ペルソナ・ノン・グラータ

05/10/7


イリスは、家の中に一歩入り、戸惑ったように足元を見つめた。
「なんかこの床、光ってない?」
「磨いたんだ」
何時間もかけてヤシの実で磨いた床は、鏡のように光っていた。甲板磨きのことを考えると、面積が小さい分、まだ楽な作業だった。

テーブルにはオベルの織物をかけ、朝市で買ってきた花を飾った。
イリスはしばらくぽかんとしていたが、次に気づいたのは食べ物の匂いだった。

「いい匂いがする」
「すぐお昼にする? もう食べられるよ」
「何が始まったんだ」
イリスは慌てて台所に入ると、湯気の上がった鍋を見つけて、ふたを取った。
「これを、スノウが作ったのか?」
イリスが驚いたのも、無理はなかった。鍋の中には、エビや魚、香草などがたっぷり入った、おいしそうなスープが湯気を立てていたからだ。

「オベル風スープだって。市場のおばさんに教えてもらった。あと、肉まん蒸かしたのとね。簡単だけど、これでお昼にしようね」
イリスは驚きの余り口も利けない様子だった。
「いったい……なんで……」
「いいから、座って」

イリスをテーブルに無理やり座らせ、大きな皿にたっぷりとスープを供し、平皿に熱々の肉まんを盛ると、イリスの腹が派手に鳴った。
「いただきます!」
少年は勢いよく食べ始めた。
よほど腹がすいていたのだろう。小気味よいほどの食べっぷりで、テーブルマナーもあったものではない。
「すっげえうまい!」
イリスはただうまそうに食べていたが、ふと顔を上げた。
「スノウ、食欲ないの?」
「え? も、もちろんいただくよ」
スノウは慌てて食べ始めた。このオベル風のスープは好きな味だったが、これで3度も同じものを作って食べていたので、さすがに飽きてしまっていた。
もうひとつには、夢中になって食べているイリスのようすに見とれて、食べるのを忘れていたせいもある。
好物の肉まんをたくさん食べるのはもちろんだが、特に丹精したスープを、3回もお代わりしてくれたことがうれしかった。

腹いっぱい食べてから、少年はしみじみとつぶやいた。
「うまかった……」
「そう。よかった」
少年はスプーンを握り締めたまま、からになったスープ皿を見つめた。
「おれ、こんなことしていいのかな」
「ん?」
「スノウの作ったものを食って、スノウがきれいにした部屋に住んで……」
スノウは微笑んで、意地悪くその先をいってやった。
「ぼくと寝て、かい?」
イリスは顔を赤らめ、テーブルの上に置かれたスノウの手を見つめた。
「こんなに手を怪我して」
「平気さ。もっとおいしいものを作れるようになるよ。だけど1人で家にいるのは、やっぱり寂しいな」
「スノウ……」
「たまには、ぼくもいっしょに連れて行ってくれよ。だめかな?」
「スノウっ」

少年は叫んで、スノウにしがみついてきた。そのまま粗末な上着に手を突っ込んできたのだった。下は素肌だった。イリスの幾分荒れた、硬い手が、スノウの背中のやわらかい皮膚に食い込んだ。
スノウはくすくす笑って身をよじってやった。
「イリスってば。まだ日は高いんだよ」
「意地悪言わないでくれ、もう3日も離れてたんだ。こんなにスノウがかわいくて、おれもう、どうしたらいいんだ!」
イリスは叫んで、自分より背の高いスノウを、文字通り引っ担ぐと、その勢いで寝室に駆け込んだ。


激しい一時の後。
イリスはよほど満足したのか、子供のようにうつ伏せで横たわり、小さな寝息を立てていた。確かめるのは今しかない。
スノウは起き上がり、眠る少年に横に身をかがめて、小さな尻の丸みをそっと手で分けてみた。
(ない)
赤いアザが、ない。
そう思ったとたん、頭の中は真っ白になった。ただ、(これで一緒にいられる)という、このことだけははっきりしていた。
もしイリスが行方不明の王子様だったなら、スノウはもうオベルにはいられなかっただろう。オベル王家は、必死になって二人を別れさせようとしただろう。だがもうその可能性はなくなったのだ。
浅ましいほどの喜びだった。このうれしさは、誰にもいえない種類の醜いものだった。
(王子様じゃなかったんだ。これで一緒にいられる。だけどきみは、孤児のままなんだね。それなのに、こんなにうれしいなんて……)


