岬の家
05/10/2
朝の4時ごろ、少年はベッドから這い出していった。窓にかけた薄いカーテンから、まだ月の光が漏れていた。
スノウはけだるく身じろぎした。
(起きなきゃ……お茶くらい淹れてあげなきゃ)とは思うものの、どうしても体が動かなかった。
頭は鉛のようだし、体はばらばらになりそうなほどだ。
(手加減ってのを知らないんだから、イリスは)
でも腹は立たなかった。
はじめてのとき、少年は全く不慣れで、スノウが何もかもしてやらなければならなかった。
その後、万事器用なイリスは、スノウがあっけにとられるほど「上達が早かった」が、それでも振る舞いには遠慮があった。
お互いうっかり声でも上げようものなら、壁の薄い船のこと、外に筒抜けだったからだ。
戦争が終わっても、スノウに帰る国はなかった。イリスとスノウは、オベルの町外れに、空き家になっていた家を借りた。岬に立っている小さな家で、壁は青く塗られていた。
風が強いのが少し難点だが、眺めも最高だった。何より近くに家がない。
そのころから少年に容赦というものがなくなってきた。
(昨日なんて、寝かせてもらえなかった……力任せなんだから)
少年の激しいしぐさの数々を思い出して、若者は顔を赤らめた。完全に征服される、というのもいいものだ。
今となれば、イリスと張り合おうとしたのすら信じられないくらいだった。
そのときイリスの足音が近づいてきてので、スノウは思わずシーツで顔を隠した。
「行ってくる。帰りは3日後になる。ちゃんと食べて、いい子にしてろよ」
イリスはそういうと、スノウが被っていたシーツをそっとどけた。顔を洗ったのか、少年の手はまだ湿っていた。
「イリス……いい子って……ぼくのほうがお兄さんなんだよ」
「年だけはね」
イリスはくすくす笑い、スノウの唇に指で触れた。
「ほんとに、手間のかかるお兄さんだよ」
そのまままたキスを続けようとするので、スノウはそっとイリスの胸を押した。
「イリス、遅れるよ。船が出ちゃうよ? 哨戒に行くんだろ? 王様に叱られるよ」
少年は返事もせず、スノウの首筋を指でつついた。
「いい感じにアトがついた」
スノウは一気に目が覚めて、飛び起きた。
「ひどいよ。わざとつけたの?」
スノウが思わず枕を投げつけると、イリスはそれをすばやくかわして、声を上げて笑った。
「スカーフでも巻いとけばわからないよ!」
イリスがいなくなった部屋は、恐ろしいほどがらんとしている。
(3日も帰ってこないのだ)
そう思うと無性に寂しく、もう眠ることができそうになかった。
のろのろと起き出して茶を淹れた。カップは、イリスが気に入って買ってきたものだ。オベル風の青いモチーフで、厚手の、素朴なつくりの陶器で、手にしっくりくるのがスノウも気に入っている。
一杯目を飲んでいるとき、ようやく夜が明けて小鳥が鳴き始めた。
二杯目を注ごうとしたとき、小さなノックの音があった。
そっと開けてみると、漆黒の髪の男が立っていた。
「おはようございます、スノウ様」
スノウは困惑した。顔はよく知っているのだが、とっさに名前が思い出せない。確かオベルの王女の側近で、よくセツに怒鳴られていた人物だ。
男はスノウの困惑を察したか、穏やかに微笑むと、自分から名乗った。
「デスモンドと申します。朝早くにすみません」
スノウはいくぶんほっとして、デスモンドを部屋の中に招き入れた。
「何もありませんが、お茶でも……」
「いただきましょう」
男は礼儀正しかった。興味ありげに部屋を見回したりすることもなかった。少し首をかしげてスノウを見つめ、こう切り出してきた。
「少しは落ち着きましたか。何かご不自由はありませんか」
「いいえ、とんでもない。よくしていただいて……オベルはすばらしいところです」
デスモンドは穏やかに微笑んだ。
「そういってもらえて、私もうれしいですよ」
茶を一口のみ、いい香りですね、とデスモンドはつぶやいた。
「ミドルポートのお茶ですよ。少しスパイスが入ってるから、好き好きがあるんですが」
「とても美味です。スパイスと、少しオレンジの香りもするみたいですね」
デスモンドは感心したように頷くと、静かにカップを置いた。
「そうだ、イリス様が最後に倒れられたときですが、スノウ様は不思議なことをなさってましたね」
「え?」
「あれには驚きましたよ! いきなり首をこう持上げて、息を吹き込んで!」
「ああ、人口呼吸による蘇生術のことですか。あれは海上騎士団で教わるんです」
スノウは顔を赤らめた。
理由があったとしても、甲板上で公然とイリスの唇を奪ってしまったのだ。
「あのときは、必死だったので……よく覚えてないんです。すみません」
しかしデスモンドは空気を読むということをしないようだった。
「リノ王も、スノウさまがなさった、あの技について、よく聞いてこいと言われてね」
「あれは、ガイエン海上騎士団のものなら、だれだって知ってることですよ。イリスだって習得しています……彼のほうが優秀だったから、正確に説明できるかもしれません」
デスモンドは足を組み替え、茶を一口、うまそうに飲んだ。
「それにしても口移しで空気を吹き込むとは。親しい友人同士のあなた方だから、ためらいもなくできることでしたね」
