見目の良い子供を差し出せば、お家も安泰。いや、違う。家を潰されないために、子供を差し出すんだ。飛んだ腰抜けだろう?」
ディルも誰かに聞いてほしいのだろう。スノウは、素直に水を向けた。
「ヴィンスも、あの家に住んでいたんですね」
従兄は陰気に頷いた。
「あいつは孤児で、おれの身代わりにするために養子にされた。18歳で館を出されたが、そのまま修道院に入ってしまった。おれは何度も連れ戻しに行ったが、追い返された。叔父上がガイエンに来て、病気で倒れて……それで、ようやく帰ってきた」
馬車は、もと来た森を逆にたどっていく。雨はいつの間にか止み、葉の間から薄日が差していた。
「公爵様は、ヴィンスのハープの音が恋しいとか、そのうち呼ぶとか、言ってませんでしたか? 大丈夫ですか?」
「大丈夫なものか!」
ディルは激して、拳で馬車の壁面を殴りつけた。板張りの壁に、ぽっかりと穴が開き、冷たい風が入り込んでくる。
御者は、この物音が聞こえているはずだが、速度を緩めずに走り続けている。
「大きな声を出してすまなかった」
ディルは唇をかみ締めていた。
「おれには、公爵を責める資格はない。あいつが居なかったら、おれが送られていたんだからな」
馬車はエディルナ川を右手に見ながら、静かに歩みを進めていく。ふと鐘の音が聞こえた。ディルも耳ざとくそれに気づいたらしく、「僧院だな。実に耳障りだ」と毒づいた。
確かに、甲高い音だった。
「あんな辛気臭い場所で、どんな救いが得られるというんだ。ヴィンセント殿も同じだ……あんな体の効かない年寄り、尽くすだけ無駄だ」
「妬いてるんですね」
「なんだと?」
「あなただけを見てくれないから、妬いてるんでしょう」
半ばかまを掛けたのだが、ディルは睨みつけるだけで、否定はしなかった。どうやら図星なのだろう。
「そんなに大事なら、何でもっと優しくしないんですか? ヴィンスは、あなたのことを、本当はいい人だ、と言っていましたよ。」
「そう思いたい、という意味だ。例え悪人でも、憎まないような自分になりたい、ということだ」
「そんな……」
「おれなんかに優しくされたら、却って傷つく。だから小間使いみたいに扱ってやるのさ」
スノウは黙り込んでしまった。年甲斐もない、不器用な男だ。わかってほしいと思うだけでは、誰もわかってくれないではないか。
館に付くと、ヴィンスが玄関で待っていた。どれほど待っていたのか、顔色は酷く白かった。
「お帰りなさい」
白い息を吐いてそういい、無理に微笑んだが、それは奇妙に歪んだものだった。
「寒かったでしょう」
やっとそう言うと、体を屈めて抱きしめてきた。冷え切った頬を付けられたが、嫌悪感はなかった。この従兄は、怯えながら待っていたのに違いなかった。
「大丈夫だよ、ヴィンス」
そういって、強張った背を軽く叩いてやった。その横をディルが肩を怒らせ、靴音も高く通り過ぎていった。
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