イリスは軽く身じろぎをして、スノウを見上げた。いつから目覚めていたのか。顔には、ちょっと困ったような笑顔を浮かべていた。
「スノウも入れてみたいかい?」
スノウはうつむいた。
「そんなんじゃ、ないんだ……」
気持ちがいっぱいになりすぎて、口を利くこともできなかった。
少年はスノウのようすがおかしいと気づいたのだろう。慌てて起き上がり、優しく髪をなでつけ始めた。
「ラズリルが、恋しくなったのか?」
「……もう、帰れないよ」
「もし帰れたらの話だよ」
「帰れても、帰らない。きみがオベルにいる限り、ぼくはここにいる」
少年はほっとしたような表情を浮かべた。

「ねえ、イリス……お父さんにあいたいかい?」
イリスは顔色を変えた。外ではむしろ無表情な少年だが、スノウの前ではまったくそうではなかった。
「それは気になるけどさ、正直気まずいな。スノウにこんなことしてるんだから」
「ぼくの父じゃないよ。君の生みのお父さんのことさ」
イリスは頭を掻いた。照れ隠しのようだった。
「さあな……生きてるかも、なんて思ったことないからな。いまさら親父でもないし」
スノウは、少年の額に自分の額を押し付けた。クールークを攻めるときに、あの恐ろしい要塞の塔の中でも、何度もこういうしぐさをした。不器用なスノウなりの愛情表現だった。
「それでも、さ。ねえ、もし会えたらどうする?」
「そうだな。……『親孝行』てのがしたいな。一度も親孝行ってのをしたことがないからな。もし親が生きてて、貧しくて苦労してるようだったら……」
「イリス」
若者は、少年の幾分乱れた髪をときつけた。
「よそう、そんな話。おれにはスノウがいる」
「ぼくたちは、二人ぼっちだね」
スノウは微笑んで、イリスの頬を両手ではさんだ。


そんな会話を交わした次の日の早朝、少年はうれしそうに漁に出て行った。やはり哨戒よりは漁のほうが楽しいのだ。
「今日は腹いっぱい、取れたての魚を食わせてやるよ」
少年を見送ってすぐ、スノウは家を出た。途中、何気なく市場を覗き、新鮮なドラゴンフルーツを見つけて、買い求めた。
買い物袋を持ったまま、足取りも軽く王宮に上がった。

王宮は、珍しく、しんと静まり返っていた。
デスモンドさんに会いにきたことを兵士に告げると、王宮の奥の間に通された。
デスモンドは慌てて出てくると、挨拶もそこそこに結果を聞いてきた。
「それで、どうでしたか?」
「その、聞いていた場所には、赤いあざは見当たりませんでした」
男は気の毒なくらいがっくりと肩を落とした。

「そうですか。残念ですよ。他にはアザはなかったんですね?」
「あざなのか、ほくろなのかわかりませんが、足の付け根に……黒いのがありますよ。ハート型です。誰にも言っちゃだめですよ」
スノウはくすっと笑った。黒いハート。黒い心。
清楚なイリスは、すらっとした脚の付け根にそんなものを隠している。

冷静そうな実務家は、上ずった声で叫んだ。
「黒いハート型のアザ。確かにあったのですね?」
「え、ええ。珍しい形なのでよく覚えています」
「王、おめでとうございます!」
リノ王が緞帳の影から出てきた。強面の日に焼けた精悍な顔が、上気していた。
「礼を言うぜ、スノウ」
「な、なんのことです」
スノウはリノ王と、デスモンドを見比べた。デスモンドが申し訳ない、というように両手を広げた。
「すみませんね。実は、お尻の間に赤いアザなどなかったのですよ。黒い、ハート型のアザ、というのが正解です」
「そ、そんな」
「あなたのお人柄から判断して、素直にイリス様の幸せを喜ぶとは思えなかったものですからね。本当のことを言ってくれるかどうか、心もとなかったもので」

