オベルの西の浜 4.
一羽が鳴くと、また続けて一羽が鳴く。オベルの民家で飼っている鶏が目を覚まし、盛んに鳴き始める時刻になった。
部屋の灯りはいつのまにか消え、柔らかい朝の光が差していた。デスモンドはそっと体を起こし、横で眠る女を見つめた。
夜、濃く塗っていた赤い口紅はすっかり落ちていた。その口紅は、何十回も繰り返したキスの間に、デスモンドの口に塗り付けられたのかもしれなかった。
この女の脚や尻には、夫に蹴られてできたという、青黒いアザがある。古いアザやかさぶたは数知れない。美しいに違いない、小さな白い顔も、殴られて腫れあがっていた。
(こんな体でぼくを抱いてくれた。平気だといって。でも痛くなかったはずがない)
はだけた白い胸と、その上の細い首すじには、小さな赤いあざがついている。
昨夜、若者は女に言われるまま、強く唇を押し付け、頭に血が上るままに、掴んでしまったりもした。そのときに柔らかい皮膚に内出血がついたに違いなかった。
ようやく教えてもらった名前を、ごく小さな声で呼んでみた。
「ルゥ……」
女はけだるそうに身じろぎをして、目を開けた。水色の目で、しばらく不思議そうにデスモンドを見つめた。
「ごめんなさい。ルゥ。起こすつもりはなかったんだけど」
「いいさ。どうやら死神は逃げてったようだね。ええと……お前はデスモンドだっけね」
女は疲れた、優しい声で言い、デスモンドの髪を撫で付けた。
「今日、ミドルポート行きの船が出るんだ。あんたも行くかい? 外の世界を見るのも悪かないよ」
デスモンドは、女の細い手をそっと取った。
「行きます。どうかお供させてください」
「ミドルポートだよ! ラズリルまで行くよ! これを逃せば次は来月だ!」
船の前には、かなりな行列が出来ていた。中型の粗末な船だが文句は言えない。デスモンドはルゥのために荷物を背負い、スカーフで顔を隠したルゥの手を引いて、船へと上っていった。
王宮の兵らしき姿は、港にも甲板にもおらず、至って平和なものだった。
船室に落ち着いたルゥは、大きくため息をついた。
「やっぱりさ、顔引っ掻いただけで死罪なんて、絶対ないって。心配するだけ損だよ」
「すみません」
「ま、いいさ。お茶でも飲む? ふふ。なんだか駆け落ちみたいだよね、あたしたち。ほんとは赤の他人なのにさ」
ルゥが差し出した茶を、デスモンドは両手で受けた。
「ルゥ。ミドルポートに着いたら、一緒に住みませんか?」
「ん?」
「あなたとぼくと二人。いいえ、三人です。あなたの子供も一緒に」
女は驚いたのか、言葉に詰まっているようだった。
「何を言ってるのさ」
「赤ちゃんですよ。連れ戻しましょう。ぼくはなんでもします。店番をして帳簿をつけて、足りなかったら町で三弦弾いて、歌って歩いてでも、あなたを養います」
女が「あのね、デスモンド……」と言いかけたとき、兵士がどかどかと船室に入ってきた。そのうちの一人は、王宮の衛兵で顔見知りだった。
彼はデスモンドを見て、「ここだ、居たぞ!」と声を上げた。反射的に逃げようとしたが、訓練された屈強のものに敵うはずがない。すぐに捕まり、両腕をねじり上げられていた。
兵士らはデスモンドを引き据え、ポケットを探った。武器を持っていないのを確かめているようだった。
ルゥが真っ青な顔をして、「うそだろ」とつぶやいたが、兵士らは見向きもしなかった。
デスモンドはルゥを見つめて、ようやく「一緒に、行けなくなりました。お元気で、どうか」とだけ言うと、兵士らに引きずられて行った。
オベルの西の浜5(完結)
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