右手にはいつも水の紋章
2
沈黙をやぶったのはイリスのほうだった。
「何でもするというのは、本心から言っているの?」
スノウは「もちろんだ、男に二言はない」と大きくうなずいた。
少年はすると、厳しい顔つきでこういった。
「スノウにお願いがある。今夜ここでおれと寝てください」
スノウは一瞬言葉に詰まったが、「飲み明かすのもいいけど、明日の戦いに差し支えるだろう」と答えた。
はぐらかそうとしたのだ。するとイリスは、珍しく苛立って、きつい声で答えた。
「おれはスノウ、おれと寝てくれって言ったんだ」
スノウは、しかたなく間抜けな突込みをいれることにした。
「いいけど、ベッドはひとつしかないね。ぼくのハンモックを持ってくるかな」
「もちろん同じベッドで寝るんだ」
少年の清楚な外観と、言ったことの内容と、口調がすべてアンバランスだった。
「服を脱いで、ここに来てください」
気持ちよく揺れていた船が、少し大きく揺れた。風が出てきたのかもしれなかった。
「それは軍主としての、命令?」
「お願いしてるんだ」
スノウはイリスを見つめ、「お願いって言い方じゃないな」と言い返した。命令でなければ、駄々をこねているのだ。
「もう時間がない。このまま進めば、明後日にはクールークの第一艦隊とぶつかる。これまでで一番手ごわい相手だ。罰の紋章も使わなければいけないかもしれない、そしたらもう命が持たない」
「だから恐くてさびしいから、一緒に寝てくれって? なんでぼくなんだい?」
スノウはドアを指差した。
「外には、君を慕ってる女の子もいるんだろう? なんで声をかけない」
「どう取ってもらっても、どんなに軽蔑してもらってもいい。スノウ以外は抱きたくない」
イリスは自分の、地味なラグをかけた、粗末な木のベッドを見やった。
「誰かを誘ったことはないし、そんな気分になったこともない。気がついたらここまで来ていた。だけどクールーク第一艦隊は強い。この紋章を使わずに勝てるとは思っていない。仲間を守るためには、必要になったらおれは紋章を使う、そして死ぬ……紋章がそれを望んでいるんだ、おれにはわかる」
「イリス」
きみはまるで人身御供だな、と若者は言いかけて、やめた。
まるでどころか、人身御供そのものだったからだ。
「スノウの腕の中で一晩眠ったら、おれは満足して死ねると思うんだ。こんなおれでも、生まれてきた意味があったと思えるに違いないんだ」
イリスが何か言うたびに、被っていた大人の仮面がはがれていくようだった。
「戦う前から死ぬことばかり考えちゃだめだよ、イリス」
ここへ来てイリスを励ますことになるとは、スノウにとっても予想外だった。少年は、黒い手袋に包まれた左手を見おろして、つぶやいた。
「おれだって死にたくない。だけど紋章を宿した瞬間、結果がわかってしまったんだ。ここまで命が延びたのは仲間のおかげなんだ、スノウも含めて」
「ぼ、ぼくは君を殺そうと」
「スノウは、おれの命乞いをしてくれた……カタリナからそれを聞いた」
スノウは、黙ってイリスを見つめていた。そして無言で立ち上がって、旅の封印球のそばに行き、上着を脱いだ。
呆然としているイリスに、無数の小さな火傷のある背中を向けた。治ったあと、跡が醜く盛り上がっているものもあった。
「これは、私拿捕船の船長に、タバコの火を押しつけられた。世の中にはそういう趣味のやつもいる」
さらに膝下ほどしか長さのない、ボロ布のようなパンツを落とし、白い脚をむき出しにした。太腿には、一面に赤いできものが浮いていた。
それを見るたびに、スノウは自分でも虫唾が走る。イリスが気持ち悪く思わないはずはなかった。
「暗いところで仕事をしていたし、相手の状態なんて見てなかったから、どの相手にもらった病気なのかはわからない。確実なのは、ぼくと寝るとイリスにもこれが伝染るってことだ」
イリスは立ち上がり、ふらふらと近づいてきた。目もうつろで、今にも倒れそうだった。
スノウは少しやりすぎたかと思いつつ、ぼろぼろのパンツをあげ、ベルトを締めた。
漂流しているときに丸太に巣くっていた虫か何かに刺されて、その跡がうまく治らないだけなのだが、イリスは見事にだまされていた。
「わかっただろう? こんな汚らしい男が、今のぼくだ。今のイリスは、とてもかっこいい。これからどんどんいい男になる。ぼくなんかよりずっと君にふさわしい相手が必ずいるはずだ」
そして上着を被り、柄にもない説教を言い切った。
「イリスは勝って、生き抜いて、幸せにならなければならない。こんなぼくを抱いてそれで満足して、後は死んでもいいなんて言っちゃいけない。いいかい、君はまだ死んでいい年じゃない」
イリスはうつむいて肩を震わせていた。まだ少年らしさの残る頬に、涙が流れているのが見えた。
昔スノウがどんな意地悪を言っても、泣いたことのない少年が泣いていた。
「おれが……スノウを行かせたから……そんな目に……」
「イ、イリス。違うんだよ、これはみんなぼくが招いたことで」
「おれの、せいだ……おれのスノウが……」
「違うったら、イリス。いい子だから泣かないでくれ、頼むから」
スノウは慌ててイリスの丸い頭を抱きしめた。胸が締め付けられるように痛かった。
「ぼくらは二人とも、もうぼろぼろなんだね……」
スノウの意図は見事に外れてしまった。
スノウはイリスの滑らかな頬にキスをした。
それは小麦色に日焼けをし、子供のような白い産毛が生えていた。自分が触れたら汚れるような気もしたが、後戻りは出来なかった。
「イリスはまだぼくが欲しい?」
少年はうなずいた。
「ではおいで、イリス」
スノウは年上らしく優しく言うと、イリスの手を引いてベッドに座り、封印球に自分の上着をかけた。
右手にはいつも水の紋章3
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