「デスモンドさん……リノさん……」
スノウには震える声で問いただした。
「何で、イリス本人に聞かなかったんですか。こんなもって回ったようなことを!」

「わからねえかなあ?」
リノ王は(頭の悪いやつだ)とでも言いたそうな、うんざりした表情で答えた。

「イリスは有能な男で、王子でなくても、オベルにいてほしい。もっと言うと、あの罰の紋章を持っている限り、この国から出すわけにはいかねえ。あんなぶっそうなもの、敵に回すわけには行かないだろう。だからって、ヤツがおれの息子だとしても、今すぐ名乗るわけには行かないんだよ。例の紋章のこともあるからな」
スノウは震え上がった。リノ王の気さくな態度、豪放な話し方の向こうに、得体の知れないものを感じたのだ。
「王様、イリスがなんていったかわかりますか。親がもし生きてたら、親孝行したい。苦労してるなら、助けてあげたいって、そう言ってるんですよ!」
リノは微笑んだ。
「さすがイリス、おれの息子だ。徳が高い」
「リノ王!」
「どうやらもう紋章に命を削られることはなさそうだが、ああいうぶっそうなものを持ってるわけだ。もう少し様子を見て、その間に次期国王としての教育を施す。折をみて、おれからイリスに言うつもりだ」

スノウはオベル王をにらんだ。
「ぼくは、あなたがイリスの父なら、イリスは幸せになれるんだと思ってました」
「まあ、イリスのことは心配しなくていいさ。これからおまえは、ラズリルに帰るんだからな。自分のことを心配したほうがいいんじゃないか?」
この男を連れて行け、とオベル王は叫んだ。
頭巾を被ったオベルの兵士らが飛んできて、両側からスノウの腕を掴んだ。手に持っていた袋が床に落ちて、買ったばかりの果物が床の上で潰れた。
「言っとくが、今おれが言ったことは他言無用だ。オベルでおまえが見たことも、誰にもしゃべるな。長生きしたければな」

スノウは震えながら訴えた。
「せめて、イリスに別れをさせてください。昼過ぎには帰ってくるはずなんです」
デスモンドがスノウの前に進み出た。
「船の時間がありますからね。ご心配なく、イリス様には、私のほうからよろしく言っておきますよ。あなたは何も心配なさらぬよう」
突然、後ろから口を押さえられて、目の前が真っ暗になった。

次に気がついたときは、もう揺れる船の上だった。木の箱の中に押し込まれていたのだった。
「ここから出せ、出してくれ」
スノウは叫んだが、手足を縛られているので、芋虫のようにもがくだけだった。
しばらくして、木箱のふたが少し開けられ、兵士が覗き込んで、顔を一発殴られた。
「騒ぐと、このまま海に放り込んでやるぞ」
眉の濃いオベル兵にすごまれて、スノウは黙り込んだ。縄を解いてもらえるのは、食事と排泄のときだけだった。
水とパンと、干した果物を与えられて、何日も船に揺られた。
眠ってはオベルの夢を見た。夢の中で、スノウはまだオベルの町を歩き、イリスと買い物をし、岬の家の中を歩き回っていた。イリスからはどんどん遠くなるのに、スノウの魂はまだオベルにあった。
(イリスは必死になって探しているだろう)
(それとも、ものすごく怒ってるかな)
どちらとも思えなかった。多分、その両方なのだろう。

ある日、オベル兵は、再びスノウの腕を縛り上げた。
「ラズリルに着いた。これからおまえを下ろしてやるから、おとなしくしろ」
再び棺おけのふたを閉め、釘を打ち付けた。
箱の中は完全に暗闇となった。箱を誰かが担ぎ上げ、歩き始めている。今度こそひどい恐怖を感じたスノウは、声の限りに叫んだ。
「やめて! ぼくはどこにも逃げない、抵抗なんかしない、海へ放り込まないで!」
「うるさいぞ、黙れ!」
上から剣が差し込まれた。剣はスノウの顔の数センチのところで止まった。
悲鳴も出ない。もう、黙るしかなかった。
スノウは棺おけに入ったまま、懐かしいラズリルに再上陸したのだった。


懐かしい賑わい。石畳を歩く乾いた足音。
優しく間延びした、ラズリルの方言も聞こえる。本当に帰ってきてしまったのだ。
上で人の話し声がする。
「ここで開けないでちょうだい、人目があるわ」と、よく通る女の声が響いた。
「まず館へ運び込みましょう」と聞き覚えのある男の声が応じた。

