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与那城里之子の語る
ジラーの家から逃げ帰る途中、歩きながら帯を腰に巻きつけた。
もはや情けを云々している場合ではない。小嶺に事の次第を打ち明けて、与人として為すべきことを為すのみだ。 仏の顔も二度、三度というが、私は仏ならぬ匹夫の身である。
銀の髪差しをひとつ、ジラーに抜かれてしまったため、髷もかろうじて載っている状態であった。
髪を掻き揚げながら、情けなさが募るばかりだ。 口の中にはまだ、ジラーの臭いが残っていた。 こうして、私は何処までも愚かに生きて、愚かに果てるしかないのか?
「与人主!」
クワディーサーの木影から、ぱっと飛び出してきた男があった。深く考え込んでいた私は、思わず大声を上げた。波平良耕作筆者が驚愕して私を見ていた。
「脅かすな、この愚か者!」 と怒鳴ると、筆者は困ったように頭を掻いたが、すぐに意味ありげに微笑んだのである。
「どこぞの人妻と『お話』をしていて、亭主に追いかけられたんですか?」
「よしてくれ、歩いていて着崩れしただけだ」
筆者は、また笑顔を作った。
「まあ騙されておきましょう。ところで与人主、首里育ちの与人主には、この島はさぞ退屈でしょうね。何ぞご不自由はありませんか?」
「宿主のサンラーが気を遣ってくれている。ここでの暮らしに、何の不満もない。気遣いは無用だ」
「そうではなくて。爺さんの顔ばかり朝夕見ていると、小嶺どののように老け込みますよ」
筆者の言いたいことはわかってきていたが、気が急いていたので相手をする余裕はない。
「別にかまわぬ。首里でも爺さんの顔ばかり見ていた、前とかわらぬ」
しかし筆者は、私が迷惑がっていることなどものともしない。
「私の知り合いの女が、是非とも、与人の身の回りのお世話をしたいと申しております。数え19で、器量もよく働き者です。目差主のお宿が修理できるのを待って、会ってみてはいかがかと……」
もはや遠慮している場合ではなかった。
「要らぬ。急ぐので失礼する」
慇懃無礼に言い捨てると、筆者を置き去りにして、宿へと急いだ。
小嶺は、寝息を立てて眠っていた。だが枕元に座ると、小嶺ははっと目を覚ました。存外眠りは浅かったのである。
「起こしてしまったか。気分はどうだ?」
「悪くありません」
額に手をつけてみると、もう熱くはなかった。何より、目つきに生気が戻っていた。
「里前の夢を見ていました」
「良い夢か?」
小嶺は笑って、「言いませんよ。良い夢はひとに話してはいけないんです」と答えた。
かなり元気そうにも見え、この様子なら相談できると踏んだのである。
「ジラーのことだが、やはりお前の言うことが正しい。この件、蔵元に報告しようと思う。ウサーは可愛そうだが、罪は罪として裁かねばならぬ」
ありのままに言う勇気のない私は、卑怯者である。しかし小嶺は、『何故気が変わったのか』と問い詰めることもなく、ただ生真面目に頷いた。
「良いご判断です。まずは、ジラーの身柄を確保しておかねばなりません。自害などをされると我らの責任問題ですから、捕らえて、厳しく詮議します。蔵元への報告も、飛び船を仕立てて書状にて行います。罪状は逐一、状況も含めてありのままに、書かねばなりません」
それを聞いて、もう隠し通すことは出来ぬことを知り、「お前に話すことがある。 身内の恥を晒すことになるが、聞いてくれ」 と切り出した。 小嶺が眉を上げた。
「お身内の恥?」
だが、言葉を続けようとしたときであった、波平良が中庭に飛び込んできて、叫んだのである。
「ジラーの家の使用人が、小娘が、くびり殺されております!」
そして胸元から布を取り出した。 鈍い輝きを放つ、銀の髪差し。 銀の簪は平民には許されないものだ。 この村では目差と私、そして波平良筆者の三人だけが持っている。
簪を一本しか差していない私は、それが自分のものであると認めるしかなかった。
「確かにそれは私のだ。先程ジラーの家で落としたのだろう」
後ろで、小嶺が息を呑んだ。
「里之子、まさかお一人でジラーと!」
しかし、耕作筆者が話を蹴飛ばすように割り込んできたのである。
「小娘の姿を、ご覧になりましたか?」
「厨で、見かけた。ジラーの言いつけで鍋の番をしていると言った。ジラーが入ってきたら……怯えて、出て行った」
鍋の底をかき混ぜている娘の、小さな姿が目に浮かんだ。あの腐臭のする厨で絶命したのであろうか。さぞ苦しかっただろう。どんな顔をしていたか、思い出せない。
「あなたが厨から逃げていくのを見たものがおります。そのあと厨に入ると、娘が死んでいた、と申すものがおります。与人主、何かお心あたりは?」
「知らない。私は、ジラーと少し話をしただけだ。 ジラーに聞いてくれ、そうすれば」
何と、愚かなことか。 父を恨み、私をも憎む男が、いまさら本当のことを言うはずがない。 使い走りの小娘が頓死したら、これ幸いと私に罪を着せてしまうだろう。 絶句した私に、筆者が追い討ちをかけてきた。
「あなたは、帯を結ばずに歩いていた。間男をして見つかりでもなさったかと申し上げましたが、もしや」
「やめろ、波平良! 与人主を取り調べるのは、耕作筆者の仕事ではない!」
小嶺の怒声に、筆者はようやく口を噤んだが、(お前に出来るのか)と言いたげに小嶺を見つめた。 小嶺は動じなかった。
「お前は、ジラーの厨に誰も入らないように見張れ。場所を誰にも荒らさせるな、わしが検分する。それと、娘はそのまま動かすな。触ってもならん。 それから、しばらく与人主と二人にしてくれ。事情をお聞きする」
不満げな筆者を追い出した後、小嶺は静かに障子を閉めた。
「ジラーの家にお一人で行かれたのか?」
「行った」
「お気が変わって、ジラーを断罪せよとおっしゃったのは、何故ですか」
「やつは、面妖な煮汁の中で、ビジュルを煮ていた。 あれで誰かに呪いをかけようとしていたのだろう。 懲りぬ男だ」
「確かに懲りぬ男。だがそれだけですか」
小嶺が、迫ってくる。 私は思わず、一歩後へ退いた。
「ジラーはわが父に恋情を持っていた。 母に対してではないのだ、父に捨てられて恨んでいるといった。 だからその息子の私も、恨んでいるといった。私に父の面影があるかららしい」
「さもありなん。……しかし、それだけで気が変わったのですか?」
小嶺はそう呟き、肩に手を置いた。指の先が肉に骨に食い込むようだった。
「それだけだ」
「何ぞ、痛い目にあったから、気が変わったのではないのですか?」
私は首を振った。しばらくきつい目で私を見ていたと思うと、小嶺はいきなり私の胸元に手を突っ込み、懐剣を掴んだ。
「しばしこれはお預かりする」
あっという間の出来事だった。
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2008/2/9