繁殖試験レポート(前)  00/08/29

登場人物: 
川上孝、岡山にある会社の、研究員。 31歳
川上聡美、川上の妻、34歳
聡美の母。
山田室長。 主任研究員。川上の上司。 40歳



 餌の匂いと、マウスの匂いが入り混じって漂う、実験棟。

 ケージの中では、発情期真っ只中のマウスが、愛の交歓をはじめようとしていた。
 メスの尻を、オスが追いまわすが、メスは逃げ惑って叫んだ。

「やん。 触らないでよ、えっち。 ケダモノ」
「いいじゃん。 硬いこと言わないで、やろうよ」
「やだってばン。 あん、やめてったらン」
「でへへ。イヤよイヤよもスキのうち、っていうじゃん」
「イヤン、ばかっ。 ……あんっ」

 もちろん、実際にこんな会話をしてるわけではない。
 ことばを持たない彼らのため、親切なおれが声色を使って、実況中継してやってるのだ。

 そしてメスがやっとその気になり、自らの美味そうな尻を上げ、その上に嬉々としてオスがマウントする。

「えへへ。 どうだ? どうだ?」
「あん。なんか、いい……ああんっ」
「すごく濡れてる。 えっちなんだなあ! おお、締まるっ」
「あんあんっ。 もお、イクう」

 色っぽい声でメスが鳴いてるじゃないか。そしてオスのマウスも歓喜の声を上げる。
 やつらの声を代弁してるうちに、つい興奮してしまった。

 ずっとセックスしてないから、こんなもんで勃起しちまったじゃないか。
 
 断っとくが、おれは変態じゃない。そう見えるかもしれないが。
 製薬メーカーの依頼で、マウスを使って薬の毒性を調べるという、しごくまっとうな仕事をしているものだ。

 急性毒性、亜急性毒性試験は既に終わり、今は慢性毒性試験、繁殖試験が同時進行中だ。
目の前でえっちしてるマウスたちは、産まれてすぐから、餌に混ぜて、ある薬品を与えられ続けている。
 その結果が子孫にどんな影響を及ぼすか、いわゆる「繁殖実験」をやってるわけだ。
 
 仔を産むまでの命とも知らず、マウスたちはがんばっている。 
 そして、産まれてくる仔も全部、安楽死させて、解剖される。
 まあそんなことはいつもやってることだ。
 いまさらどうこういうつもりはないが、おれの股間のほうが問題だ。

 実験室で抜くわけにもいかないし、今日は残業する予定だし。
 切ないため息をついたときだった。

「や、川上さん。 元気にサカってますかな」
 いきなり山田室長が顔を見せて、おれは飛びあがった。

 今の文の主語は、おれじゃなくて、マウスだよな。
 剃り跡の青い、やたら濃い顔は、マスクで隠れている。
 白衣を着ていなければ、ギンギンの股間に気づかれるところだった。 あせるじゃないか。

「盛ってますよ、ほら」
 おれはマウスのケージを指差した。
「元気なものです、うらやましい」
「そろそろ、休憩にしよう」

 室長は背が高くて、鴨居に頭をぶつけそうなのを、さっとよけて、実験室から出ていった。

 出口の所でキャップと白衣を脱ぎ、マスクを外して、念入りに手と顔を洗った。
 箱入りマウスたちは、オレらより清潔かもしれないが、これもきまりだから。

 執務室は、もうおれと室長しか残っていない。
「川上さん、奥さんの具合は?」
「あ、ありがとうございます。 なんとか安定してるみたいです」




 おれの家内は、実家のある長野にいる。
 月に一度はこちらから会いに行ってるが、そのたびに笑顔で迎えてくれる。

「タカシ、浮気してない?」
「してないよ。 聡美が大変なときなんだから……」
「怪しいなあ。浮気したらぶっ殺すからねっ」
 信じていないらしい。 恐い女房だ。



 でも本当に、この半年以上、誰ともセックスしていない。 妻は絶対安静で、セックスなんてとても無理。
 今、カノジョは妊娠8ヶ月だ。 切迫早産で入院し、点滴を受けてる。
 身ごもったときは、おれたちは長野の、妻の実家のそばに住んでいた。

 妻は、これでもう4回も流産している。 簡単に妊娠するのだが、原因不明で流産してしまう、不育症だ。
 手術の後、麻酔からまだ覚めてもいないのに、涙をこぼしながら「……タカシぃ……赤ちゃん、死んじゃうのよう……助けてよう」と言うのを聞いた。
 明るくて、しっかりもので、気が強い彼女が、涙をこぼすのをみた。
 だから、おれは何でもしようと思った。

