オベルの西の浜 3. 2006-01-22
「は、放してください」
デスモンドは女の手を振り払った。女が一人で真夜中でいる理由など考える余裕もなかった。
「月夜だからって浮かれて泳いでると、人魚に引きずり込まれるよ?」
そういうご本人は、目深にスカーフで髪を隠し、あごの先だけを覗かせている。こんな浜辺で商売をしている娼婦か、浜辺でさまよう人外か。どちらにしても、ろくな相手ではない。
デスモンドはそっと立ち去ろうとした。
しかし女はデスモンドを呼び止めて言った。
「ねえ、あたし足が痛いんだ。さっき貝殻で足を切っちゃってさ。悪いけど、宿まで背負って行ってくれない?」
「な、何でぼくがそんな……」
すると女は、大げさな身振りで両手を上げた。
「困ってるレディを浜辺に放っていくの? 情がないねぇ。オベルは人情が豊かなんて嘘っぱちで、実は血も涙もないのかい? 群島中で言いふらしてやるよ!」
デスモンドは(レディって誰が)と腹の中で毒づいたが、脅されて仕方なく体をかがめた。自害しようとするものが、化かされて海に引きずりこまれるのが怖い、などというのもおかしいのだった。
女は背負ってみると存外重く、体温を供えた生身の人間で、亡霊ではなかった。だがそれ以上に若者を当惑させたのは、背中に当たる女の胸の感触だった。
「坊や、いくつよ?」
「16です。坊やじゃありません」
女は「そりゃ失礼しました」と声を上げて笑った。
見知らぬ女はその後も黙らない。
「ねえ、ほんとは身投げする気だったんだろ。ばればれだよ。なんで死にたかったわけ?」
デスモンドは力なく答えた。
「罪を犯したから。死罪になる前に、自分で自分の始末をつけるんです」
「死罪! 穏やかじゃないねえ。で、いったい何をしたの」
「ご主人様に手を上げて、お顔に傷を負わせてしまいました」
背中の女は少し沈黙の後、「お顔に傷をつけたので、自害?」とつぶやいた。
それ以上女はしゃべらない。若者が重労働に息も絶え絶えになったころ、二人はようやく宿にたどり着いた。
中に入ると宿の主人が、黙って鍵を差し出した。深夜をとうに過ぎて、主人は見るからに不機嫌だった。
そこでデスモンドは「それじゃ」と女を下ろそうとした。ところが女は、デスモンドの頭コツンと叩いて、「ほら、甥っ子。ぼやぼやしないで、鍵を受け取って」と横柄に言った。
「お、甥っ子?」
「さっさと歩く。部屋は右だよ!」
デスモンドは宿のおやじを見たが、おやじは「おれの知ったこっちゃない」というように、肩をすくめて見せた。
部屋にはほのくらい灯りがともされていた。女はスカーフを取り、ベッドの上に放り投げた。
反射的に女の顔を見たデスモンドは、目を見開いた。
左右のまぶたと頬が、赤く腫れあがっている。もとの顔立ちがわからないくらい、無残な状態だった。
金色の髪は、地肌が透けるほど短く刈り込まれていた。むしろ「剃られていた」といったほうがいい。その頭の一部に、怪我をして手当てをしたあとがあった。
美人なのか知らないが、なるほどこのむごい有様では、スカーフなしでは外も歩けまい。
「……驚いた?」
女は、ただひとつ無事である、赤い唇に笑みを浮かべた。醜く腫れ上がったまぶたの下で、透き通るように青い目がいたずらっぽく光っていた。
「その顔、どうしたんですか? 何か事故でも?」
「亭主に殴られたのさ。髪もね、そいつに切られた。カツラ用に売るんだとさ。体もあちこち傷だらけ……」
女は淡々と言った。
「亭主は気が弱くてね。気が弱すぎて女房を殴るってやつ。借金がひどくてね。しまいにあたしと赤ん坊を売り飛ばすってんで、逃げてきた」
「赤ん坊! どこです!」
デスモンドは部屋を見回したが、赤ん坊の気配などなかった。
女はかすかに微笑んだ。
「知り合いに預けた。亭主が手を出せないような、すごく強い男だ。亭主はあたしを追ってる。きっと怒り狂ってるよ、だけど逃げて見せるさ。簡単には殺られないよ、親にもらった命だ」
デスモンドはうつむいた。
「なんで私にそんな話をするんですか」
「あんたが命を粗末にするからさ。……さてと、ちょっとこっちへおいで、坊や」
そういって女は、自分の座ったベッドの横を叩いた。
「な、なんです」
「死にたがってるバカな坊やに、女ってのを教えてやるのよ」
デスモンドは驚愕を通り越して、腰を抜かす寸前だった。腫れあがった顔の、しかも頭を剃られた女が、ベッドを叩いてあからさまに誘っている……。
「す、す、すみません。わたしはもう行かないと!」
「いいから、ここにお座り。言っとくけど、あたしは娼婦じゃないし、お前みたいなガキから金を取ろうとも思わないよ」
デスモンドはますます怯えて、後ろ向きに一歩下がった。
「坊や。お聞き。世間は広いんだ。ご主人だか王様だか知らないが、そいつの面をちょっと引っ掻いたくらいで死のうなんて、阿呆のするこった!」
「あ、阿呆……」
「阿呆で悪けりゃ、世間知らずだ。16にもなって女に恥をかかせるもんじゃないよ!」
デスモンドは女の剣幕に押されて、命令に従った。並んで座るとやはり、女は華奢だった。女はデスモンドの手首を取り、「きれいな手。こんな手をしている男はお役人くらいなもんだよ」とつぶやいた。
デスモンドが何か言おうとする前に、女は少し体を浮かして、小さな顔を近づけてきた。
女の唇がそっと触れたとたん、若者は息ができなくなり、頭がぼうっとしてきた。女の唇につけている化粧品なのか、口の中に甘い香りが広がった。抱きしめられても、王様に無理やり組み敷かれたときのような恐怖は感じなかった。
絶望的な状況で、知らない女と初めて寝ようとしている。
だが、この女に触れられると、心の底に渦巻いていた屈辱や絶望が消えていって、ただ甘い味と感覚だけが広がってくるのだった。
「息はしていいんだよ」
女は優しい、笑いを含んだ声で言った。若者はかすれた声で、「ぼくはデスモンド」と答えた。
「つまらない人間です。こんなぼくに情けを掛けてくれるあなたのお名前を、どうか教えてください」
すると女は、名は教えてくれず、ただ「西の浜の女」と笑ったのだった。
オベルの西の浜、4
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