右手にはいつも水の紋章
2005/08/18
1
オベルの巨大船の内部は入り組んでいて、特に新参者には迷路のようだ。
その迷路の中に無数の人間がひしめいている。
スノウは、手にはカゴを携え、ブリッジを横切り、第一甲板に下りる薄暗い階段に向かった。
好奇、または敵意に満ちた視線に耐えながら、底の抜けそうな靴でぺたぺたと歩いていった。
イリスの使っている小さな部屋に向かおうとすると、3人の若い女たちに囲まれた。
その中でもっとも大人びた金髪碧眼の女剣士が、丁寧だが有無を言わせぬ口調でこう言った。
「ここは軍主殿の部屋です。ご用件ならわれわれがお聞きします。ご意見はそちらの目安箱へどうぞ」
「わたしはラズリルのスノウ・フィンガーフート、イリスに会わせていただけませんか」
女剣士はスノウの剣にちらりと目をやった。
みすぼらしい身なりをしているのに、腰には立派な剣を下げているのを、あきらかに怪しまれているのを感じる。
「申し訳ないが、イリスどのは今お休みになっている。大変お疲れなので、お取次ぎはできない。伝言は承る」とにべもない。
「では、出直します。このワインを彼に渡していただけたらありがたいのですが」
「わかりました。お名前はスノウ・フィンガーフート殿でしたね」
スノウが立ち去ろうとすると、ドアがふいに開いた。イリスが寄りかかるようにして立っていた。
「その人なら覚えておいて。ぼくらの新しい仲間なんだからね。スノウ、入って」
スノウが入ろうとすると、「剣はお預かりします」と言って護衛の中のもっとも若い娘が手を差し出した。
若者は恥辱に顔を赤らめながら、剣を腰からはずしてそっと娘に渡した。
華奢なつくりに見えたのだろう、娘は片手で剣を受け取ったとたん、取り落としそうになり、あっと悲鳴を上げた。かろうじて体格のいい娘のほうが剣を支えたので、足の上に落とさずにすんだ。
「なにやってるの、危ないでしょう、ミレイ」
「だって重いんだもの」
「見た目で判断しちゃダメよ。衝撃を与えると剣に良くないから気をつけなさい」
若い娘たちの声も、イリスがドアを閉めるとともに聞こえなくなった。
「ごめん、悪かった。だけどあの娘たちもピリピリしてるんだ」
イリスの声は少し上ずっているように聞こえた。呼気にかなりの酒のにおいがしたので、どこかで飲んでいたのかもしれなかった。
スノウはイリスの顔がまともに見られなくて、足元に目を落とした。靴には穴が開き、親指が覗いている。
スノウの胸にまた、(恥ずかしい)という感情が沸きあがった。
(来なきゃよかったかな)
こんなひどい服装を見れば、誰でも「不審者」だと思うだろう。そんなことも考えずに、のこのこと来てしまい、また恥をさらした。
「気分悪くしただろうけど、彼女たちを許してやってくれ」
「もちろんわかってるよ。それに急に来たぼくのほうが悪い」
スノウは震える声で答え、がっしりしたテーブルにワインの入ったかごを置いた。
「軍師の先生はお酒が好きなんだってね。もしよかったら、先生とどうぞ」
「先生とはさっきまで飲んでて、潰してきた。せっかくだから一緒に飲もうよ、スノウ」
イリスはどこで覚えたのか、手早くコルクを抜き始めた。いつからこんな大酒のみになったんだか。
テーブルの上に二つ並んだグラスに、赤いワインが注がれ、灯火の下で赤い輝きを放っていた。
イリスの肩のむこうには粗末なベッドが見える。イリスはここでいつも、たった一人で寝ているのだろうか。それとも、誰かを誘って二人で寝ることもあるのだろうか。
唐突に、スノウは顔を赤らめた。
自分はなにを考えているのか。
友情を修復するための話し合いなら、もう少し明るい場所を選ぶべきだったのだろう。ここはいったん引き上げるべきだ。
「君は疲れていると聞いたので。これで失礼する。ゆっくり休んでくれ」
「待てよ。おれ疲れてなんかいないって。とにかく座って」
スノウは少し意地悪く答えた。
「それは軍主としての命令?」
「お願いしてるんだよ、スノウ坊ちゃん」
しかたなく座ると、イリスはいたずらっぽい笑いを浮かべた。
「スノウは相変わらず、表情がすぐ顔に出るんだ」
そういって上機嫌に壁を指し示した。
「やっと見つけた。君の服だ」
指差す壁に目をやると、スノウが「海賊船」に乗っていたころに着ていた服がかかっていた。
「なんとか決戦に間に合った。まだ生乾きだけど、君の勝負服だ」
「そんなことしなくても、ぼくはこれで十分……」
抗議をしかけたスノウを、イリスは手でさえぎった。
「スノウには、かっこよくしていてほしいからね」
イリスはまたスノウのグラスにワインを足しながら、続けた。
「それに、いつ何があるかわからないし。おれも戦いの前には新しい下着をつけるようにしてる。タルにも新しい褌をしめろ、ヒゲはきれいに剃れ、と言ってある」
スノウは笑った。
「武人のたしなみってヤツだね」
「やっと笑ったな」
イリスはうれしそうに言った。
「で、何かあったの? 泣きそうな顔してる。誰かに何か言われたのか? 何かあったらおれに言えよ、なんとでもするからさ」
少しアルコールが入ったためか、スノウも口が軽くなっていた。
「何もない、みんな優しいよ。ただ、白い帆を見てたら思い出したんだ。イリスは白い帆が好きだって言ってたなあって。君がいなくて寂しい、と思った。イリスはなにをしているかなあ……って」
「おれが居なかったらさびしい?」
イリスは大きな青い目を見開いて、スノウを見ていた。
スノウはひどく慌てた。
「そ、そうだよ。それに、助けてもらって本当に、本当に感謝してるんだ。ぼくの持ってる力は全部イリスに預ける。い、いや、ぼくの力なんか大して役に立たないと思うけど……けど最近、けっこう自分でも強くなってきたと思う。ラインハルトさんに鍛えてもらったしね。こうなったらもう、ぼくにできることは何でもするから」
スノウはイリスの、揺らがない大きな緑の目が恐ろしく、一気にまくし立てた。
しかし終いには何を言いたいのか、自分でもわからなくなり、やがて黙り込んだ。
旅の紋章球の青い光が、ちらちらとイリスの顔を映し出した。
ふいに表情がなくなった目が、なんだか恐ろしかった。
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