「仲間を助けるのは当然ですから。ぼくが一番近くにいたから、やっただけのことで、ぼくがいなければジュエルが、ジュエルがいなければタルが、イリスに蘇生術を施したでしょう」
スノウは無理やりにでも話題を変えたかった。
「リノ王は、気さくな方ですね。フレア王女もお美しいし……」
「王は、気さくですし、それは素晴らしい方です。今のところ、この国には一息つけるといったところですかね。私にとっては一番気がかりなのは、フレア王女のとことです」
「フレア王女? どこかお加減でも?」
デスモンドは苦笑した。
「いえいえ、お元気ですよ。子供のころは、あの倍も元気だったので、お仕えするのは命がけでしたよ! 弓の練習の的にされたこともありましたが、私が足に怪我をしたら大泣きしてねえ。リノ様にお尻を叩かれて、1ヶ月も外出禁止、おやつ禁止で。ふふ。今から思うと夢のようだが、心栄えは誰よりも優しい方なのですよ」
スノウは、輝くように美しいオベル王女の顔を思い浮かべ、微笑んだ。あんな才媛にも、おてんばな子供時代があったのだ。
「ですが人の上に立つというのは、『優しい人』では勤まりません。手も汚さなきゃならないこともある。いざとなれば泥を被る覚悟もいる。うまくいって当然、うまくいかなければ手の平を返すのが国民です。スノウ様、あなたには身に沁みておわかりですよね」
スノウは居心地悪く身じろぎをした。いったいこの男は、故郷に帰ることもできないスノウに、いったい何を言いに来たのか。
「リノ様はねえ……フレア王女に王としての重荷を背負わせるのは、不憫だとお考えなんですよね。フレア王女が結婚して、相手の方に王位を継承させるというのもありますが、その相手が良くなければ、オベル国民としては目も当てられない」
「…………それはそうでしょうね……でもリノ王はまだ若いし、まだ先のことではないですか?」
「それはそうですがね。何かあれば不安ですよ。行方不明の王子が戻ってきてくれさえすれば、と思うのです。レア様もイリス様がとても気に入っていて、あのような若者が弟ならどんなにいいか、とおっしゃってましてね。年のころも弟君と同じですしね」
そこで勘の悪いスノウにも、ようやく気がついた。
デスモンドは、イリスがその行方不明の王子ではないかと思っているのだ。
スノウの小さな頭の中に、(もしリノ様が父で、あの優しそうなフレア姫が姉なら)という思いが浮かんだ。そうすればイリスはもう一人ぼっちではない。
あんなに仲間がいても、(ずっと寂しかった。スノウがいなければ、おれは本当に一人ぼっちだ。)と言っていたではないか。
スノウはデスモンドに向き直った。
「その王子様の特徴はありますか?」
「王子は青い目で、色が白く、髪の色は明るかった。あまりに小さかったので、装身具などはしていなかった。着ていたのも普通の産着だったそうですよ。ただ、乳母が言うには、体の一部に赤いアザがあったらしい」
「それは大きな決め手になる……見せてくれとイリスに言えば……」
デスモンドは咳払いをして、この人物にしては品のない物言いをした。
「パンツを脱いで、足を開いて見せろというわけにもいかないでしょう?」
スノウは絶句した。
「というわけなんですよ。今度イリス様が帰ってきたときに、確認していただけますか?」
「……か、確認って、なんでですか。ぼくはただの友達ですよ。イリスの恋人でも、囲われ者でもないんです!」
そう言ってしまって、またスノウは絶句した。何かいえばいうほど、墓穴を掘っているではないか。
オベル家臣は気の毒そうに笑った。
「お気を悪くしないでくださいね。いまさら隠さなくてもいいんですよ。私どもは承知していることなのです。……私などからみたら、子供たちがままごとしてるようなものです。誰かを傷つけてるわけじゃないですしね」
もう逃げようがない。スノウはデスモンドを見据えた。
「もし、イリスにあざがあればいいけど、もしアザがなくても……イリスを変わらず大事にしてくれますよね?」
「もちろんです」
若者はうつむいた。
「……今度帰ってきたら確認します。それから報告に、王宮に参ります」
「お待ちしてますよ」
デスモンドが出て行った後、スノウは部屋を見回した。小さいが居心地がいい。イリスが気に入って借りた家だ。それは正しい選択だったが、気に入ったから買う、と少年は言ったのだ。
(若いのに家を買うなんて、よくないよ)
スノウが反対して、結局借りることに落ち着いた。
(ほらごらん。少しはぼくのほうが年上なんだから。借りておくことにしてよかっただろ?……)
イリスがまた帰ってくるまでに、きれいに掃除をしておかなければ。
花くらい飾っておくのもいいかもしれない。明日はわからなくても、一日、一日を大切にしておかなければならない。後で後悔しないように。
あの岬の家、といつか懐かしく思い出すだろうここを、少しでも明るく、きれいにしておきたかった。
(帰ってきたら、思い切り甘えさえてあげよう)
窓は青い空をうつし、雲ひとつない。
遠い海の向こうに、名前も知らない島がある。その向こうには、スノウも知らない海がある。
今頃イリスは、どのあたりを航行しているのだろう。どんなに目を凝らしても、鳥の影も見えなかった。
峠の家 終わり。
「ペルソナ・ノン・グラータ」に続く
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