幾分丁寧に運ばれたあと、スノウの棺おけはようやくどこかへ下ろされた。
蓋がこじ開けられ、新鮮な空気が一気に入ってきた。光に眼を射られて、思わず眼をつぶった。
「スノウ。無事だったか」
目を上げると、懐かしい顔があった。騎士団で一緒だったケネスだった。懐かしい盟友の姿。
ケネスは厳しい表情で見下ろしていた。
ケネスの横にはカタリナがいたが、こちらは困惑の表情を浮かべていた。
「ひどい扱いね……オベルにとって好ましからざる人物なので、ラズリルに送還する、と言ってきたのよ。理由を聞いてもいけないと言われたのだけど」
スノウは頷いた。
「そのとおりです。理由はいえません…すみません」
すると後ろのドアが開いて、騎士団員がカタリナに向かって叫んだ。
「団長、新入り同士が大喧嘩してます! 手がつけられません」
「まあ、またなの! どうしようもない子達ね!  ケネス、スノウにはあなたからよく説明してあげてね」
「わかりました」

ケネスは、スノウの腕と脚を縛った紐を解いてくれた。
「カタリナさんが、今の団長だ。団員も増えたけど、暴れ者が多くて困ってる。団長が行かないと収まらないんだ。おれは、副団長やってる」
スノウはうなずいた。
「さっそくで悪いが、スノウ。おまえの身の振りかただ。いい知らせと、悪い知らせがある」
ケネスは軽く咳払いをした。年下とは思えないくらいの落ち着きぶりだった。いや、もともと冷静沈着な男だったのだが。
「まず悪い知らせからだ。父上はまだ行方不明だ。フィンガーフート家の資産はほとんど接収された」
「……そうか……」
そう聞いても、すべてが遠い世界のように思えた。帰れるとも思っていなかったから。
スノウの魂は、いまだにオベルにあった。オベルの島のはずれの、あの岬の家のあたりをさまよっていたのだ。
「いい知らせとしては、ラズリルはきみを一市民として受け入れる」

スノウはぼんやりと聴いた言葉を繰り返した。
「……うけいれる……?」
今は副団長となったケネスは、男らしい顔に笑顔を浮かべた。
「とっくに決まってたんだぞ。さっさと帰ってくると思っていたのに……。まあ色々あったが、エルイール要塞を落とすときの軍功で、恩赦だ。とにかく普通にここで暮らしていいんだよ。一市民としてだがな」
「ケネス」
スノウはケネスを見つめ、頭を下げた。
「ありがとう」
「おれは何もしてないぞ。カタリナさんが島の評議会に掛け合ったのさ」
「そうなのか……」
そう聞くと、ますます身の置き所もない気持ちだった。カタリナが拷問を受けているのに怯えて、島を売ったのだから。
「ここは、イリスが住んでいた部屋だけど」
スノウははっと辺りを見回した。粗末な調度品、粗末なベッド、暗い明かり。確かにイリスが使っていた部屋だった。
「今日はここで休んでいくか? 行く所がないだろう」
スノウはふらふらとベッドに寄った。ベッドカバーに触れたとたん、涙があふれそうになった。
「ありがたいけど、ここでは、眠れない」
「スノウ?」
ケネスは怪訝そうに言った。
「いまだにイリスを嫌ってるのか? イリスと仲直りしたんじゃなかったのか」
スノウは顔を背けた。
「仲直りしたよ。これで、ぼくたちはまたお友達だ……もう、ただの友達になるしかないんだ……」
話しながら、涙があふれて来た。年下の若者を前に恥ずかしいと思ったが、自分でも抑えられなかった。
「スノウ……大丈夫なのか? いったい、何があったんだ?」
ケネスの胸にでもすがって泣けば気持ちも治まるのかもしれなかったが、スノウにもまだプライドがあった。
「ありがとう、ケネス」
何もわからず、戸惑っている若者の横をすり抜け、逃げるように館を出た。

外へ出ると、停泊している船がまばゆい光を放っている。幼いころは大好きな眺めだった。しばらく港の明かりを見つめ、波の音を聞いていると、気持ちが静まってきた。
それでも、歩き出さなければならない。
足元はふらついているが、まだ生きているのだ。
心はあの岬の家に置いてきてしまったが、体は戻ってきてしまったのだから。
「ここで、生きていくんだ。」
スノウは袖で乱暴に顔をぬぐい、足音を立てて歩き始めた。

ペルソナ・ノン・グラータ 終わり。

「きみのいる島へ帰ろう」へ続く。


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