 一日二箱吸っていた、タバコを止めた。
 隠しておいた、昔の恋人の写真を全部焼き捨てた。
 あちこちに願掛けに走り、二人で体によいという温泉(つまり子宝の湯)に行ったりもした。
 それくらいしかできなかったけど。
 
 今回はなんとか2ヶ月にこぎつけたとき、おれが転勤になってしまった。

 そのときも、安静にしなくちゃいけない状態で、流産予防の薬も飲んでたんだから、動かすのは絶対だめだった。
 で、彼女は実家にお願いして、おれはただひとり、この研究所に単身赴任したわけだ。

 寂しいこの田舎、ソープもない環境は、おれにとってはかえって都合がいい。
 遊んだりしない、二度と浮気もしないと決めてるからだ。

 
「250ミリ缶、あったかな……」
 事務室の冷蔵庫には、なぜかビールがいつも冷えている。 で、スルメや柿ピーなんかも常備してある。
 もちろん時間内は飲まない。
 残業してるときにビールを一杯やるのが、山田室長の楽しみなのだ。
 部下としては、付き合わないわけにはいかない。 しかも中元はだいたいビールだったりする。

「あ、どっちでもいいっす。あるもんで、おれは」
「あるある。 ほら、まあ一杯」
 
 おれは小さな缶で、室長はもひとつ大きめのやつ。
 苦い泡で一息つく。 まあ、それ以上飲むわけにはいかない。
 11時にもう一度、動物の状態を確認する必要がある。

 時計を見ると、8時だった。 一息入れて、すぐにおれは文献の整理をはじめた。

 突然、電話が鳴った。
 受話器を取ってみると、家内の母親からだった。
「あ、タカさん? まだ仕事中? 聡美、どうやらお産になりそうなの。 もう止められないって」
「え? ええっ。 でもまだ、予定日まで、一月もあるのに?」
「そうなのよ。 でもしかたないわ。 よく育ってるから大丈夫だって。 じゃ、切るね」
「……あ、あ、あの、聡美に、がんばるように……言って下さい……お母さん、よろしくお願いします……」
「わかった! じゃあ、産まれたらまた電話するわ!」
 
 なんだか、すごく張り切った声だった。 初孫だからなあ。

 おれは、受話器をつかんだまま、へたへたと座りこんだ。無意識に、立ちあがって話していたらしい。
 ついに、ついにおれも父親に……。


「どした? 川上さん」
「女房が……もう出そうって」
「はあ?」
「コドモが……」
 すると、室長はにっこりした。

「それは、おめでとう! オトコですか、オンナですか?」
「まだ産まれてません。」
「あ、そうか。 失礼」

 こんなときに、おれは何もできない。
 産まれたら速攻でかけつけたいが、仕事が忙しくて、それもできるかどうか。

 おれは仕事を続けようとしたが、ボールペンを持つ手が震えて、ミミズの這うような字しか書けない。
 とうとう。 結婚7年目で、おれたちもとうとう親に。
 
「まあ、飲んで飲んで」
 室長はおれに、またビールを差し出した。
 おれ、最近あんまり強くないんだけどな……。
「心配しなさんな。 なんなら、11時のケージの確認はオレがするから」
 室長は、濃い眉を上げて笑った。
 大変な酒豪なので、ビール一杯なんて水同然なのだろう。

 おれたちは軽く一杯やって、それぞれの仕事に戻ったのだった。




 はっと気づいたら、連日の残業疲れがたたったか。
 ファイルの上にうつぶせて寝ていた。
 
 文献の整理をしながら、いつのまにか眠ってしまったらしい。
 仕事中に寝るなんて。 しかも、上司の、斜め前の席で。

 おそるおそる見上げると、室長がパソコンに向かっていた。
 気がついたかな……。

 室長はふいに目を上げた。 目が会うと、にっこりする。
 すっと立ちあがって、コップに水を汲んできた。
 それをオレに差し出して、「まあ飲んで」という。
 
「相変わらず、酒に弱いな、川上さん」
「あ、あ……すみませ……」
「いや、いいんだ。 きみの寝顔も見れたしね。 寝言でサトミィ、なんて可愛い声で言ってましたよ」
「は……」
「ただ、問題がある。 ナンだと思う?」
「なんですか」
「もよおしてしまったんですよね、私」
「は、はあ?」


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